花束の陰で ~新川透の事情・その2~(前編)

「じゃ、また来週な」


 2月10日、月曜日。個別補習を終え、莉子とタケと恵ちゃんを玄関まで見送る。

 基本的には、玲香さんが俺のマンションまで迎えに来てくれて三人を送ってくれることになっている。木曜日は莉子だけなので、俺が玲香さんの家まで送ることもあるが。

 最初はタケの個別補習は別にするつもりだったが(それは勿論、莉子との時間を確保したかったから)、恵ちゃんが入ったことで奇妙なバランスが取れているようにも感じる。


 タケは両親ではなく兄さんと俺が育てたようなものなので、少々極端な価値観を植え付けられてやや人間不信気味なところがあった。

 まあ、少しは責任を感じないでもないが、兄さんの善人理論だけではタケなんて世の中の悪意にあっという間に飲み込まれてしまう。兄さんがあのままでいられるのは、しっかり者の玲香さんが傍に付いているおかげなのだから。


 そういう存在もなく気弱なところもある末っ子気質のタケでは、それではあまりにも不安だ。そんなことでは世の中の荒波を渡っていくことはできないだろうし、致し方ない。

 しかし、裏表のない莉子と恵ちゃんのコンビのおかげで、普通の……と言っても、俺には何が普通かもよくわからないが、まぁとにかく、予備校の他の生徒とあまり変わらない感じにはなってきたように思う。



 リビングに戻ってパソコンを起ち上げると、ちょうどスカイプの着信がきた。

 こんな時間にアイツから連絡が来るとは珍しい、と思いながら受信すると、画面にバスローブを着た男性の姿が映った。


 風呂上がりなのか、肩までのブラウンの髪をタオルで拭きながらいつものトマトジュースを飲んでいる。

 眉がシャープに整えられ、髭も剃られてなくなり、サッパリとしている。普段かけている色付き眼鏡もなく、色白の繊細そうな整った素顔がそのまま晒されていた。

 画面に映った琥珀色アンバーの瞳がやや上下に大きくなる。


“トール、カンケリって知ってるか”


 挨拶も無しにいきなり訳の分からない質問を投げかけるこの男は、ノア・ベイカーという名のアメリカ人男性。俺の一つ年下で、唯一友人と呼べる人間でもある。

 ノアのこういう突拍子もない問いかけはいつものことなので、俺もそう驚きはしない。


『日本の子供の遊びだな。鬼ごっことかくれんぼを合わせたような感じだ』

“オンゴット、カクレボ”

『ちょっと違う。何だ、また何かの開発か?』


 この男は、スマートフォン向けのゲーム事業の他インターネット広告事業なども手掛ける会社の社長だ。3年スキップして入ったMIT在学中に起ち上げ、瞬く間に全米どころか全世界に顧客を抱える企業に成長させた。


 本人はコミュニケーション能力に難のある、いわゆる『引き籠りの天才』とため、通常彼と直接話すことは難しく、取り次ぎはノアの5歳年上の従姉いとこであるイザベル・ムーアが請け負っている。

 なお、ノアに会社を起ち上げることを勧め、表に出ることが苦手なノアの代わりに身の回りの一切を取り仕切っているのもイザベルである。


“んん。ただ個人的に興味、持っただけ”

『ふうん』


 しかし仕事中のノアは身の回りのことに頓着しないため、髭もぼうぼうで髪もボサボサ。眼精疲労の防止と開発に集中するため、薄い青色がかった分厚いレンズの眼鏡をかけた状態でいることが多い。

 ……となるとこれは完全にオフで、単なる思い付きで聞いてきただけか。


『久しぶりに素顔を見たな』

“昨日、だった”

『……なるほど』


 ニューヨークは朝の6時を過ぎた頃だろう。

 要するに、「ゆうべはお楽しみでしたね」ってことか。


 ノアは確かに人とのコミュニケーションが苦手ではあるが、全くできないわけではない。しかしできないフリをして――イザベルの庇護無くては生きていけないフリをして、彼女を全力で引き留めている。

