第3章 灰と花
「だいじょぶ、ですか? ここ、スラムの教会です。伍番街の。……いきなり落ちて来るんだもん。驚いちゃった」
俺の傍らに座っているその少女は、言う程驚いたようには思えない、穏やかな口調でそう言った。……そうか、俺は落ちてきたのか。ボロボロな教会の屋根、そこに開いた大きな穴から遥か上を見上げる。結構な高さだな。よく生きていられたもんだ。
「屋根と、花畑、クッションになったのかな。運、いいですね」
「花畑……君の、花畑?」
俺は改めて教会の床を見渡してみる。床板が剥がれた窪みの中に、白、赤、黄色……色とりどりの花が、俺と彼女を囲むように咲き誇っていた。どれも小さく、ひっそりとだったが、埃や灰に塗れながらも、この地に根付こうと健気に頑張っているようだった。しかし、見ると自分の足元の花が潰れているのに気付いた。悪い事をしたな。だが、花売りの少女は首を静かに横に振る。
「気にしないで。お花、結構強いし、ここ、特別な場所だから。ミッドガルって草や花、あまり育たないでしょ? でも、ここだけ花、咲くんです。……好きなんです、ここが」
少女はそのまま立ち上がると、
「また、逢えましたね」
――見る者全てを恋に落としそうな笑顔で、そう言った。
『HARUHI FANTASY Ⅶ -THE NIGHT PEOPLE-』
第3章 灰と花
「…………」
しばらく、声を出すことも出来ずに俺は少女に見惚れてしまっていた。そんな俺の反応に、彼女は少し寂しげで不満げな顔をする。
「覚えて、ないんですか……?」
そんな事は無い。八番街の混乱する雑踏の中で、健気に花を売りつづけている光景は、そう簡単に忘れそうに無いさ。あなたこそ、よく俺の顔を覚えていてくれたもんだ。
「あっ! 嬉しいな~! あの時は、お花、買ってくれてありがとう」
俺の返事を聞いた途端、またニコッと微笑む。この笑顔が見続けられるなら、あと何十回でも花を買ってしまうさ――そんな事を頭の隅で思っている間に、少女は俺の剣にくっ付いているマテリアをしげしげと眺め始めた。
「マテリア、持ってるんですね……あたしもね、持ってるの」
少女は首にぶら下げていたペンダントらしきものにそっと触れる。よく見ると、確かにマテリアだ。でも、今はマテリアは珍しくもなんともない。こんな少女が持っていても不思議じゃないくらい、マテリアは神羅の手により世界各地に流通しているんだ。しかし、少女はふるふると首を振る。
「あたしのは特別。だって、何の役にも立たないの」
「役に立たない? 使い方を知らないだけじゃ――」
俺の当然の疑問にも、少女は再び首を振って否定した。
「そんなこと、ないです。けど……役に立たなくてもいいんです。身に着けてると安心できるし、お母さんが残してくれた……ね」
少女はそこで言葉を切る。どうやら、他人の俺にはあまり立ち入れないものがそこにあるらしい。そのまま、二人の間を少しの間沈黙が包む。――だが、その空気に耐え切れなかったのだろう。少女は慌てたように言葉を紡ぐ。
「あ、あの!……色々お話したいんだけどどうですか? せっかくまた逢えたんだし、ね」
こんな美人に誘われて何も感じないほど、俺は男を捨ててない。それに、今のところ急いで何かしなければならない事は無いしな―― 一瞬、伍番魔晄炉から落ちていく時に見たハルヒの泣き顔が頭をよぎったが――結局、俺は構わない、と少女に返事した。すると少女はさっきよりもっと嬉しそうな顔を見せて、
「じゃ、待っててね。お花の手入れ、すぐ終わりますから……あ! そういえば、お互い、名前、知らないですよね。あたし、花売りの朝比奈ミクルといいます。よろしくね」
改めて俺に向き直り自己紹介した。俺もちゃんと自分の名前を名乗ったはずなのだが、調子に乗ってハルヒたちから呼ばれるあの間抜けなニックネームをついつい明かしてしまい――
