059. 成長(隼人)
お嬢様と
黒羽と一緒に湯船に浸かりながら、喧嘩の原因を尋ねた。黒羽はなかなか口を開かなかった。何も言わずに待っていると、黒羽がゆっくりと口を開いた。
「僕……、ときどき、お嬢様に好きな人ができたらって考えてしまって」
(やっぱり、そのことですか……)
お嬢様が一人のときに、お嬢様にも喧嘩の原因を尋ねた。黒羽の元気がないときがあったので、何かあるなら教えてと、しつこく聞いて怒らせたと反省していた。
元気がないときと聞いて、夏の出来事を思い出した。
夏に
その日、お嬢様と大地さんは、
食堂に入ってきたのは、お嬢様と大地さんだけだった。
お嬢様がいうには、迎えにきた黒羽はすでにおかしかったらしい。
大地さんが、たぶん部屋にいる、話をしてくる、と黒羽のところへ向かおうとした。お嬢様が呼び止めた。私も話がしたい、部屋で待ってるから伝えて、と大地さんに
大地さんが食堂を出ていくと、部屋に行くね、とお嬢様は元気なく微笑んだ。準備していたお菓子とジュースをお盆に乗せて渡した。お嬢様は、ありがとう、と受け取り食堂から出ていった。
しばらくすると、大地さんが食堂に戻ってきたので、お茶を飲みながら話を聞いた。
「どうでしたか?」
「部屋にいた。話もできた」
「そうですか。黒羽はお嬢様のところに?」
「ああ」
「黒羽は、お嬢様の隣に……、自分じゃない誰かがいるところを想像したんだよ」
「そうなんですか?」
大地さんは
「お嬢様が誰のことを好きになってもそばにいるって言ってたけど。それが、黒羽にとって、どんなに辛くて大変なことか気づいたかもな」
「いつまでも変わらずこのまま、というわけにはいきませんからね。それに気づけたなら良かったです」
「ホントにな。後ろ向きなことばかり想像するのもアレだけど。黒羽には想像しておいてほしいよ」
「何
「急にキレたから驚いたけど。俺、嬉しかったよ。辛い思いをしてる黒羽には悪いけど」
「嬉しいですか?」
「前だったら、にっこり笑って隠してただろ? それか聞いても答えないか。それが、こうやって、ぶつかってこられるようになって、良かったなって。ぶつかってばっかこられたら、それはそれで腹立つけどな」
「わがままですね」
「わがままってなあ。だいたい
「恐怖政治だなんて、心外です! それに、
「まあ、
「ああ、やっぱり昨日、旦那様に頼めば良かったですね。今からでも遅くない……ですね。本邸に連絡してきます」
立ち上がろうとすると、大地さんが、やめろ、と手を伸ばしてきた。
「そういうところだよ!」
「本当、大地さんは困った人ですね」椅子に座り直して、ため息を
「なんでだよ!」
それから、お嬢様と黒羽が食堂にやってくるまで、大地さんと今後のことや他愛ないお喋りをしていた。
(お嬢様とも話をして。私の言葉にも照れたような顔をしていたから大丈夫かと思いましたけど……)
食堂にきた黒羽は、ふっきれたように見えた。間違っていた。他ならぬお嬢様のことだ。黒羽が簡単にふっきれるはずがなかった。
「本を一緒に読んでいて、本の内容で気になったことがあって。ひとりになりたくて逃げたけど、本当は追いかけてきてほしかったってところなんですけど。お嬢様に聞いたんです。本当にひとりになりたいときと、追いかけてきてほしいとき、どうやって見分けたらいいですかって」
「それは難しい……ですね」
黒羽は私の顔を見て
「こんなの時と場合によるし。相手の性格によるっていうのはわかってたんです。正解なんてないって。ただ……」
黒羽がこちらをチラチラと見ている。
「ただ、なんですか?」
「怒らないって約束してくれます?」
「私が怒るようなことなんですか?」
ジッと見つめると、黒羽は、うっ、と顔をひきつらせた。私は、ふう、と息を吐いた。
「怒りませんよ。何もしませんから、話したいように話してください」
「は、はい……」
黒羽はホッとしたような顔をして、視線を
「ただ、お嬢様にくっつきたかったんです。質問に答えられない間、くっついてようって。でも、そうしているうちに……」
黒羽はお湯を両手ですくうと、顔を洗った。お湯を軽く払うと深呼吸をした。
「お嬢様が恋人とだけ一緒にいたいからついてこないで、って言ったら、どうしようって」