 女神のように彼女を奉り、指一本触れない。

 それがノアの、幼い頃から今に至る彼女の愛し方だった。


 そして『間食』と称してノア曰く『嫌いな女』を抱いている。ノアに言わせると、『嫌いな女』なら心置きなく捨てられるから、らしい。

 今では若き成功者なので、ノア目当てのそういう女性は後から後から湧き出てくる。ノアは心の底から軽蔑しながらも気が向いたときに相手をしているらしい。


 そうしてどこか傲慢な振舞いをするノアを、世話好きでお人好しなイザベルは

「ノアは誰にも理解してもらえなくて寂しいのだわ」

と献身的に支えている。ただし、あくまで『年上の従姉』として。


 だからイザベルに時々恋人らしき青年は現れるものの、結局は彼女は仕事――つまりノアを選び、そのたびにノアの元に還ってくる。……というより、ノアがそう仕向けている。

 俺が言うのも何だが、かなり歪んだ恋愛観の持ち主である。


 ただ逆に言えば、ノアは「嫌いな人間」以外には冷たくできない、優しい……というより臆病な人間でもある。周りからどう見られるかという事をひどく気にするため、相対するすべての人間の機嫌を窺っていてはノアの精神が持たない。

 必要最低限の人間としか交流しないのは、ノアの心を守る術なのだ。



 そんなノアと知り合ったのは12歳のとき。夏休みに渡米した先のチェスの大会で、だった。

 思えばその時も、イザベルが俺に声をかけたんだったな。



    ◆ ◆ ◆



 ――また、あの少年だ。


 これまで観戦ばかりだったがいよいよ大会に参加してみることになった。受付を終えて辺りを見回すと、賑わう人々から隠れるようにして、その少年は身を縮こませていた。

 まだ11歳だというのに他の大人を圧倒していた天才少年。その傍らには彼よりだいぶん年上らしき美少女がいつも付き添っていた。誰かに話しかけられても、対応するのは必ず美少女の方である。きっと、かなり内気な少年なんだろう。