「素敵なニックネームですね。じゃあ、あたしも『キョン君』って呼んじゃおうかな」
――くそっ、言うんじゃなかったぜ。あと、聞けば彼女は何と俺より一つ年上らしい。結構童顔なので、てっきり年下だと思ってたんだけどな。女は見かけによらないと言うが、本当だね。だからこの先、俺の、彼女――朝比奈さんに対する口調は若干丁寧になる。何でって? 年上は敬えって親に教わらなかったか? ――じゃあプレジデントの時はどうだったんだって? あいつは敵だから別にいいんだよ。
花の手入れをしながら、朝比奈さんは俺が何の仕事をしてるのか尋ねた。何て言ったらいいのかな。テロリストの傭兵とは流石に言えんしな……などと思案に暮れていると、唐突に『ある言葉』が脳裏に浮かび、そのまま口をついて出ていた。
「――『何でも屋』、ですよ」
「はぁ……『何でも屋』さん」
あんまり要領を得ていないように見えた朝比奈さんに改めて説明を加える。
「何でもやるのが、仕事です」
何の説明にもなってないな、これ。すると、朝比奈さんはプッとかわいく吹き出す。いくら何でもちょっとそれは傷つきますよ。
「ごめんなさい……でも、ね」
俺に笑いながら謝る朝比奈さん。――実はさっきから彼女の様子を見ていて気になるところがあった。どうやら、彼女には少々ドジな所があるらしく、時々何かを間違えたのかちょっと慌てて作業する場面が散見された。ほら、今みたいにウロウロと水遣りしながら俺と会話していると――
「キャッ!!」
何でもないところで躓く朝比奈さん。言わんこっちゃ無い。俺は転ぶ彼女を地面に激突する寸前で両腕で背中から受け止める――その時だ。突然、教会の扉がギイと古めかしい音を立てて開くと、
「うい~っす。♪WAWAWA忘れ物~~……うおっ!!」
ややリーゼントがかかった髪をした変な野郎が入ってきた。俺たちの姿を見るや否や、びっくりしたかの様に口をポカンとアホみたいに開けてそのまま静止している。俺はその時、朝比奈さんを抱き起こそうとしていたが、現時点の静止画を見たら逆に押し倒そうとしていると思えなくも無い体勢な訳でして――
「……すまん。ごゆっくりぃぃぃ~~~!!!」
と泣き叫びつつ、そいつはもと来た方へと走り去っていった。何なんだ、あいつは。だが、朝比奈さんは何だか浮かない顔で、
「タイミング、悪いなぁ」
と、溜息を吐いている。どうしたんですか、一体?だが、朝比奈さんの視線を追うと、あの男、まだ教会から出ていない――どころか数人の神羅兵まで連れている。こいつ、ただのアホじゃないぞ。すると、朝比奈さんはこんなことを言い出した。
「キョン君、ボディーガードも仕事のうちですか?」
いきなり何の話ですか、それは?
「何でも屋さん、でしょ? ここから連れ出して。家まで、連れてってください……お願いします」
確かにそう言ったし、その仔鹿みたいな瞳をうるうるさせてお願いされると、無下に断れる訳が無い。それに、朝比奈さんは神羅に何らかの因縁があるみたいだしな。
「お引き受けしましょう。しかし、安くはないですよ」
俺は少し気取った冗談を言ったつもりだったのだが、どうやら朝比奈さんはまじめに受け取ったらしく、どうしようかウンウン悩んだ末、意を決し、顔を真っ赤にしながらこう言った。
「……じゃ、じゃあ……デート、1回なら……どうですか……?」
報酬が、デート……。彼女もスラムの住人だ。金も多分そんなに無いんだろう。だから出来ることはデートの1回ぐらい。それが彼女の精一杯だった。ちょっと悪いことしたかな。けれど、それで朝比奈さんを守れるなら、申し分ない。俺は、バスターソードを構えつつ、あの変な男と神羅兵どもに近づいていく。
「何処の誰だか知らないが……知らない……?」
そういった瞬間、俺の頭の奥でまた、何かが囁く。
――知ってるよ――
そうだ……俺は知っている。奴が着ているその黒尽くめの制服は――
「……お嬢さん、こいつ、何だか変だぞ、と」
