第2話 出会いの前日

 ほんの少し喉が渇いていた。

 早く家に帰れば冷蔵庫で缶ビールが冷えているのだが、サーバーから出る生ビールが飲みたくなった。

 俺はサラリーマンが1人でも入れるような寂れた居酒屋を探した。繁華街の外れなら小さな居酒屋があるだろうと見当を付けていたが、不景気のせいかこちらの都合に合う店はなく、どこもかしこもチェーン店の居酒屋で、若い奴らで騒がしい。静かな店を求めても、洋風で高そうな店しかなく、そういうところはカップルか、気取った奴しかいなく、40半ばのオッさんが1人で入る勇気はない。


 特別嫌なことがあったわけではない。上司から、君の仕事は詰めが甘い、と定時で退勤カードを打った後、残業代も付かないのにくどくどと1時間以上説教されただけだ。その上司は、期待してるから言うんだ、と説教を終え自分の退勤カードを打った。なんのことで説教されたのかわからない。上司の残業代稼ぎに捕まっただけで、いつものことだ。


 月曜日の気怠さが残り、それをコピーしたような火曜日、少し今日という日に色を付けてから帰りたかっただけだ。

 ああ、やっぱり家に帰って缶ビールでいいか、となかば諦めていたところ、後ろから肩を叩かれた。


祐司ゆうじ?」


 振り返ると、そこには口髭を生やしたスーツ姿のガッチリとした体型の男が立っていた。顔を見ると、どこかで見覚えがある。社会人になってからは下の名前で呼んでくるような親しい間柄の人間はいない。俺をしたの名前で呼ぶのは、別れた女房くらいだろう。

 大柄の男が親しみを込めた顔で近づいてくる圧が凄くて一歩下がる。年恰好は俺と同じくらいだ。多分、同級生なのだろう。


 俺の反応が薄いので、男はバツの悪そうな表情で「常田祐司つねたゆうじだよね」とフルネームで確認してくる。気不味い空気が流れ、人違いですよ、と逃げようかと思っていたところ、男は急に表情が明るくなり、なにやらその場で踊り出した。


 体を前後に動かし、前に踏み込んだ時に前屈みになる、その時腕は何か放るようにし、それを何度か繰り返すので、それは背負投げのポーズなのか、と分かると、そいつが高校生の頃柔道着を着ている姿がポッと頭に浮かんだ。髭のせいで分からなかった。


 確かそいつは高校の時、柔道選手権大会で全国まで行った奴だと思い出した。2年の時に同じクラスだったが、週1回の活動しかないほぼ帰宅部だった俺と、毎日部活で練習の彼とは、放課後遊ぶことはほとんどなく、休み時間につるむくらいの仲だった。

 運動も勉強もできなかった俺は、小中学校一緒だった友達と当時流行りだったバンドを組み、放課後はほとんどそのメンバーと過ごしていた。

 それほど本気ではなく、モテそうかとチャラチャラした気持ちでバンドを組んだ俺と、柔道に明け暮れる彼とは、一緒のクラスだった以上の接点はない。

 休み時間だけの付き合いで、それでも普通に冗談を言い合ったり、それなりに仲は良かった。


「おう」


 やっと思い出した俺に彼は安堵の表情を浮かべる。しかし、名前を思い出せない。

 確か「井」が付いたような気がする。井上、井沢....松井だったか、ダメだ思い出せない。


「オレだよ、高校の時柔道やってた〇○だよ」と自己紹介してくれればいいのに、なんとしても俺に思い出させたくて、ジェスチャーみたいなヒントを出してきたかと思うと軽く頭にきた。


「〇井〇くんじゃないですか、久しぶりですね」


 俺は彼のことをなんと呼んでいたのか思い出せない。呼び捨てだったのか、下の名前だったのか、それとも渾名あだながあったのか。

 彼の名字が「井」が先か後かわからないので、「井」の前後をモゴモゴと有耶無耶にして、今は大人なので昔からの付き合いの人にも敬語なんですよ、という雰囲気を出して誤魔化した。


「なんだよ、余所余所よそよそしい。昔みたいに『グッチー』でいいよ」


 なんだ、だったのか。

 高校の頃の友達は、小中と一緒だった友達と比べて期間が短く、印象が薄い。

 高校卒業してすぐに就職した俺と、大学進学した井口は、ほぼ会うことはなかった。成人式でチラッと会ったくらいだ。名前くらい忘れていても当然だろう。


「なに、呑み行くの?」


 井口はコップを煽るような手つきをした。


「真っ直ぐ帰るか、どうしようか悩んでたとこだけど」俺は素直に答えた。じゃあ呑みに行こう、と彼に言われ、少しだけ面倒に感じたが、どうせ真っ直ぐ帰ったところで家には誰もいないし、騒がしいいざへ1人で行くよりはマシか、と良い方に考えることにした。


