『ミネルヴァ』が終わる日

 今日で最後か……と思いながら、職員用階段を昇る。

 12月20日、金曜日。私が光野予備校の掃除婦としてフルで働く、最後の日。

 来週からは月曜日から金曜日の午前のみ、というシフトに変更になる。いよいよ受験体制に入るのだ。


 小林さんと言えば、あのあと1週間ほどしてから手紙をくれた。

 どうやら身辺がバタバタしていたようで、

『報告するのが遅れてすみません』

と手紙の中で謝っていた。

 新川先生が大人げなくてガッカリした、とか、両親の離婚が決まってせいせいした、とか自分の気持ちの変化を丁寧に綴ってあった。

 まぁ、相変わらずワガママではあったけどどこか可愛らしくて、以前と比べると嘘みたいに穏やかな文章だった。


 海野くんと一悶着あった頃は、両親のことやクラスメイトのことで荒れていたんだろうな、と思う。だからって万引は駄目だけど、まぁ未遂だった訳だしね。

 環境が落ち着いたら気持ちもだいぶん落ち着いたようだ。


 恵は

「志望が同じだから最近わりと喋るんだよね」

と言っていた。『コバ』『メグ』と呼び合う仲になったらしい。

 まぁ、実際に彼女と会話する前は色々とモヤモヤしたけど、喋ってみたらそんなに悪い子ではなかった。

 恵は友達だろうが何だろうが駄目なものは駄目とはっきり言う人だし、人間関係に疲れた小林梨花が懐くのも、何となく分かる気がする。


 だけど

「それにしても何で私の周りって変な子ばっかりなのかなあ」

……とこぼされた時は、さすがにガックリとしたけども。

 恵、それって私のことも言ってるよね? 私自身はかなりマトモなつもりなんですけど?


 まぁ、小林梨花とはちょっとバトったけど、最後は和解したし。それに別に嫌いではないので、恵が小林梨花と友達になったからといって拗ねたりはしません。

 同じ目標があると分かり合えることだってあるだろうしね。



 さて、掃除婦の仕事を減らすのに合わせて、ミネルヴァも終了することにした。シフトが変わり、トイレ掃除は私だけの仕事ではなくなるからだ。

 一時期に比べると小林梨花を入れて3、4人ぐらいに減っていたけど、それでも正体不明の『トイレのミネルヴァ』を頼りにしてくれた……私と関わりを持ってくれた、大切な人達だった。


 だから最後の一週間は、質問をくれた人たち一人一人に、

『12月20日で質問対応を終了します。今までありがとうございました』

と書いた。

 まぁ言うなれば、閉店のお知らせというやつだろうか。

 言い伝えの『女神』が閉店というのもおかしな話だ。だけど黙って諸々を置き去りにするよりはマシじゃないかと思うんだけど……。


 そんなことを考えながら7階女子トイレの扉を開けると、洗面台にはクッキーの空き缶みたいな円形の缶が置かれていた。


 誰だ、こんなところにゴミを置いていった奴は。生徒用に設置してあるゴミ箱は燃えるゴミだけだから、処分に困ったのかな。

 だからってこんなとこに置いていくなよ……。


 溜息をつきながら缶を見ると、蓋に

『トイレのミネルヴァ様へ』

と油性マジックで書いてある。


 へ? 私あてのお歳暮? ……って、そんな訳ないって。


 首を捻りながら蓋を開けてみる。

 中には、小さいメッセージカードやルーズリーフを簡単に折っただけの物、複雑な変形折りしてあるものなど様々な紙が入っていた。だけど宛名はすべて、『ミネルヴァ様』になっている。


『助かりました。ありがとう、ミネルヴァ!』

『ミネルヴァのおかげで、苦手な英語も少しだけ苦手じゃなくなりました。本当にお世話になりました』

『ミネルヴァもお疲れ様!』

『缶を用意したのは私です(笑)。ミネルヴァありがとう!』

『ねぇ、最後だから教えてください。あなたは誰?』


 真面目に感謝の言葉を綴ってある手紙や、最後だからと無茶な質問をしてくる手紙。十通ぐらいはあった。

 ミネルヴァが終わると聞いて、最近は利用してなかった人もわざわざ書いてくれたのかもしれない。

 勤務時間中に駄目だよね、と思いながら、私は一つ一つ開いて手紙を読んだ。どうしても我慢できなかった。


 『トイレのミネルヴァ』は新川透が勝手に作ったもので、伝説でも何でもない。

 きっと質問をくれた人たちだって、薄々感じてはいただろう。

 なのに、そんな私に「最後だから」と言葉をくれる人たちがいる。


 新川透がいなければ、こんな嬉しさも味わえなかった。

 いろいろあったけど……本当に感謝している。


 何やら胸にぐっとこみ上げてくるものを感じて、目頭が熱くなった。視界がじわじわと滲んでくる。

 いけないいけない、と思いながら天井を見上げる。落ち着いたところでもう一度空き缶の中を覗くと、底の方に一枚だけ英語のプリントが入っていた。


『ミネルヴァ様、最後に助けて!』


 よく見た字――小林梨花のものだ。何となく「らしいなあ」と感じて、ププッと吹き出しそうになる。

 プリントを広げ答えを書きこみ、余白に

『これで最後です。今までありがとうございました。受験頑張ってください』

と書いておいた。


 服の背中に貼り付けたクリアファイルに、貰った手紙をしまう。今日は量が多いからかなりゴワゴワする。だけど、全く気にならない。何だか温かい気さえする。

 この背中のファイルも、今日でお役御免だね。


 そう考えてまたちょっと喉が詰まり、涙が出そうになった。慌ててこらえる。


 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。かなり早歩きだ。

 足音だけでわかる。これは……。


「莉子」


 清掃中の立て札を置いて開け放してあった扉から、新川透が顔を覗かせた。


「何?」

「いや、夕方までいるの今日で最後だろ、と思って。……あれ?」


 何かに気づいた様子の新川透がつかつかと近寄ってきて、あっという間に両手が私の両頬を包む。そのままグイっと顔を上げさせられた。

 心配そうに覗き込む新川透と、否が応でも目が合ってしまう。


 な、な、何だ! 急に何をする! しかも距離が近い!