「黙れ、神羅の犬め!」
悪いが、お前にだけは言われたくない。すると、奴の周りに居た神羅兵が口々に叫ぶ。
「谷口さん! やっちまいますか?」
「……考え中だぞ、と」
奴はそう言いながら腰に挿したロッドに手を回す。やる気満々だな、おい。まさに一触即発の空気。だがそこで、朝比奈さんが似つかわしくない大声を上げ、俺たちを制した。
「ここで戦って欲しくない! お花、踏まないで欲しいの!!」
そう言って、奴らとは反対の祭壇の奥の扉へと駆け出す。慌てて俺も後を追う。一体どうしたんですか、朝比奈さん? 扉の前で追いつくと、彼女は小さく囁いた。
「出口、奥にありますから」
俺たちはそのまま扉を開けて奥へと入っていった。しかし、扉の中を見て改めて思ったのだが、この教会、古びたと言うよりは最早廃屋に近いな。天井や壁、床の至る所に穴が開きまくっているし、あろうことか、大きなロケットの残骸が二階の回廊から地下の倉庫らしきところまで深々と突き刺さっていたりする。――いや、そんな事に驚いてる場合じゃない。とにかくあの神羅の変な連中から逃げないと。
ちなみに、扉の向こうから、「……あっ! お花、踏まないでね…だと」「谷口さん踏んだー」「あーあ」「怒られるー」などといった声が聞こえてきたが――いや、聞こえなかったことにしよう。あの声に全く気付く様子もなく、壊れた教会の残骸を掻き分け、床に開いた穴を一生懸命飛び越えて必死に逃げ出そうとしている朝比奈さんのためにも。
そして、何とか俺たちが二階の回廊まで辿り着いたその時だ。
「いたぞ、あそこだ!」
谷口とかいうアホが俺たちを視認して指差しやがった。……意外に来るの早かったな。
「キョン君、あれ!」
「分かってますよ。どうやら見逃すつもりは無いようですね」
「どうしよう?」
不安に彩られた瞳で俺を見る朝比奈さん。目の前の回廊には、これまでよりずっと大きな穴が開いていた。一階までは結構な高さだ。それにたくさんの残骸が所狭しと散らばってる。彼女が落ちたら無事で済まないのは目に見えてる……だが、
「捕まる訳にはいかないんでしょう?」
それなら、答えは一つさ。俺はそこに広がる穴を勢いよく飛び越え、向こうの彼女に両手を差し出した。
「さあ、朝比奈さん! こっちだ!早く!!」
しかし朝比奈さんは、出来ないと言いたげに、涙目でふるふると首を振るばかり。だから、俺は彼女がこれ以上不安にならないように、勇気を持てるように、自分でも驚くぐらいの微笑を見せて言ったんだ。
「――大丈夫です! 俺が受け止めますから!!」
朝比奈さんの瞳に、決意が浮かんだ。
「うん、分かった! しっかり受け止めてね」
目一杯助走をつけて跳ぼうとした、まさにその瞬間――
「『古代種』が逃げるぞ、撃て撃て!!……あ、撃つな!!」
ズダンッ! ズダンッ!
谷口が口走った命令を慌てて取り消したが、もう遅い。兵士の銃弾は、朝比奈さんに向けて放たれてしまった後だった。
「きゃあっ!」
運良く直撃は避けたが、朝比奈さんは衝撃を受けそのまま下に落ち――
「朝比奈さん!!」
――またしても運良く、彼女が最初に落ちたロケットの残骸が滑り台の役割を果たし、朝比奈さんは無傷で地下倉庫まで滑り降りることが出来た。谷口はその様子を見届けると、バツが悪そうに頭を少し掻いてみせた。
「やっちまったかな、と。抵抗するからだぞ、と」
野郎、朝比奈さんになんて事を! もう一度同じ事やってみろ、即乱闘だ、乱闘パーティーだ。しかしそんな事も言ってられん。地下で右往左往する朝比奈さんにはもう神羅兵が近づいてる。
「キョン君、助けて!」
くそっ! どうすればいい――ん、あれは……? 上を見上げると、天井を支える梁の上に大きな樽がいくつか置かれていた。しめた、こいつは使えるぞ。
「朝比奈さん! 少しそこで待ってて下さい!!」
俺はそう言うなり梁の上へと駆け上がった。
「キョン君?!……うん、分かった!」
