第168話 くらやみの住人


 俺の隣に座った女に問いかける。

 かつて『子供さらい』として、無垢むくな人間を殺戮さつりくしてきたラサラという女の隣に腰を下ろす。


「どうして……お前がこんなところにいるんだ?」


「さぁ、どうしてでしょうね。全てのことに理由はあるはずなのですが、私にもさっぱり分かりません」


「……悪いけれど、俺は急いでいるんだ。早くこの森を抜けて、あいつのところに行かなきゃいけないんだ」


「森? そうですか、あなたにはこの場所が森に見えているのですか」


「お前、一体何を言って……」


 そう言われて、自分の周囲に起きた異変に気がつく。

 さっきまで踏みしめていた地面とは様子が違う。肌を突き刺す風もやんでいる。異常なまでの静寂があたりを包んでいた。


「……ここはどこだ?」


「さぁ、分かりません。全ての空間には名前が付けられているはずですが、私にはさっぱり見当がつきません」


「頼むから教えてくれよ。問答をしている場合じゃないんだ。俺は急いでいる」


「知りませんと言ったら知りませんよ」


 釈然しゃくぜんとしない。

 これは夢か? 俺はまた意識を失ったのか?


「意識ならあるじゃないですか。そこに。少し自分で考えてみれば良いんですよ」


「……そうか、じゃあ勝手にやる」


「はい、お好きにどうぞ」


 回りくどい返答ばかりで、ラサラは何の手がかりも渡そうとしなかった。

 何かに寄りかかったまま、ぼんやりとした返答をするラサラに背を向けて、奇妙な空間を歩き始める。


 索敵サーチを使いながら歩いているが、不思議と障害物と言ったものはなかった。森の中を歩いていたはずなのに、草木の影すら見当たらない。


 前方にようやく障害物が見えたと思って、ホッとすると、それはたたずんていたラサラだった。


 同じ場所に戻ってきている?

 俺が感知したさっきと寸分違わない場所だった。


「…………もしかして、催眠魔法とか使っていないよな?」


「使っていませんよ」


「じゃあどうなっているんだ」


「知りません」


「……くそっ」


 今度は来た方向を索敵サーチしながら進んでいく。

 歩いてきた方向に向かっていく。障害物のない道を早足で進んでいくと、やはりそこにはラサラの気配があった。


 同じ場所をぐるぐると回っている。


「なんだこれはコントか!?」


「何をイライラしていらっしゃるのですか。はい、ホットミルクでもいかがですか」


「いらねー!」


 やけっぱちになって、いろいろな方向に走ってみる。左に言って右に言って、回れ右して、斜めに走る。目が回るような工程を繰り返したあとでも、結局もとの場所に戻ってきている。


 やることなすことが徒労とろうに終わる。


「ぜぇぜぇ……」


「こればっかりはこの空間の仕様みたいですね。1度冷静になってみたらどうですか」


「……急がなきゃ……いけないんだ」


「頭を柔らかくして考えてみれば良いのです。空間が回っているのならば、時間もまた循環していると、前向きに考えましょう」


「時間が回っている……それは本当か?」


「さぁ、本当かどうかはあなたが決めることです」


 さっきから会話が要領を得ない。

 1度冷静にならなければ。自分に言い聞かせるように頬を叩いて、頭を冷やす。


 このムードに飲み込まれてしまっては、本当に立ち行かなくなってしまう。


「ホットミルク飲みます?」


「よし、飲む」

 

 今の俺には刺激が必要だ。


 ラサラが差し出してきたホットミルクは、いつか地下祭壇で飲んだものと寸分たがわぬ味だった。どういう訳かは知らないが、ほのかに暖かく飲みやすい温度になっていた。


「私が知っている心を落ち着かせる飲料はこれしかないですから。何度飲んでも、飽きない味で本当に重宝しています。この場所に来てからこのホットミルクを34951回飲みました」


「気が狂いそうだな。お前はいつここに来たんだ? 『死者の檻パーターラ』が解けて、死んだんじゃないのか」


「そうですね。私は死にました」


「ひょっとして俺も死んだのか?」


「知りません。思えば、死んだわたしが、あなたと一緒にいるというのは、ずいぶんと不思議なことですね」


 答えになっていない。


「……なぁ、他には誰かいるのか」


「さぁ……少なくとも私がホットミルクを分け与えたのはこれが初めてです」


 だとしたら状況は最悪だ。

 誰もいないし、助けを呼ぶこともできない。かなりまずい。ラサラは積極的に協力する気はない。


 唯一の救いがあるとしたら、ホットミルクがそこそこ美味しいことくらいだった。

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