長い夜の始まり ~新川透の事情・その3~(1)

「――私達、いつ出会ったの?」


 莉子の黒い瞳が真っすぐに俺を射抜く。いつもの黒縁眼鏡はかけていない。すっぴんであどけない顔をしているのに、視線だけは鋭い。

 前傾姿勢で、両手の拳は膝の上。ギュッと、強く握られている。


 聞くまでは一切動きません、何にも応じません、という覚悟が見て取れる。

 この状態になってしまうと、もうテコでも動かないだろう。

 やれやれと思いつつも、たまらないな、とも思う。


 莉子はやたら人目を気にする。黒縁眼鏡で身を隠しているときだけでなく、ちゃんと可愛い恰好をしているときも、だ。

 前々から、俺はそれがかなり不満だった。単なる恥ずかしがりなのかもしれないが、意識が俺より周りに向いているようで気に食わない。


 だから、山奥の秘境の温泉で、この場にいるのが俺たち二人だけならば。

 世間から隔離して非現実的な空間に閉じ込めてしまえば。


 莉子も肩の力が抜けて楽になって、夢の世界に酔ってくれるんじゃないかな、と。

 俺のことだけを見てくれるんじゃないかな、と。

 そんなことを考えていた。


 概ねその計画は間違っていなかった……と思うけれど、やはり莉子は、俺の狡いところは見逃してはくれない。

 ある程度は丸め込まれてくれるけれど、肝心なところは引かないんだ、絶対。

 最後の一歩で、必ず踏ん張ってしまう。川底に留まる石のようだ。勢いに流されるよりも、身を削られようが動かない方を選ぶ。


 いつ出会ったのか……か。

 結婚したら教えてあげるとは言ったものの、まぁ無理だろうなとは思っていた。俺と本気で向き合おうとしたときには必ず聞くだろう、と。

 だから、この状況は喜ばしいことだと思わなければならない。

 これが年貢の納め時というやつだろうか。


「聞いたら後悔するかもよ?」

「しない。流されるよりマシ」


 ははは、これぐらいの脅しじゃビクともしないか。


「逃げ出したくなるかも」

「そんな中途半端なことはしない」

「え?」


 意外な返事が返ってきて、思わずまじまじと見つめた。二人の視線は、ずっと絡み合ったままだ。

 いつもの莉子なら、照れてすぐに目を逸らしてしまうのに。


 腹で何かを抱えている時の莉子は、こういう感じになる。俺が何を言おうが全く動揺せず、ひたすら真っすぐに見つめてくる。

 そして今は、すべての感覚を研ぎ澄ませ、俺の一挙一動から何かを悟ろうと、全神経を俺に集中させている。


 莉子の全部が俺に向けられていると思うとゾクゾクして身体が痺れそうになるのだが、多分コレを言うと今は逆効果だな。真剣に向き合っているのに、と本気で怒り出しそうだ。

 俺も真剣なのは間違いないんだが。


「どういう意味?」

「逃げるか逃げないか、この二つしかない。話を聞いた上で決断したいの」

「逃がさないよ」


 即座に返したものの、明らかに俺の方が分が悪かった。予想済みだったのか、莉子は全く表情を変えない。


 要するに、今の莉子は

「信用してほしいなら、とにかく手の内は全部見せろ」

と、俺に武器を突き付けているようなものだ。

「できないならこれまでね」

と自分自身を人質にして。


 それが、俺に対してどれほどの威力があるかということを、莉子は全く解っていない。

 こんなことを無自覚でやってのけるんだからな。本当に、もう……。


「まぁ、今日お酒を飲まなかったのはそのためで」

「え?」

「全力で莉子を口説く気だったから。お酒の勢いだの何だのと理由をつけられると困るな、と」

「……なるほど」


 その意気込みは漠然と理解できたらしく、莉子はふむ、と頷いた。

 戦闘態勢に入っているのか、『口説く』というワードぐらいじゃ全く動じない。


 つまり、俺も今の莉子と同じでガチで勝負する気だった訳だが。

 しかしこれは、敗戦濃厚といったところか……。いや、そもそも莉子に勝てたことはないんだが。


 俺ができることと言えば、正直に話して俺の本気を分かってもらって

「頼むから傍にいてくれ」

と懇願することぐらいだろう。

 主導権は完全に、莉子にある。


「じゃあ、ちょうど良かったね」


 そんなことにはちっとも気づいていない莉子は、そう言ってわずかに口の端を上げた。いつもより妙に大人びて見える。

 残念ながら、俺には笑う余裕はない。……が、意地でも微笑んでみせる。


「ま、そうなるか。……で、初めて会った時、だけど」


 こうなったら……いきなり核心を突くしかないか。


「7年前かな。莉子が小5で、俺が高3のときだよ」


 さらりと言ってみる。

 莉子は一瞬、ピクッとし――しばらく経ってから、目と口を大きく開けた。


 どう? 莉子。

 これは……かなり予想外だったんじゃない?