朝比奈さんに銃を向けてゆっくりと近づく神羅兵。朝比奈さんは怯えながらも一生懸命逃げようとする。俺は目当ての樽を見つけると下に向けて放り投げた。
ガタンッ!ゴロゴロゴロゴロ…………
落ちた樽は俺の計算通りに階段を転がってゆき――
「のわっ」
朝比奈さんに手を伸ばす寸前だった神羅兵を見事に押しつぶしてやった。
「キョン君、ありがとう!」
「朝比奈さん、礼はいいから、こっちだ!!」
俺は朝比奈さんをそのまま梁の上にまで導く。ついでに、全ての樽を落としておこう。――目論見どおり、奴らはどんどん転がる樽に押しつぶされていき、大混乱に陥った。
「ぐわっ」
「どわっ」
「ふべっ」
「おい、何してんだ!と。早く古代種を……ってぐはっ!! と…」
俺たちはその様子を尻目に、天井に開いた穴から外へと抜け出した。
「ふふっ……まだ探してるね」
屋根の上から様子を見ていると、まだ奴らは朝比奈さんの捜索を諦めてないようだったが、俺たちを発見するまでには至っていないみたいだ。しかし、これまでの様子から考えると、
「初めてじゃないんですね? 奴らが襲ってきたのは?」
「……まあ、ね」
朝比奈さんは、言葉を濁すように肯定する。
「タークスですよ、あいつらは」
「そうですか……」
――タークス。正式名称、神羅カンパニー総務部調査課。ソルジャーの人材を見つけ出しスカウトするのがその役目ということになっている。
「こんなに乱暴なやり方で?……まるで人攫いみたいです」
無論そんなのは表向きだ。裏じゃ汚いことを沢山やっている。諜報活動、敵対者の暗殺、etc. まさに神羅の闇を背負っていると言っても過言じゃない。
「そんな顔してますね」
まあ、さっきの谷口とかいう奴はただのアホ面ですけどね。……にしても腑に落ちないことがある。
「でも、どうしてあなたが狙われるんです? 何か訳でも……」
そう尋ねると、朝比奈さんはわざとらしく首を捻って見せる。――嘘をつくのが根本的に苦手なんだな、この人は。
「う~ん……別に。あ、あたしソルジャーの素質があるのかも!」
「……なりたいんですか?」
あえて指摘することはしない。きっと深い事情があるんだ。だから当たり障りない話題で彼女の心を解きほぐすことにした。
「さあ、どうでしょう。でも、あんな人たちに捕まるのは嫌です……」
それを聞いて俺は朝比奈さんの手を取った。だったら、ここから屋根伝いに逃げるに限るさ。
「待って……ちょっと待って下さ~い!」
スラム街の屋根やスクラップの山の上を軽々と飛び越える俺に少し遅れて、朝比奈さんが息を切らしながらやっとの思いで付いて来る。これ以上離すのも何なので、少し待ってあげることにした。
「ハア……ハア……一人で、先に……行っちゃ、うんだもん……」
「おかしいな……ソルジャーの素質があるんじゃなかったんですか?」
朝比奈さんは少し不満顔だ。すみません、ちょっとしたイタズラだったんですよ。朝比奈さんは可愛らしく頬を膨らませた。
「もぅ! キョン君のいじわる!」
そう言って、朝比奈さんはくすくす笑い出した。つられて俺も笑う。何だか、妙な感覚だ。こうして、誰かと笑い合うなんて、一体いつ以来だろう――
暫くの間、俺たちは時間も忘れてそうしていたが、急に朝比奈さんはまじめな顔になってこう尋ねてきた。
「キョン君。あなた、もしかして……ソルジャー?」
「元、ですけどね。どうして分かったんですか?」
「……あなたの目。その不思議な輝き……」
そう、俺の瞳は常人と違い青白く光っている。これは魔晄を浴びた者――ソルジャーの証。しかし、朝比奈さんがどうしてそれを知ってるんだ? そんな俺の問いに、
「……ちょっと、ね」
彼女はそう言葉を濁すだけだった。
教会からもう大分離れたし、そろそろ大丈夫だろう。俺たちは屋根が低くなっている所を見つけ、そこから漸く地面に降り立った。