「そばにいられなくなるって思ったんですね」
「いえ」
「違うんですか?」
驚いた私のことを、黒羽は
「絶対にそばにいます。離れるつもりはないです。どんなに邪魔にされても、そばにはいます」
「そ、そうですか」
邪魔にされてもそばにいるのは、よくないのではないかと思った。話を聞くために、とりあえず触れずにおいた。
「でも、なんだか、悲しくなってしまって……。お嬢様の目に恋人しか映ってない。僕には目もくれないところを想像してしまって」
黒羽はまた視線を落とした。
「想像で気分が落ち込んでしまったんです。そしたら、お嬢様が、最近元気ないよって。どうしたのって聞かれたんですけど。理由は言いたくなくて。言い合いみたいになってしまって。……そんな感じです」
「そうだったんですね。黒羽の、その、落ち込んでしまった気持ちは、大丈夫なんですか?」
黒羽のその気持ちは、私にはどうすることもできないものだということはわかっている。話してもらえるなら、話してほしかった。泣きたいなら泣いたらいいと思っていた。
黒羽の反応は、私の予想とは違っていた。
黒羽はこちらを向くと、にこーっと微笑んだ。いや、ニヤーッとした。
「なんですか、その顔は」
「お嬢様って、僕のことよく見てますよね」
「そうですね」
「僕のこといっぱい考えてますよね」
「いっぱいかどうかは、ちょっと」
「このままお嬢様を、僕だけでいっぱいにしてしまおうと思って!」黒羽はものすごくいい笑顔をした。
「いつお嬢様に好きな人ができるか、わからないけど。もう、いるのかもしれないけど……」少しだけ真顔になって呟いた。
驚いた。お嬢様にすでに好きな人がいるかもしれないと言った黒羽に。私には思いもよらなかった。お嬢様の隣に誰かがいるところを想像したというのは、ただ想像したのではなく、実際にそう感じるようなことがあったのかもしれない。お嬢様もお茶会に出るようになった。知らない人とは話さないらしいが、話さなくても好きになることはある。
「今までとやることは、あんまり変わらないんですけど。むしろ、今までの僕は間違ってなかったなって。だから、しばらくは、この作戦でいこうと思います!」
黒羽はニヤニヤしだした。そんな黒羽の両肩に手を置き、にこっと微笑んだ。
「な、なんですか?」黒羽はハッとしたような顔をした。
「まさか、あのキスしてたのは、その作戦の一環だったりしませんよね?」
「え? あれは、したかっ、作せ、いや……」黒羽は言葉を詰まらせながら、目を泳がせた。
「あれが作戦なのだとしたら、容認できないんですよ。わかりますよね?」
「えっと、その……」
「あと、その作戦ですけど。悪いことして、悩ませたり困らせたりして、いっぱいにするのはナシですよ? わかってますよね?」
「そ、それはもちろん……。あの、隼人、肩が痛いんだけど」
「しつこくすれば、いっぱいになるってもんじゃありませんから」
「は、はい」
「邪魔にされてもそばにいるっていうのも、考えものだと思うんですよ」
「僕、もう上が――」
「まあまあ、もう少しお話しましょう」
「ええ!?」
「黒羽の悩みと作戦について。よく話し合っておきましょう」
逃げようとする黒羽をしっかりと捕まえて話をした。怒らないって言ったのに、と愚痴をこぼしていたが、怒ったわけではない。
黒羽の作戦はよいと思う。応援している。でも、やりすぎはよくない。そこのところを、こんこんと言って聞かせた。
(昨日の夜、長湯したからですかねえ。悪いことをしてしまいましたね)
「隼人~、味見して」
小皿によそられたお
「美味しいですよ」
「良かった。んじゃ、完成~」
お嬢様とお粥を作っていた。今日の昼食だ。
数日に一回、お嬢様と一緒に昼食を作っている。お手伝いしたいらしい。簡単なものを作れるようになりたい、教えてほしい、とも頼まれた。昼食を作りながら、お料理教室をしたりしている。
お嬢様はたまに、お粥が食べたいと、風邪などでなくても作って食べている。だが今回は、お嬢様が食べたくなって作ったわけではない。
黒羽のためだ。
「お嬢様が僕のために作ったお粥……」
黒羽がニヤニヤしながら、お粥を食べている。体調が悪いわけではないらしいので、黒羽が白いご飯の代わりにお粥を食べている以外は普通の昼食だ。