 すぐそばのチェーンの居酒屋でも良かったのだが、取り敢えず良いお店がないかというていを作り、少し歩いてから、青い暖簾に『静岡おでん』と書いてある地元では多少繁盛している店に入った。


 静岡のどこの居酒屋にも「おでん」は置いてあるのに、テレビでB級グルメだご当地グルメだと騒ぐから、どこの居酒屋では態々わざわざ『静岡おでん』だと銘打って出している。こちら地元の人間にしてみれば、子供の頃には駄菓子屋だって軽食屋だって、どこででも売っているものとしての認識しかない。これは県外の人へ向けてのアピールなのか。

 以前、県外出身者の同僚が、『黒はんぺん』を食べてみたい、というのが不思議でならなかった。こちらからすれば、灰色のが『はんぺん』で、白いのが『白はんぺん』なのだ。

 子供の頃、焼いたはんぺんや、はんぺんフライや、はんぺん料理が続くので嫌いになる奴は多い。それなのに、大人になってから県外の人間と呑みに行くと、必ずと言っていいほど得意気な顔して『黒はんぺん』を注文する。そして珍しそうに見られると、「え?静岡は、こっちがはんぺんだよ」と地元人間アピールを態々してしまうのだ。


 取り敢えず「生」で乾杯をし、きゅうりの浅漬けと、焼き鳥の盛り合わせと、はんぺんフライを注文した。はんぺんフライが運ばれてくると、フライにかけるのはソースか醤油かで一旦話が盛り上がる。

 井口も柔道の推薦で大学に進学し、東京で暮らし始めてから、初めて向こうで『白はんぺん』を食べた時、あれだけ嫌いだと思っていた『黒はんぺん』の方が美味い、と思ったそうだ。


「あれは別の食べ物だな。色の問題じゃねえ」


 井口が言った。何を食ってるのかがわからねえ、そう言いながら彼はフライにソースをドバッとかけた。『白はんぺん』にはソースはかけない。『黒はんぺん』のフライだから合うのだ。


「なんか、空気食ってるみてえなんだよな」


 俺もあのふわふわしている食感が苦手だ。


 同級生の誰が結婚しただとか、誰は会社を立ち上げて社長になっただとか、同級生の近況の話を聞かされた。

 彼が挙げた同級生を半分くらいも覚えていなかった。覚えてないくらいの相手だから、興味もなく、適当に相槌を打っていた。

 あとは、高校の頃にあった他愛もない思い出話。二股をしてた奴が両方にばれて修羅場を迎えた話や、パチンコ屋で隣に座っていたのが教師でそのまま停学になった奴の話だとか。それにしても、他人のことをあれやこれや良く覚えている奴だ。


「そう言えば、祐司、今何してんの?仕事」


「普通のサラリーマンだよ」


「営業?」


「営業も事務も、んん、何でも屋だな」


 俺は事務用品の販売をしている会社に勤めている。社長を含めて社員数12人という小さな会社なので、営業や事務など細かい部署はない。


「何でも屋ねえ。お前は昔から器用だったからな。スポーツも勉強もできて、クールだって言って女子にモテてたしな」


「え?それ、俺じゃなくねえか」


 俺は運動も勉強も苦手だった。それにクールでモテてた記憶はない。


 上司には、お前はいつも抜けてると言われ、部下には、あの人は完璧主義者で冗談も言えないつまらない大人と陰口を叩かれ、同級生にはクールでモテてた奴だと記憶されている。

 そして元女房が別れ話を切り出してきたときに言われた言葉が、


 あなたといると、1人でいるみたい


 だった。


 意味が分からず、直すようにするから何がいけないのか教えてくれ、と情けないことにすがってみたが、鈍感だから無理よ、と既に女房のサインがしてある離婚届を突きつけられた。


 俺は、詰めが甘く、完璧主義者でつまらなく、クールでモテる、鈍感な人間なのか。


 俺が変わってしまったという自覚はない。普通にしているだけだ。見る人によって、俺は別人なのか。じゃあ、自分はどういう人間なのか、俺にはわからない。






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