第40話 大英雄、カルカットを歩く
「良い匂いがするな……」
ナツが進んでいった通りは、食べ物の取引が多く行われる場所だった。
食糧品店やレストラン、酒場などが多く並んでいる。果物の甘ったるい匂いから、何かを調理する香ばしい匂いが胃袋を刺激する。
窓の向こう側に見える人々は、美味しそうな料理を食べて、見るからに幸せそうにしていた。
「うまそう……」
キョロキョロと辺りを見回していたサティも、よだれを
「お腹空くよねー、大丈夫、もうすぐ着くから」
「へぇ、オシャレな店だな。こんなところに卵を
「うん、お父さんの時からの付き合いで、うちの卵を定期的に仕入れてくれるの」
ナツが指差したのは、赤、白、黄と原色の看板で彩られたポップな店構えのレストランだった。「イエローダイニング」と書かれたその店は、お昼を過ぎたにも関わらず、たくさんの人たちで混み合っていた。相当な人気店だ。
「ちょっと遅れちゃったけど、大丈夫かなー。おーい、ベネディおじさーん」
路地から裏口の方に回り込んで、コンコンとノックすると、コック帽をかぶった人の良さそうなシェフが出てきた。タヌキのように丸々としたお腹を出している。
ベネディと呼ばれたその人はナツの顔を見ると、にこやかに微笑んだ。
「あぁ、ナツちゃん。遅かったから心配したよー」
「ごめんなさい、ちょっとトラブっちゃって」
「良いよ、良いよ。ディナーの時間には全然まだだし……おや、そちらの方は……」
ベネディは俺に視線を向けると、目を細めた。
「アンクです。ナツがいつもお世話になっています」
「……だ、大英雄さま?」
そう言うと、彼は慌てて姿勢を正して敬礼した。
美しい直立姿勢のまま、さっきまでとは打って変わってベネディは張りのある声で言った。
「こ、これは大変、失礼しました! お勤めご苦労さまです!」
「いや、こちらこそ……今日は単なる付き添いなんで、そんなにかしこまらなくても……」
「そうなの、慌てなくても良いよ、ベネディおじさん。アンクは私の幼馴染で、今日は一緒に買い物に来ただけ」
「そうでしたか……つい……」
ベネディは緊張した様子で、ハンカチで汗を拭いていた。その様子を見て、サティがツンツンと俺の肩を叩いて
「君も随分と名が売れているみたいじゃないか。国が配っていた君の
「あれか……本当に良い迷惑だった」
「まるで少女漫画のヒーローみたいだったね」
サティがからかうのも無理はない。
王国に女神討伐の功労者として、肖像画を描いてもらったのだが、それのイケメン度が10割増されていた。血色は良く、目もパッチリと開き、不健康そうなクマも省かれている。あらゆる顔の特徴を浄化されて、肖像画の中の「俺」はもはや別人と化している。
そのお陰で街を歩いていても、声をかけられることは少ない。だが、このベネディという人は俺の顔を見ただけで、気がついたようだった。
その理由を彼は変わらず緊張した様子で話し始めた。
「実は私、かつて私設兵としてイザーブまで援軍に行ったのです。そこで大英雄さまたちをお見かけして……」
「そうか……あの時に」
「はい、あなたたちはまるで鬼神のようでした。
帽子を取って、深々と頭を下げたベネディは、俺たちを店の中に招いてくれた。
「私が今こうして生きて、菓子屋なぞやっていられるのも大英雄さまのおかげです、良かったら何か食べていってください。もちろんお代はいただきません」
「良いんですか?」
「はい、もちろんです。ちょうど予約のキャンセルが入ったものですから」
「ベネディおじさんの作るプディングは絶品なんだよー、私も食べるのは久しぶりかなー」
「プディング……」
俺の後ろでサティが、ゴクリと唾を飲み込む。
店内にふんわりと香るバターと砂糖の甘い匂いに抗えなかったのか、サティは「行こう行こう」と言って俺たちの背中を押した。
店の隅っこに座ると、綺麗な中の様子を見渡すことが出来た。
店内は比較的裕福そうな人や、流行りのファッションに身を包んだ若者たちがほとんどだった。
「プディングとは」「あれもうまそう……」「なんだあれは」「良い匂い」「あれも……」「うまそう」「うま……」「そう」「はやく」「たべた」「い」
甘味はほとんど口にしたことが無いと言ったサティは、他の客が食べている料理を見て語彙を
色とりどりに輝く料理と、それを食べながら幸せそうに語り合う人々。これらの光景もまた『異端の王』を倒して、ようやく戻ってきたものだった。
「そうだよ。こうやって、プディングが食べられるのもアンクのおかげだね」
ナツはそう言って微笑んだが、俺は何も言い返さずに首を横に振った。否定しようと言葉にしようとしたが、幸せそうに笑う彼女には言えなかった。
……救えなかったものもたくさんある。手のひらからこぼれ落ちてしまったものは、数え切れないほどに。
俺たちの今を支えているのは、無数の
彼らの悲しみの上で俺たちは幸福だと言っている。そう考えると、どうしても悔やまずにはいられなかった。
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