「熱はないんですか?」
「今のところ」
「昨日のお風呂のせいですかね? 仕方のないこととはいえ、すみません」
「仕方のないこと……。あれは、仕方のないことなんですか……」黒羽はぶつぶつと何か言っている。
「ん~、でも、最近、声が変だよね。気づかなかっただけで、ずっと風邪気味だったんじゃない?」
そういうとお嬢様は、黒羽からお茶碗に半分ほどよそってもらったお粥を、レンゲを使って頬張った。熱かったらしく、口を閉じずにハフハフしている。
「そういえば……、ずっと喉の調子が悪かったような?」黒羽は喉に手をあて考え込んだ。
(声が変、確かに。……もしかして)
「黒羽、それって変声期。……声変わりなんじゃないですか?」
私が黒羽に目を向けると、お嬢様も向けた。黒羽は、お嬢様と私のことを交互に見た。
「声変わり?」黒羽は少し照れたような顔をした。
お嬢様は、大人の階段だ、と呟いた。興味津々といった顔で黒羽のことを見つめていた。
翌日も黒羽が熱を出すことはなかった。何日か経っても、喉の調子だけが悪かった。声を出しにくそうにしているときもあった。
旦那様も、声変わりだな、と言って、黒羽の頭をなでていた。
「何をしているんですか?」
ホールの前を通ると不思議な光景を目の当たりにした。
床に座って股関節のストレッチをしていたと思われる黒羽の後ろに、お嬢様が立っていた。お嬢様は黒羽の首をしめていた。黒羽はニヤニヤしていた。
「喉を触ってるの。あ、ちゃんと優しく触ってるよ!」
「そうなんですか?」
「うん。いつ
「そんな突然出てきませんよ?」首を
「ぶっ! あはは」黒羽が吹き出し、笑っている。
「わ、わかってるよ! 最初がわかんないと比べられないでしょ」
「最初って。毎日、触ってますよね?」
「気になるの!」
黒羽が笑いを
「お嬢様、もう無理」
「どうだ、思い知ったか~」
「か、かわいい~」
「まだ、余裕があるね」お嬢様がさらに体重をかけた。
「ないない、ないです」
「ふふ」なんだか二人のやり取りが微笑ましくて、笑みがこぼれた。
お嬢様が体重をかけるのをやめた。黒羽は
「隼人、アレやりたい!」お嬢様は立ち上がり、私に顔を向けた。
「アレですか?」
「うん!」
お嬢様は、黒羽の手を引き、立ち上がらせた。黒羽と背中合わせに立ち、両腕を組んだ。
「隼人、絶対に助けてよ! 失敗しそうになったら、絶対に助けてね」
「ふふ。大丈夫ですよ。でも、できれば私のいる方に倒れてきてくださいね」
「え~。それは黒羽次第かな。黒羽がよろけなければ大丈夫」
「よろけませんよ。そろそろ、いいですか?」
「はーい。お願~い」
黒羽が
「あはは!
お嬢様が喜んでいると、体を起こした黒羽が両手の平をお嬢様に向けた。お嬢様がハイタッチした。
「かわいい。いてっ」
「やると思いましたよ」
黒羽はハイタッチしたお嬢様に、流れるように抱きついた。軽くチョップをお見舞いした。
この背中で後転する遊びは、大地さんを補助にして黒羽と私でやっていた。それを見たお嬢様が、私もやりたいと言い出した。最初は、大地さんと私、二人でついていても、怖がって背中で後転ができなかった。
「黒羽、もう一回! 隼人、時間大丈夫?」
お嬢様が黒羽の腕の中から聞いてきた。
「ええ。大丈夫ですよ。黒羽、ほどほど」
「そうだよ。ほどほど~」
黒羽がお嬢様から離れた。背中を向けると、変な条件を出してきた。
「一回やるごとに、一回抱きつきますけど、どうしますか?」
「やる~」
「いいんですか!?」
お嬢様が即答したことに驚いて、少々声が大きくなってしまった。
「大丈夫だよ、隼人。この条件、意味ないから。どっちにしろ、黒羽は抱きついてくるんだから」
そういうと、背中合わせになり腕を組んだ。何回か楽しんだあと、二人はストレッチを再開した。
結局、黒羽は抱きつかせてもらえなかった。お嬢様が、今日はもうダメ、と私の後ろに隠れ拒否をした。もし抱きついたら隼人から罰が与えられます、とお嬢様に言われ、黒羽は顔をひきつらせていた。
(今日は、って……)
大地さんの言葉を借りるわけではないが、お嬢様は黒羽に甘いな、と思った。
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