放課後ラストエピソード・大団円(のはず)

約束の日(1)

 25日の前期試験が終わると、急に気が抜けて勉強が手に付かなくなる。

 合格発表は3月7日。もし落ちていたら、3月12日の後期試験を受けなければいけない。後期は小論文のみなど学科試験のない大学が多いけれど、Y大の場合は数学と理科の2教科受験。得意の英語が無くなるので、前期よりやや分が悪くなる。

 だからボケーッとしてちゃ駄目なんだけど、なかなかねぇ。


「何だい、気もそぞろだねぇ」


 ジャブジャブと地下の洗い場で機械的に雑巾を洗っていると、山田さんにパーンと背中を叩かれた。


「あ、すみません。えーと、ちゃんとやります」

「いや、仕事に手を抜いているとは思ってないさ。ただ呆けた顔をしてるね、と思ってさ」

「前期が終わって、ちょっと気が抜けちゃって……」


 手応えが良かったからといって受かってるとは限らないんだけどさ。

 はぁ、この時期ってモチベーションの維持が難しいなあ。


「ちゃんとストレス発散はしたのかい? 27日から普通に仕事に戻ってきてるし、ロクに遊んでないだろう」

「いえ、仕事は午前中のみですし、午後は図書館に行ったり気晴らしに散歩したりはしてますし」

「あんた、老後じゃあるまいし」


 フンと鼻であしらわれる。

 いや、だって、一人でやれることと言ったらそれぐらいしか……。


「新川先生にちゃんと遊んでもらいなよ」

「はあっ!?」


 何で急にそんなことを言われないといけないの! やだ、思い出させないでよ!

 山田さん、何か知ってんのかな!?


 えーと、あれ以来……特に何もありませんが……あー、個別補習をしてもらっていた時間に「海外の映画のDVDを一緒に見る」ということになりました。

 27日の木曜日は急な出張とかで無くなったけど、昨日の月曜日はちゃんとおベンキョーしましたよ。

 ……ただし、後ろからハグ状態でね!


 あの、何で並んで座っては駄目なんでしょうか? 

 恋人同士ならこんなもの、とか言ってたけど、絶対に嘘でしょ。あの人、どこから情報を仕入れてるんだろう? まさか少女漫画じゃないよな?


 ただ不思議なもので、人って少しずつ慣れるんですね。2回目である昨日は多少撫でられても……。

 いや! 多分、映画が面白かったからだな! うん、そうだ! 間違えちゃいけない!


 だいたい、この温もりに慣れちゃいかんのですよ。

 だって春には……離れ離れになるんだからさ。もし私が無事に大学合格を果たしたらね。

 勿論、合格するつもりだし! そうそう!


   * * *


 午前中の掃除の仕事を終え、裏口の扉の横にある小さな窓から外を覗き見る。……よし、予備校生はいないな。

 ホッと一息ついてガチャッと重い扉を開けると、右側から黒い影が飛び出してきた。


「えっ……きゃっ!」


 グイッと腕を掴まれガッと抱えあげられる。


「ちょ……」


 脇には白い車が停まっている。裏口の窓からは死角になる位置で、全然気づかなった。

 助手席にボンと投げられ、バタンと扉が閉められる。男はすぐさま運転席に乗り込むと、ギャンッとタイヤの音を鳴らしながらすさまじい勢いで予備校の裏口から飛び出した。


「ちょ……どういうつもり!?」


 何が起こったのかよくわからず叫ぶと、ハンドルを握る男――はい、この端正な横顔を不自然に歪ませている新川透が

「莉子を誘拐したんだよ」

と、それはそれは楽しそうに答えました。


 ゆう……誘拐!? 聞き間違いじゃないよね!?

 ちょっとあんた、ホンモノの魔王スマイルになってますよ。

 かつて見たことがない、こんな嬉しそうな表情! しかもひどく黒い!


「え、何……」

「ちょっと黙ってて」


 新川透はホルダーに立てかけてあったスマホを操作した。ハンズフリー状態にしてあるらしく、コール音が私にも聞こえる。


“はい、新川です”

「玲香さん? 莉子は預かったから」

「ちょっ……んぐっ!」


 割って入ろうとした私の口を、新川透が左手でガバッと塞ぐ。

 ちょっと、何するのよ!


“ええっ!?”

「今日から三日間、莉子の身柄を預かる。父さん達にはそう伝えて」

“ちょっと待って、どういうこと!?”

「放っておいてくれってこと」

“何を馬鹿な……莉子ちゃんはどうしてるの!?”


 玲香さんの慌てふためいたような声が聞こえる。

 そりゃそうだよね。だって今日はまっすぐ家に帰って、お昼ご飯は家で食べるね、って言ってたんだもん……。


 玲香さーん! この人、マジで拉致しました! ついに!

 これは本物の誘拐事件では!?


「ちゃんと隣にいる。玲香さんの声は聞こえてるよ。莉子の声は聞かせられないけどね」


 あんたが口を塞いでるからでしょうが! んでもって、何でそんなノリノリで誘拐犯になりきってるの!?