「ふぅ、やっと下りられました。さて、と……こっちです、わたしの家は。あの人達が来ないうちに急ぎましょ」
そうですね。俺は先に行く朝比奈さんについて、伍番街スラムの中心部へと入っていった。
すると、朝比奈さんは何の変哲も無い土管の前でふと立ち止まる。見ると中から少し明かりが漏れている。
「ここの人、病気みたいなの。近くで倒れていたのを誰かが助けたんだって」
中に入ってみると、みずぼらしい格好をした男が何ごとか呻いていた。
「う……あ……あぁ……」
男はそれ以外の言葉を発しようとはしない。
「この人なの……ね、助けてあげられませんか?」
「う……あ……あぁ……」
俺はその男の様子を暫し眺めていたが、これはどうしようもない。『何でも屋』と言ってしまったが、それでも俺は医者じゃないからな。
「そう……ですよね…」
朝比奈さんは残念そうな顔をする。すみません、お役に立てなくて。
「あれ? この人、刺青してますね。数字の2、かな」
確かに男の腕には『Ⅱ』という文字が大きく彫られていた。ただ、それだけの刺青なんてどういう趣味をしてるのか知らないが、何なのか詮索しても仕方ない。何もすることが出来ないまま、俺たちは土管を出て少し歩くと、朝比奈さんの家が見えてきた。
――ここも、同じスラムの中とは思えないくらい穏やかな場所だった。静かに落ちる滝と透き通った池、キラキラ漏れてくる陽の光。そして、花壇にはあの教会の中よりも色とりどりの花が咲き乱れ、ベランダや屋根の上も花で埋め尽くされていた。ここも朝比奈さんがいそいそと世話してるのだろうか。その光景を想像すると、自分の顔が綻んでくるのが分かった。俺は朝比奈さんと一緒に彼女の家に入っていく。
「ただいま、お母さん」
家に入って朝比奈さんがそう言うと、茶色の髪を肩で短く切った活発そうな女性が出迎えた。この人がお母さんですか……ちょっと朝比奈さんぐらいの子をもつ親にしては若すぎないですか? 十代後半って言われても信じますよ。
「おかえり、ミクル。遅かったじゃない。心配してたのよ。ところでその人は?」
「この人はキョン君。あたしのボディーガードしてくれたの」
すると、朝比奈さんの母は驚いたように目を丸くして朝比奈さんに駆け寄った。
「ボディーガードって……ミクル、また狙われたの!? 身体は!? 怪我は無い!?」
「大丈夫よ。今日はキョン君もいてくれたし」
安心させるように微笑む朝比奈さん。すると、彼女の母は「そう…」と安心したように呟くと俺の方に向き直った。
「あたし、この子の母親のタカコっていうの。ミクルを助けてくれてありがとうね、キョン君。ゴメンけど、洗濯物片付けないといけないから、ちょっと入って待っててくれる?」
そう言って、タカコさんは二階へと上がっていった。というか、あなたまで俺を『キョン』と呼ぶんですね。すると、朝比奈さんは俺の方を向いて尋ねる。
「……あのう、これからどうするんですか?」
そうだな……。朝比奈さんを無事に送ったし、そろそろ七番街スラムに戻るか。古泉はどうでもいいが、ハルヒを心配させたまんまじゃ寝覚めが悪いしな。
「七番街は遠いんですか? 涼宮ハルヒっていう奴がやってる『セブンスヘブン』って店に行きたいんだけど」
それを聞いて、朝比奈さんは両の目を大きく見開くと、一瞬寂しそうな顔を見せた。何でだ?
「涼宮さんって……女の人?」
まあ、生物学上ではそうだよな。地獄の鬼も裸足で逃げ出すとんでもない本性を持ってるとしても。
「……彼女さん、……ですか?」
彼女? ハルヒが? そんな馬鹿なことがあって堪るか。あいつとそんな「ハニー」「ダーリン」などと呼び合う甘い関係を想像するだけでも、俺のゲシュタルトが崩壊してしまいそうだ。などと言って必死に否定する俺に、朝比奈さんはクスッと微笑みかける。
「ふふふ。そんなにムキにならなくてもいいと思いますけど。でも、少し安心しました」
――え、いま何と?
