第123話 記憶の奔流



 カップをかたむけながら、シュワラは俺に視線を送り、ソファに座るよううながした。


長居ながいするつもりはない。今日は文句を言いに来ただけだ」


「奇遇ね、私もよ。あなたに文句が言いたかったの」


 俺のことを鋭い目つきで睨んだシュワラは「紅茶でよろしいかしら」と言うと、執事にティーカップを用意させた。

 

 座った俺の前にカップが置かれる。

 高い茶葉を使っているのだろう漂う湯気から、良い香りがしたが、安全が確認出来るまで手はつけないでおくことにした。


「では、まずそちらの言い分を聞こうかしら」


 一口紅茶を味わった後、シュワラは俺と向き直った。


「何のだ」


「どうして私が送った使いをコテンパンにして送り届けてきたのか。言い分を聞かせてもらえますか?」


「……ナイフを持って奴が急に上がりこんできたら、誰だってそうする。そっちこそどういうつもりだ。あからさまにカタギじゃ無い奴らを送り込むなんて」


滞納者たいのうしゃには当然の対応です。万が一ということがないように、シャラディ家の差し押さえ人は特殊な訓練を積んでいますから」


「……滞納者?」


「何をとぼけていらっしゃるのですか」


 シュワラは眉をあげて、俺を見た。


「手紙も散々送っていました。先月中に弁償しなければ、差し押さえに伺うと。私は通告通りに行ったに過ぎないのに、まさか返り討ちにするなんて、非常識にもほどがあります」


「…………手紙? 弁償?」


「……とぼけるのもいい加減にしなさい!」


 俺の返答に相当いら立ったのか、シュワラは立ち上がって怒鳴り散らし始めた。


「病院の一件です! 忘れたとはいませんよ! 好意で泊めてやったにも関わらず、ベッドを台無しにするなんて! 朝起きたらベッドはもぬけの殻、シーツは気持ち悪いオイルまみれ、マットレスにも染み込んでいる! さらにはナース服4着も窃盗しましたね、この変態!!!」


「あ、うーん……?」


 思い出せない。

 オイル? ナース服?


「何のことだ」


「この後に及んで認めないつもりですか!? からかうのにも限度がありますよ!!」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。本当に身に覚えがないんだ。俺じゃなくて違うやつなんじゃないのか」


「開業前の病院です。あの部屋に泊まったのはあなたしかいません」


「そんな……」

 

 身に覚えがない。本当に記憶がない。

 シュワラの反応が真に迫っていることが恐ろしい。彼女は本気で俺のことを犯人だと思っている。


「俺の偽物……?」


 いや、それもない。

 カルカットで昏倒こんとうしたことは事実だ。そのあと、シャラディ家が運営する病院にお世話になったことも間違いない。


 しかし、オイルにナース服……?


「どうしてだろう、思い出せない」


「あなたもしかして、無意識で犯罪を……!?」


「そうじゃなくて……、いやそうなのか……?」


 やったことを覚えていない。

 無意識でナース服を奪って、オイルを撒いたとでも言うのだろうか。


「それじゃあ、ただの変態じゃないか!」


「さっきからそう言っているじゃない。いい加減にしなさいよ、あなた」


「どうして。何が起こっている……?」


「こっちが聞きたいわよ」


 深くため息をついたシュワラは「自治軍に引き渡そうかしら」と言って、頭を抱えた。周囲に立つ執事たちも、引きつった顔で俺のことを見ていた。


「まったく、パトレシアもこんな男とつるんでいるだなんて」


「…………何?」


「この変態って言ったのよ。ゲス野郎」


「違う、そうじゃない。誰か人の名前を言わなかったか」


 彼女が何かを言った瞬間、電流が走った気がした。


「……パトレシアのこと?」


 その名前だ。

 身体が裏返ったような感覚。シュワラがその名前を言うと、頭の中身が奇妙な音を立てる。

 

 なんだ、この感覚は。

 気持ち悪い。脳みその中に虫が巣食っているように、ガサガサと音がし始めている。


 むずがゆい。心地悪い。


「名前を言ってくれ。もう1度、言ってくれ!」


「あなた本当に大丈夫?」


「早く!!」


 困ったように肩をすくめたシュワラは仕方なさそうに言った。


「パトレシア……って言ったのよ。あの娘の名前。知り合いでしょ?」


 何だ。その名前は。

 知らない。知らないはずなのに、聞いたことがある。


「ねぇ、あなた本当に大丈夫?」


 シュワラの声が遠い。何を言っているか分からない。何も言わないでくれ、いや、何かを言ってくれ。


 ……俺は何を忘れている?


「ちょっと、ねぇ、ねぇってば!!」


 パトレ……なんだっけ。大事な誰かを見つけた気がした。ようやく出会うことができた。


 見失いたくない。

 行かないでくれ、と声を出す。叫ぶように出した声は、深い森に吸い込まれていく。影すらも残さずになくなっていく。残像すらない、残響すらない。記憶というのはなんてもろいんだろう。


「起きて!! ねぇ、息をしなさい!!」


 しがみつく。

 チカチカと光が見える。崩壊した城が見える。割れたステンドグラスが見える。白い霧のようなもので真っ白な空が見える。


 その空を見上げる3つの影が見える。


 ……パトレ◼︎◼︎◼︎


 ……◼︎ツ


 ……レ◼︎◼︎


 もう少しで思い出せそうだ。もう少し、もう少し。戻れなくなっても良い。2度と会えないくらいなら、ここで思い出せないくらいなら。





  —————たとえ死んだとしても良い。






「アンク、そこまでだ。もう良いよ」


 ぽんぽんと肩を優しく叩かれて目を覚ます。さまよっていた森から引き上げられて、明瞭めいりょうな意識の世界へと帰還する。


 さっきまで見ていたはずの光景は嘘のように消えていた。

 今は誰かの膝の上にいる。優しくて暖かな2つの目が俺のことを見ていた。


「リ……タ?」


 俺の顔を覗き込んだ彼女は小さく頷いた。安心したような、嬉しそうな笑みをリタは浮かべていた。いつもと変わらない彼女の姿がそこにあった。


「ただいま、ほら起きて」


 リタはそう言うと、俺の頬を平手でペチペチと軽く叩いた。

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