 何を考えてるのよ、いったい!


“莉子ちゃん、お義父さん達には透くんに無理矢理連れていかれたって言うから!”


 いや、実際その通りですが! だから何!?


“こっちのことは気にしないで!”

「ふぐっ……」


 いやいや、そういう問題じゃないだろ! そんな簡単に受け止められません!

 玲香さん、何でそんなに切り替え早いの!?


「じゃ、そういうことで」


 新川透は私の口から手を離すと、通話をプチッと切ってしまった。

 そして私の方を見ると、にっこりと笑う。どちらかというと聖人君子スマイルに近く、逆に怖い。


「という訳で、莉子は俺に誘拐されました」

「はぁっ!?」

「今日から三日間は俺のモノね」

「何言ってんの! 私、明日も明後日も仕事があるんだけど!」

「桜木社長には伝えてある。ちゃんと休みを取っておいたから」

「んがっ……」


 何てこと……そんなところまで根回し済みか!

 おかしいな、シフト表はそんな風にはなってなかったはずだけど。


「何で、こんな……」

「莉子、今日が何の日か覚えてないの?」

「覚えてるよ。3月3日、私の誕生日でしょ?」


 だから、自惚れじゃないけど後で連絡がくるだろうな、とは思ってたよ?

 前に旅行は断ったけど、代わりに何かしてくれるんだろうな、とは期待してました。指輪はもう貰ったから、外に食事に行くとか……。

 だからさ、今日は寄り道せずに玲香さんの家に戻って、それなりの準備を、とかさ、その、いろいろ考えて……。


 あわわ、それはいいとして!

 まさか、その『してくれたこと』が誘拐だったとは!


「でも、旅行ナシにしようって言ったよね?」

「俺、ウンって言ってないよね?」

「……」


 言ってないわ、確かに。

 そしてその後、一切この話題には触れなかったような。だって受験一色、超マジメモードだったし。

 まさか、ずっと陰で計画してたんだろうか。

 きっとそうだ。いつの間にシフトまで……。

 

 そういえば山田さん、「ちゃんと遊んでもらえ」とか言ってたなあ……。このあと私が拉致されるって、知ってたんだろうか。

 他の人はともかく、予備校清掃の責任者である山田さんがシフトの変更を知らないってことはないと思う。

 となると、明日私が来なくて、その理由は山田さんから他のおばちゃん達にも知られることになる訳で……。


 何てことだ! こんなことなら素直に旅行に行くって言っておけば良かった。そうすれば「横浜に用事がある」とか、何とでも理由は付けられたのに。

 まさか、新川家だけじゃなく掃除のおばちゃんズにまでバレることになるとは!

 恥ずかしすぎるだろ! 完全に裏目!


 ちょっとアンタ……これだけのことをしておいて、よく

「俺のことを信用してくれない」

とか言えたな! 信用できる訳ないでしょうがあああ!


 拳を握りしめてフルフルしていると、新川透が

「もう高速に乗っちゃったしね。諦めて」

ととても軽い調子でのたまった。


 何て事をしやがる、と思って隣を見ると、予想とは反してちょっと真面目な顔をしていた。先ほどまでのニヤニヤ笑いが消え失せている。


「莉子は、無理矢理俺に攫われて、旅行に行く羽目になったの」

「は……」

「優しい莉子は、そんな俺の我儘に仕方なく付き合うことにした、と」

「え……」

「だから、何も気にする必要はない。何もかも俺のせいにしていいから、莉子の時間を俺にちょうだい」

「……」


 新川透の言わんとすることが分かって、私はガックリと力が抜けてシートに倒れ込んでしまった。そのままズリズリと下に滑り落ちそうになる。

 脱力、というやつだ。反抗する気力がなくなってしまった。


 そうか……この誘拐作戦の着地は、そこか。


『旅行に行きたくない訳じゃない、でも「行ってらっしゃい」と新川家に見送られるのは、何だか恥ずかしい。居候の身だし新川のお父さんとお母さんに申し訳ない気がする』


 私が前に言ったコレを根こそぎぶっ飛ばすために、大芝居を打った訳ね。

 しかしここまでするかなあ……。そのエネルギーはどこから湧いてくるの。

 逆にこっちは精気を吸い取られたような感じだよ。


「何か……怒ってるのが馬鹿馬鹿しくなってきた」

「そりゃ良かった。嬉しいよ」

「言っておくけど、許した訳じゃないからね。だいたい……」 

「とりあえずサービスエリアに入るか。莉子、着替えないとね」

「人の話を聞け!」


 私のクレームなど意に介さず、新川透は鼻歌混じりにウインカーを出した。

 はぁ、まったく能天気な……と、妙に浮かれている新川透を睨みつける。


 こうして私達の初めての旅行は、恵に話したら大いに笑われそうな、ひどく珍妙な幕開けとなったのだった。

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