「い、いいいいいえいえ何でもないです!! ととととにかく七番街ですよね! あたしが案内しますっ!!」
いや、それはまずい。この人が神羅に狙われてるのはさっきの事から明白だ。
「また危ない目に遭ったらどうするんですか?」
「慣れてますから」
慣れてますって……おいおい。しかし、俺がどんなに説得しても朝比奈さんは意見を曲げようとしない。普段はオドオドしてるのに、こういうときに限って強情になるんだな、この人って……。
「お母さん! あたし、七番街までキョン君を送っていくから!」
その声を聞いて、タカコさんが呆れた顔をして二階から降りてきた。
「ホント、この子って言い出したら聞かないんだから……でも明日にしたら? 今日はもう遅くなってきたし」
「うん、わかった、お母さん」
朝比奈さんも納得したように頷いた。
「じゃあミクル、ベッドの準備をしてきて」
朝比奈さんは「はぁい」と返事し、スキップするように二階へ駆け上がっていった。その様子を見て苦笑するタカコさん。しかし、急に真剣な表情になって俺を見る。
「あなたのその目の輝きは……ソルジャーなんでしょ?」
「ええ。でも、昔の話ですよ」
「……。言い難いんだけど…今夜のうちに出て行ってくれないかな? ミクルには内緒で」
どこか辛そうな表情をして、タカコさんは言った。
「――ソルジャーなんて……またミクルが悲しい思いをすることになる……」
俺が二階へ上がると。既に俺が眠ることになるらしい部屋の準備を終えた朝比奈さんが杜若の花を生けていた。ちなみに、朝比奈さんとは部屋は別々だ。さすがに、泊めさせていただく身なのに彼女と同衾したいと言い出す程、俺はチャレンジャーじゃない。
「七番街へは六番街を抜けて行くの。六番街、ちょっと危険な所だから、今夜はゆっくり休んでくださいね」
部屋に入る俺に朝比奈さんはそう呼びかけ、
「キョン君……おやすみ」
そのまま一階に降りていった。
「まいったな……」
さっきのタカコさんの言葉もあったが、俺自身、神羅と敵対しているテロリストだ。これ以上彼女と一緒に居ては、更なる危険に巻き込みかねない。ここは、やはり早々に出て行く必要があるだろう。だが、それは彼女が寝静まった深夜になってからだ。
俺はその時を待つため、朝比奈さんが用意してくれたベッドの上に転がったが、やはり今日も色んなことがあって疲れていたのか、猛烈な睡魔が俺を襲う――
――かなり、アレだな。疲れてるみたいだぞ――
「…………!?」
――こんなきちんとしたベッド、久し振りだな――
「……ああ、そうだな」
――あれ以来、かな――
『本当に立派になってぇ。そんなんじゃ、あれだね。女の子もほっとかないだろう』
――そう、あれはニブルヘイムの俺の実家。ベッドに転がる俺に母親がこう俺に言ってきたんだ。
『……別に』
『……心配なんだよ。都会には色々誘惑が多いんだろ? ちゃんとした彼女がいれば、母さん、少しは安心できるってもんだ』
『……俺は大丈夫だよ』
『あんたにはねぇ……ちょっとお姉さんであんたをぐいぐい引っ張っていく、そんな女の子がピッタリだと思うんだけどね』
『……興味ないな』
目が覚めると、辺りはすっかり暗くなっていた。……いつの間にか、眠ってしまったのか。――六番街を越えて七番街へ、か。一人で何とかなりそうだな。
俺は朝比奈さんに気付かれぬように足音を殺して階段を下りる。明かりも消えた一階の居間。俺はそこに生けられた花々にそっと別れを告げた。さよなら、朝比奈さん。多分もう会う事は無いと思いますが、あなたに逢えた事は決して忘れませんよ。
俺は六番街スラムへと続く門に向かって走ったが、そこにはなんと、当の朝比奈さんが立っていた!?