   ◆ ◆ ◆



「新川、お前、暇だろ。ちょっと手伝ってくれないか」


 あれは、俺が高3の9月中旬。センター試験の願書の配布が始まり、この華厳学園でもいよいよ受験ムードが高まってきた頃。

 俺はというと、卒業後は渡米してアメリカの大学を受験する予定でいた。そんな俺にとってはセンター試験なんてどうでもいいし……と余裕をかましていたところ、入試課の先生に捕まった。


「僕も受験生ではあるので、暇ではないですけど。……何ですか?」

「明後日の日曜日、小学5年生・6年生対象の学校説明会があるんだ。それちょっと、どうにかしてくれないか?」

「えっ、急ですね。だいたいそれって生徒会の仕事じゃないんですか?」

「2年の生徒会長が盲腸で緊急入院してな。お前、去年もやっただろ?」

「まあ……」

「な、頼む! お前に頼るしかないんだよ」


 学校説明会は、序盤こそは教師で回すものの、中盤以降、学校生活や寮、部活動についての説明は生徒会が中心になる。生徒会長が喋らないといけないことも多いし、回さないといけない部分も多い。

 いきなり抜けたとあっては確かに代わりにできる人間はいないだろう。


「……わかりました」

「助かる! 何かあったときは便宜を図るからな!」


 いえ、先生に頼むようなことは何もないですけどね、と思いながら、俺は生徒会室に向かった。

 案の定、副会長を始めとする後輩たちはパニックになっていて、俺が顔を出すと

「新川先輩~~!」

とまるで神が現れたかのように崇められてしまった。それらを適当にあしらいつつ、どこまで準備ができていてどこに手が回っていないのかを確認する。


 この頃の俺はというと、本心を隠し表面だけ上手くやっていれば結果的に自分の利に繋がる、と高を括っていた。捌けるときは捌いて、どうしても受け入れられない時はきちんと否定すれば、都合よく利用されることもない。

 周りを自分の思う通りに動かすためには、反発するんじゃなくて上手く転がすことを考えた方がずっと効率がいい、と。そんな風に考えていた。


 いつもならそう合理的に動くところだが、事態は思ったより混乱していた。本当は後輩に指示してやらせた方がいいんだろうが、日にちもあまりなく面倒くさい。仕方なく、自分で動くことにした。

 生徒会役員には女子もいて、こんな切羽詰まった事態でも女というのは自分のアピールを忘れないので、非常に扱いに困る。

 そんなくだらないやり取りに時間を取られるぐらいなら、付け入る隙を無くした方が手っ取り早い。



 ……しかしこの後のことを考えると、俺に頼んだ先生にも、盲腸で入院した生徒会長にも、そして邪魔だったはずの女子生徒にも、深く感謝しなければならないのかもしれない。


   * * *


 そして、日曜日。

 朝の9時から受付、説明会に来た教師や生徒、保護者を誘導。

 理事長の話や卒業生の講演が行われている間に体験授業の会場や寮など、これから案内する施設の最終確認をする。


 自分でこなした部分が多かったせいか、午後12時頃まであちこち駆けまわる羽目になった。

 さすがに疲れたな、と思いながら、最後の会場、スクールコモンズに入る。


 説明会の最後は、スクールコモンズ内のホールに生徒・教師・保護者の全員が集まってもらい、生徒会長……の代理である、俺の挨拶だ。

 一足先に会場に入り、座席数やマイクなどの確認をする。


「お疲れ、新川。もう休んでていいぞ」


 先生にポンと肩を叩かれ、ハッとして振り返る。ちょっとぼーっとしていたようだ。

 先生の背後には、生徒会役員の面々もずらりと並んでいる。

 各会場の案内と説明は既に終わったようだ。あとは随時、参加者たちがこの会場に流れてくるはず。


「とはいっても、挨拶もありますし」

「実は入試課の連絡で抜けたところがあってな。その説明もあるから俺がやるよ。ありがとな、新川」

「ここの誘導は僕たちでやりますから」

「新川先輩、本当にありがとうございます」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 確かに、今日は愛想笑いする場面が多すぎて顔の筋肉も攣りそうではあったし。