 この人アレ以来、本当に遠慮がなくなったな! 両想いだからって何してもいいって訳じゃないんだぞ!


「ちょ……」

「泣きそう? 何かあった?」


 今のこの状況が泣きそうですけど! グガガ、強攻顎クイは止めてもらっていいですか。

 無駄にその綺麗な顔を近づけないでー、恥ずかしいから!

 だいたい私の顔を見るのにこんな体勢になる必要があります!?


「な、何もない!」

「イジメられた?」

「今イジメられてる!」

「そうじゃなくてさ」

「こっちだってそうじゃない!」


 白状しないと解消されないらしい。……というか、ナゼに私はいつもいつも追い込まれているのだろうか。

 仕方なく、私は洗面台の空き缶を指差した。


「ミネルヴァが最後だからってお手紙もらったの! それでちょっと感動して泣きそうになってただけ!」


 そして『ミネルヴァ』を作ってくれた新川透にも感謝してたんですけどね。

 これで差し引きゼロですな、まったく。

 とにかく顔から手を離してよー!


 新川透は「ふうん……」とやや不満そうに呟くと、私の顔から両手を離した。

 ぐは、首がちょっと痛い。顔がふみーってなったじゃないか。


「もう……」

とボヤきながら睨んだが全く通じなかったようで、新川透はかなり不服そうに口をへの字に曲げた。


 何ですか、その少年のような顔は。

 七歳も年上のくせに可愛いアピールは止めてください。……というか、通用しそうになるのが怖いわ!

 ヤバい、『好き』を自覚するって、怖いね! ワキがどんどん甘くなっている気がする!

 その証拠に脳内でわーい!とプチ莉子ズが激流に流されそうになっていて、慌ててひっ掴んで叱りつけた。

 おバカなのか、お前達は。流されてる場合じゃないのよ。ここ、正念場!


「何なの、その顔は?」


 気を取り直してそう聞いてみると、新川透はますます口を尖らせた。

 だから、可愛いアピールはやめい!


「何か悔しいな」

「何でよ?」

「莉子、プロポーズしたときだって泣きそうになんかならなかった」

「……そりゃそうでしょう……」


 何を言ってるんですかね、この人は。

 だって、感動より驚きの方が大きかったしね。

 ……ってか、泣かせたかったの? だとしたら色々と間違えてるよ?


「ようし、本番でリベンジしよう」

「リベンジ?」

「莉子が感動して泣いてしまうぐらい壮大なプロポーズ大作戦を……」

「やめて、マジでやめて!」


 新川透の本気のプロデュースとか、怖すぎる!

 絶対にマトモなシナリオにはならないに違いない!


「あのねぇ、女子がみんなサプライズ好きだと思わないでね。場合に寄っちゃ、すごーくハタ迷惑なんだから」

「そうは思ってない。だいたい女性の一般論なんてどうでもいい」

「は……」

「あくまで莉子の話ね。莉子は意表をついた方が反応が面白いから」

「面白いって言ってる時点で、もうズレてるからね!」


 ここはしっかり釘を刺しておかねば、とビシッとツッコむと「えー」と何だか不満そう。

 頼むから普通にお願いします。

 えーとちょっと待て、普通は普通で恥ずかしい? そもそも『普通』って何だ?

 ……って、何でこんなこと考えてんだー! 流されるなっての!

 えーい、ニヘラ顔のプチ莉子ズはまとめて往復ビンタだ。てい、ていっ!


 とにかく落ち着こう、と私は「んっ」と咳払いを一つした。


「……あのね、何事も適度というものがあるのよ」

「そうだね。まぁ、プロポーズされる気があると分かっただけでもヨシとするか」

「い……言ってないじゃん、そんなこと!」

「否定しなかっただろ?」

「……っ……それはアレよ、頭から否定して水を差すのもねぇ?」


 いつまでもそんな論法が通じると思うなよ。どうとでも返しようはあるんですー。

 ふふ、私は日々進化し続けるのだ!


 ニヤリと笑ってみせると新川透は「おや」という顔をしたあと私の頭をぐしゃぐしゃっとした。


「頑張るねー、莉子も」

「他人事みたいに言うな!」

「そうか、俺の頑張ってるんだね」

「違う、あなたの頑張る羽目になってるんです!」

「まぁ、変わらない、変わらない。同じ意味だよ」

「全然違う!」


 私のツッコミも空しく、新川透は何だか楽しそうに笑いながら、女子トイレから出ていった。

 うーん、何がそんなに愉快なのか、私にはよく分からないな。


   * * *


 7階女子トイレをいつもより念入りに掃除し、最後に洗面台の上に空き缶を置いておく。

 そうだ、中身が入っている間は処分せずに置いておいてくれって、山田さんにも頼んでおかないと。


 残った空き缶には、小林梨花の英語のプリントと、メモ用紙を1枚。


『皆さん今まで本当にありがとうございました。――トイレのミネルヴァより』

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