「お早い出発、ですね」
一体いつの間に? ずっとここで待ってたのか。俺がやって来るまで。……全部お見通しだったって訳か、やれやれ。
「危険だと分かっているのに、あなたに頼るわけには……」
「――言いたい事はそれだけですか?」
決意の宿った彼女の声に、俺はぐうの音も出ない。
「涼宮さんのいるセブンスヘブンは、この先の六番街スラムを通らないと行けないの。案内するから、さ、行きましょう!」
そう言ってさっさと先へ走っていく朝比奈さん。俺は呆れながらも彼女の後を追った。
六番街への道には、少なからずモンスターが出現した。特に家の化け物みたいな奴が厄介だったな。突然中から爆発したかと思うと、猛烈な勢いで突進してきた。俺は何度も朝比奈さんをかばったから、ダメージが蓄積しすぎて危うく死に掛けたのは内緒だ。すると、朝比奈さんが、俺が持っていたマテリアを使って回復魔法『ケアル』を繰り出し、傷を癒してくれた。どうやら彼女には回復系の魔法を操る才能があるようだ。
そうこうする内に、俺たちは小さな公園に辿り着いた。向こうには大きな鉄製のゲートが見える。
「あれが、七番街へのゲートです」
それはいいんだが、ここまで連れて来てしまって、朝比奈さんをどう家に帰すのか、まるで考えてなかった事に俺は愕然とした。あの道を一人で帰すわけにもいかんだろう。……仕方ない、セブンスヘブンまで連れてくか。向こうに着いたら男手もそれなりにあるしな。
「それもいいなと思いますけど……でも、キョン君困らない?」
え? 俺が朝比奈さんをつれて七番街に行ったら何が困るって言うんですか? すると、朝比奈さんは少し呆れた顔をして「いいです、もう……」と呟き、
「ちょっと休みませんか?」
公園の中へと入って行く。
朝比奈さんは公園の中にあった、モーグリ――この世界での妖精みたいなものだ――の形をしたドーム状の滑り台を見上げ、
「懐かしい。まだあったんだ」
その天辺へうんしょ、と可愛らしい声と共に登っていった。
「キョン君、こっち、来てください!」
俺も続いて登っていく。朝比奈さんは滑り台の頂上にちょこんと座っている。そして、おもむろにこんな事を聞いてきた。
「キョン君、あなたのクラスは?」
「『クラス』?」
聞き覚えの無い単語に俺は彼女にもう一度聞きなおす。
「ソルジャーのクラスです」
「ああ、俺は……」
何かを言いかけたその時、頭の中を閃光が走りぬけた気がして、そのまま次の言葉を彼女に告げていた。
「クラス……1stです」
「……おんなじだ」
『同じ』って誰のことだろう。そう彼女に尋ねると、朝比奈さんは少し儚げな微笑みを浮かべてこう言った。
「――あたしの初めての友達。たった一人の、親友」
何だろう。彼女のその言葉の、どことなく物哀しい響きは。だから俺は、努めて明るい声音で言葉を繋げた。
「もしかしたら俺も知ってるかも。その人の名前は?」
しかし、朝比奈さんは静かに首を横に振る。
「……もう、いいんです」
黙り込む朝比奈さんに、俺は何て声を掛けようと思案に暮れていると、突然七番街スラムへのゲートが開き、チョコボ――地上を素早く奔る巨大な鳥だ――に曳かれた車が現れるのが見えた。ん? あの後ろに乗っている、あのシルエットは――
「――ハルヒ!?」
しかも俺が見たハルヒは、黒いワンウェイストレッチ、網タイツ、付け耳、蝶ネクタイに白いカラー、カフスおよび尻尾――まさにどっからどう見てもバニーガールの格好をしていた。何考えてんだあの野郎。
ハルヒは俺に気付いたらしく、驚いたように目を丸くしていたが、何故か急にジト目となり、不機嫌な顔をしてアカンベーをしてきやがった。そのまま、チョコボ車は俺たちの前から走り去っていく。
「あれに乗ってた人が涼宮さん? どこ行くのかしら? それに、様子が変でしたね……」
とにかく後を追わないと、俺はチョコボ車の去った方へと駆けて行く。朝比奈さんも俺の後についてくる。
「朝比奈さん! 俺一人でいい!! あなたは家に!!」
「あたし、キョン君を七番街まで連れて行くと決めてますから! それに、今のを見て、放ってはおけません!!」
そう言って走るのをやめない。仕方ない。決して俺の傍から離れないで下さいよ。
そして――俺たちがチョコボ車を追った先は、六番街スラム内でも特に有名な歓楽街「ウォールマーケット」だった。
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