 あれ、そう言えば今は一人だな。……大丈夫なんだろうか。


「トール・シンカワ? ちょっとよろしいかしら?」


 不意に美しい少女の声が耳に飛び込んでくる。名前を呼ばれるとは思わず、驚いて振り返った。

 ブロンドに水色の瞳、いわゆる日本人が思い描くアメリカ人美少女がにっこりと微笑んで俺を見つめていた。

 あの、天才少年にいつも付き添っていた美少女だった。


「……何でしょう?」


 二十代から三十代が参加者のメインとなっているこの会場では、この美少女は注目の的だ。通り過ぎていく人間がこちらをチラチラと見ている。

 何歳ぐらいなんだろう……外国人女性の年齢はよくわからないなあ、と思いながら美少女を観察する。


 典型的なグラマー美人だが、不思議と一切の厭らしさが感じられない。

 それに、よくある媚びた視線ではなく、慈愛に満ちた母親のようなまなざしを俺に向けている。


「初めまして。私は、イザベル・ムーア」


 イザベルは丁寧に会釈をした。緩いウェーブのかかった髪がふわふわと揺れる。


「このチェスの大会に、私の従弟いとこも参加しているの」

「あ、はい。ノア・ベイカー君ですよね」


 なるほど、従弟だったのか……と思いながらそう返すと、イザベルの表情がパッと明るくなった。

 彼女の肩越しに見える少年の顔にも、「あれ?」という表情の変化が見て取れる。


「知っててくれたの?」

「はい。僕より一つ年下なのに凄いな、と注目していました」

「それなら良かったわ! 実はノアはとても引っ込み思案で心配しているの。だけど共通の趣味のあるお友達ができたらノアも変われるんじゃないかと思って」


 イザベルはふんわりと聖母のような笑みを浮かべた。


   * * * 


 ただひたすらにノアのためにと、俺に声をかけたイザベル。そのイザベルが言うのなら、と偏屈なようで素直なノア。

 その第一印象は、俺にしては珍しく非常に好ましいものだった。


 周りにいい顔をしながらも他をすべて排除していた俺と、他を排除できないがために自分の殻に閉じこもっていたノア。

 異国の人間、これぐらいがお互いにとってちょうどいい距離感だったのかもしれない。


 その夏はノアとイザベルと三人で過ごす日が増えた。最初はやや口ごもっていたノアも、やがてイザベルを挟まず俺と話ができるようになり、日本に帰国するときには少し寂しそうな顔をしていた。

 その後は長期休暇のたびに渡米して顔を合わせたり、スカイプで話をしたり……そうして交流しているうちに、ノアの緊張も解けていったようだった。

 話題もチェスだけではなく、学校のことや将来のこと――そして、恋愛のことまで広がっていった。

 勿論、そうなるまでには……二年ぐらいの月日を要したが。


   * * *


「トール、来ないのか……」

 

 あれは、俺が中3の夏。渡米し、三か月ぶりにノアに直接会った時のこと。

 両親に涙ながらに止められたからアメリカそっちに行くことはできなさそうだ、と告げると、ノアはガックリと肩を落としていた。

 相変わらず周りに友人と言える人間はおらず、個人的な話をする人間と言えば、イザベルと画面を通して話す俺のみだという。家族すらノアを不気味がり、必要最低限の会話しかしないそうだから。


「ごめんな。さすがにどうにもならなくて」

「ん。トールがそう言うなら、仕方がない」

「随分、信用してくれているんだな。……思えば、最初からそうだったな」


 ノアは初対面の人間に話しかけられるとあからさまに警戒し、嫌そうな顔をすることが多い。返事をせずに逃げることもある。

 だけど俺に対してはそういうところはなかったな、と改めて思い返した。


「トールは、イザベルに色目を使わなかった」


 ノアはそう言ってこくこくと頷いた。

 そこかよ、と言いたくなったが、ノアの中ではイザベルは『女神』であり、最優先事項なので無理もないことだ。


「僕に声をかける男は、イザベル目当てばかり。気持ち悪い」

「ああ……」

「でも、トールはイザベルのこと関係なさそう、と思った」

「実際、興味がないからな」


 こんな言い方をすると通常なら「失礼だ」と言って怒りそうなものだが、ノアにとってはとても気分がいいものらしい。


 ノアにはとても純粋な部分と、主にイザベル関連で威力を発揮する狡猾かつ手段を選ばない悪魔のような部分があって、そういうところが人間らしいというか、俺と正反対なようで近い部分でもあるな、と面白く感じていた。


「トールの女神は、いつ現れるのかな」


 不意に、ノアがポツリと呟いた。いつもの無表情だ。

 良くも悪くもノアは割り切りが早く、自分の中で解決すると次の話題に移ってしまう。


「この世にはいないんじゃないか? 女神だけに」


 試しに何回か女子と付き合ってみたけど、全く面白くなかったし。時間の無駄とさえ感じてしまった。

 いっそのこと、ノアのようにやや年上と付き合ってみればいいんだろうか。

 ……いや、全く興味が湧かない。そのために労力をかける気にはどうしてもなれない。


 俺は人間らしい情愛が持てない、欠陥人間なのかもしれない。

 そう思ってやや投げやりに答えると、ノアはぷるぷると首を横に振った。


「トールは身内には優しい。冷血人間じゃない」

「そりゃ、まあ……」

「だから、可能性はある。楽しみ」

「何が?」

「トールが女神に狂うのが」

「馬鹿なことを言うな」


 何でこの俺が、と呆れてそう言い返すと、ノアは珍しくフフフ、と声に出して笑った。



 ノアは天才だが、予知能力がある訳ではなかったと思うのだが。

 このときの言葉は、後に現実となる。

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