バラのような甘く冷たい声

オレゴン州 トーマスの部屋 二〇一五年八月二五日 午前一時〇〇分

 ようやくトーマスの部屋で香澄と再会することが出来たエリノアたちだが、その空気は一変してどこか冷たく凍りついている。それはまるでお互いがお互いを警戒している、彼女たちの心情を指しているような光景でもあった。


 しかしそんな状況を一刻も早く打破しようと、最初に香澄へ話しかけたのは彼女の親友でもあるジェニファーだった。

「……も、もしかして香澄が心身共に疲労していることをみんなに伝えなかったから、そのことであなたは怒っているの? そ、その件については私たちも本当に悪かったと思っているわ。ご、ごめんなさい……」

 

 何とか会話の突破口を開こうと考えているジェニファーは、解離性同一性障害や拒食症などの専門用語を使わず、出来るだけオブラートに包みながら香澄へ話しかける。普段は丁寧な口調で香澄へ話しかけるジェニファーも、この時ばかりは友達口調に戻っている。

 そんなジェニファーの真意を悟ったのか、香澄は彼女の意見を否定せずにその言葉を受け流す。それどころか香澄は

「……別にあなたが謝る必要はないのよ、ジェニー。誰だってあんな光景を目にしたら、あの時のあなたやメグのようにパニックを起こしてしまうでしょう? だから私はあなたを責める気持ちなんて……少しも考えていないわ」

とジェニファーの言葉を肯定しつつも、すべて自分が悪いと言い切ってしまう。


 口調こそいつもと同じだったものの、今エリノアたちの目の前にいる香澄はどこか雰囲気が違う。そんな違和感や不安を覚えつつも、幼少期から香澄のことを知っているケビンが彼女へ話しかける。

「カスミ……どうして君は、僕らにまで病気のことを黙っていたんだ? やっぱり自分が病気であることを、認めたくなかったのかい? 君がもっと早くこのことを話していれば、こんなことにはならなかっただろうに――」

「――私は昔から、あなたとフローラには心配ばかりかけてしまっていますね。でもこの病気のことはすべて……私の心の弱さが招いた結果なんです。だからケビン、私がいてしまった種は……私の手で刈らせてください。……あなたならこの気持ち、分かってくれますよね?」


 言葉遣いこそやや乱暴ではあったが、ジェニファーの時とは異なり、ケビンに対しては丁寧な口調で話しかける香澄。だがネガティブな考えに支配されている香澄にしびれを切らしたのか、ケビン自身も引くことはなかった。

「分かったよ……とこの場で僕が言うと、カスミは本気で思っているのかい!? あいにくと知って黙っていられるほど、僕は薄情な男ではないんだ。だからカスミ……手遅れになる前に、君が今抱え込んでいる不安や哀しみをすべて吐き出すんだ!」

「そうやって共感している素振りを見せつつ、私を説得しようとしている――ケビンは心の浄化とも呼ばれるを意識されていると思いますが、そんなこと考えても無駄ですよ。……今さら私の悩みをあなたに打ち明けたところで、もうあの子は戻ってこないわ!」


 四人の中で一番香澄と付き合いの長いケビンなら、この状況を切り抜けることが出来ると誰もが内心思っていた。そんなケビンの言葉も香澄は受け止めつつも、ここでもまたジェニファーのケースと同じように、相手を肯定しつつも自らを否定してしまう。……時折見せる曇り空のような薄暗く淀んだ香澄のまなざしが、ケビンの心をさらに傷つけている。

 

 さらに心理学用語で「カタルシス効果」と呼ばれる手法の一つで、香澄の警戒心を解こうとしたケビン。相手に悩み事を打ち明けることで、その人が抱える心の苦痛を和らげることが出来るのが最大の特徴だ。

 しかしこのカタルシス効果を意識したケビンの考えが裏目に出てしまったのか、彼の思惑はすべて香澄に見破られてしまう。それどころか、ケビンは香澄の心が分厚い氷の膜につつまれている現状を知る。……皮肉なことに、フローラの考察が現実となってしまった瞬間でもある。


 ジェニファーとケビンの説得も失敗に終わり、空しい時間だけが流れているトーマスの部屋――まるで時が止まっているかのような肌寒さは、今のエリノアたちにとって非常に居心地の悪いものだった。

 何とか打開策はないものかと次第に焦りはじめるジェニファーやケビン――しかしここではじめて、香澄がある人物へ意外な言葉を発する。

「そういえばエリー、トムの部屋であなたと出会うのは今日が初めてだったかしら?」


 これまでの状況はうって変わり、香澄が積極的にエリノアへ話しかけている。無機質な香澄の言葉に怯えながらも、彼女からの質問に答えを返すエリノア。

「い、言われてみるとそうかもしれないわね。あなたたちのお家で香澄からトムのことを聞かされた時ね、“どうして私にだけ、こんな悲しいことばかり起きてしまうの?”って一方的にって思いこんでしまったわ。……でもその結果人や社会を恨み続けても、それは何の解決にもならないって知ったのよ。そう知ったからこそ私はフローラやケビン、そしてジェニーとも仲直りすることが出来たと思うの」


 ジェニファーやケビンの時とは少し様子が異なり、エリノアの話を聞いている時の香澄の表情は戸惑いを見せながらも、その顔は至って穏やかだった。

「……ご家族の不幸やエリー自身に対するいじめ問題、そしてトムの訃報を聞くなど色々と大変なことがあったのに、あなたの心はわね。エリー、どうやらあなたは私が思っている以上に強く……そして優しい女の子だったのね。私にもあなたのような……強さと優しさがあれば……」


 これまで冷静だった香澄の指先が時折震えていることから、彼女自身もエリノアがまさかフローラたちと仲直りしているとは、夢にも思っていなかったようだ。少なからず香澄の動揺しているのは明白だった。


 そしてここで突破口が見えたと思ったエリノアは、さらに攻撃の手を緩めない――ここで彼女は、一気に勝負を決めるつもりなのかもしれない。

「ねぇ、香澄。お願いだから……もうこんな馬鹿なことはもう止めよう? ここで私たちが憎しみ合っても、よ? 私たちのためにも……そしてトムのためにも……そしてみんなの子の幸せを願うなら、ここで私たちが心を一つにしないと!」

「…………」


 その後もエリノアの説得はしばらく続くものの、結局誰ひとり香澄の心を動かすことは出来なかった。だがエリノアの言葉を聞くたびに、時折指や肩などの震えを見せることがある香澄。少しずつではあるが、香澄が動揺していることを表すサインを彼女自身が発している。

 そしてそんな香澄を救えるのはただ一人、フローラしかいないだろう――この先フローラはどのような方法で、香澄を説得するのだろうか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る