 気疲れした部分もあり、俺はみんなの言葉に甘えて少し休むことにした。


 もういいと言われても、関わった以上最後まで見届けた方がいいだろう。コーヒーでも飲んで休憩したら、また戻ってこよう。


 一度食堂まで行き、自販機でコーヒーを買う。それを飲みながらボケッと過ごしたあと、再びスクールコモンズへと向かった。

 遠目にも一般コースと特別選抜コースの両方の校舎からスクールコモンズへと人がぞろぞろと連なって歩いているのが見えた。

 時刻を確認すると、最後の挨拶の開始時刻を十分ほど超えている。どうやら少し押しているようだ。

 誘導すると言っていた生徒会役員の姿は見当たらない。多分、コモンズ内の誘導で精一杯なのだろう。


 仕方ない、参加者全員がコモンズ内に入ったかどうかのチェックは俺がするか……と辺りを見回したところで、桜の木が目に入った。

 正確には、その桜の木を見上げているらしい、少女の後ろ姿。

 恐らく今日の説明会に参加した小学生だろう。5年生か6年生の筈だが、妙に小さいし痩せている。


 スクールコモンズの脇にあるその桜は、華厳学園では告白の名所となっている。春ならば桜は満開となりなかなかロマンティックな光景となるのだが、9月である今はただただ緑の葉が伸びているだけ。特に見どころもないのだが……。


 何となく気になって回り込み、少女の顔を確認する。

 とりたてて目立つところもない平凡な、どこにでもいそうな女の子だ。口を半開きにして、葉しかない桜をボケーッと見上げている。なぜか瞳だけは、やけにキラキラしているが。


 華厳学園の受験を希望するタイプには見えないな、というのが第一印象だった。ウチの学園に来たいという生徒は、良くも悪くもきっちりしているというか、集団行動を乱さないおとなしい子が殆どで、こんな単独行動するような子はいない。


 飽きれば中に入っていくだろう、としばらく黙って眺めていたが、少女は微動だにしない。

 そうこうしているうちに、スクールコモンズに入っていく人の波も途切れてしまった。

 この子が最後の参加者、ということになるだろう。とにかくとっとと会場に入ってもらわないと。


「ねぇ、君」


 君が動いてくれないと俺の仕事も終わらないんだけどね。

 面倒だな、と思いつつ声をかける。


「……」


 聞こえてない……。この桜の、何がそんなに気になるのか。


「君、ちょっと」


 イライラを押さえつつ顔には笑顔を張り付け、軽く肩を叩こうとした。

 うわ、本当に小さいな……。


「ひゃっ!」


 少女が小さく悲鳴を上げて振り返り、俺から距離を取るようにバッと後ろにジャンプした。さながらノラ猫のようだ。肩を叩こうとした俺の手が空を切る。

 どうやら驚かせてしまったようだが、そこまで逃げなくても……。野生動物か、この子は。

 返事をしないお前が悪い、と思いながらニッコリと微笑みかける。


「驚かせてごめんね。説明会の参加者だろう? こっちだよ」


 まぁ、照れてモジモジするか慌てて駆けていくかどっちかだろう、と思いながら手を伸ばす。

 しかし、少女の反応はそのどちらでもなかった。


「やっ……」


 ビクッと肩を震わせ、さらに後ろに一歩後ずさる。俺は少なからず、ショックを受けた。


 これは……怖がられている? 何故だ?

 未だかつて、こんなリアクションをされたことは無いぞ。しかも女の子に。

 

「仁神谷さん! こんなところにいたの!」


 コモンズ内から二十代後半ぐらいの女性が現れた。どうやら少女を連れてきた先生のようだ。


「あ……」

「……!」


 俺が視線をそらした瞬間、少女はダダーッと俺の横を走って通り過ぎていき、その女教師の背後に隠れた。


「あ、ごめんなさい、本当に。私が目を離した隙に……」

「いえ。どうぞ、中に入ってください」


 教師が高校生に媚を売っていいのか、妙なシナは要らないぞ、ちゃんと仕事しろ、と思いながら微笑む。

 すると、背後の少女がますます顔を強張らせていた。


 おかしいな、俺は疲れすぎてちゃんと笑えていないのだろうか……と思ったが、目の前の女教師は特に気づいた様子はない。

 たっぷりと間を持たせて「すみません」とお辞儀をし、少女の背中を押して歩いていった。

 少女の様子がおかしかったのが不満だったのか、

「仁神谷さん、駄目じゃない。ちゃんと挨拶しないと……」

と注意している。


 少女は「ごめんなさい」と口では素直に女教師に謝ったものの、表情は不満そうだった。

 チラリと俺の方を見た。……ような気がする。


「でも……あの人の顔、怖かったから」


 その声は本当に小さくて、我ながらよく聞き取れたものだと思う。

 だが、それほど――圧倒的な鋭さで、俺の耳を貫いたのだった。

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