トイレのミネルヴァは何も知らない
加瀬優妃
1時間目 ストーカー問題
第1話 見つかっちゃったよ
『どうしてもわからないんです。助けて、ミネルヴァ!!』
小さめの丸い文字。これはいつもの常連さんだね。
まったく……しょうがないなあ。
と言いつつ、にんまりしてしまう。
小さな曇りガラスの窓から、8月の明るい日差しが漏れている。
しかしそれでも、この光野予備校の7階の女子トイレは、薄暗い。
冷房なんてないから、妙にジメジメしていて暑苦しい。
洗面台の横には、二つに折りたたまれた紙がポツンと置いてあった。開いてみると、B4サイズのプリントが2枚出てくる。
それはどうやら、この予備校で出された英作文と数学の宿題のコピーのようだ。
英作文のプリントの余白の殴り書きの文字にニヤニヤしつつざーっと読んでみると、持ち帰るほどでもない簡単な問題だった。
ポケットからシャープペンを取り出し、答えとなる英作文を書き連ねる。
「……ま、こんなもんかな」
書き終えた英作文を見返し、とりあえずその場に置く。
次は数学、と。
「……うーん……」
こっちはどうやらどこかの大学の入試問題のようだった。
見たことはある。あるけど……ちょっと自信がないな。
仕方ない、こっちは持ち帰ろう。
やっぱり数学はちょっと苦手だな……。独学部分が多くて、難しい。
『助けて、ミネルヴァ!!』の文字の下に『数学は2日後に』と書いて、元通り洗面台の上に折りたたんで置いておく。
着ていた服を脱ぐと、内側の背中部分に張り付けてあるクリアファイルに、数学のプリントをしまった。
これは、預かったプリントを持って歩いていたらさすがにマズい……と自分で作ったものだ。透明なクリアファイルを安全ピンで止めただけのもので、ちょっと背中がゴワゴワするけどもう慣れてしまった。業務には何の支障もない。
元の通り服を着直すと、私は鏡で自分の格好をチェックした。
分厚いレンズ、太い黒縁のメガネと大きめのマスクが顔の9割を隠してくれている。グレーの三角巾で頭部もがっちりガード、歪んでない。
『さくらライフサポート』という刺繍の入ったグレーのユニフォーム姿……左胸のネームプレート、本当は付けたくないけど規則なので仕方なく付けている(微妙に下を向くように。名前を見られたくないからね)。
だって……万が一、かつての同級生に会ってしまったら、困るから。
あるときは『掃除のおばちゃん』。またあるときは『トイレのミネルヴァ』。
そしてその正体は……。
天涯孤独の
* * *
「……お疲れ様」
女子トイレから出て、『清掃中』の立札をドアの前からどかしていると、急に背後から低い男の声が聞こえた。
びっくりだ。ここ、滅多に人が来ない7階のトイレなんだけど?
「……お疲れ様です」
振り返って小声で挨拶をし、きちんと顔が隠れているか大きめのマスクに手をやりながら、頭を下げる。
ちらっと視線を上げて……二度びっくりする。
この予備校の生徒じゃない、講師だ。
しかも、生徒人気ダントツナンバー1の、
大病院の次男だとかで、本人も医学科卒。なのに医者にはならず、今年の春、この光野予備校の数学講師として就職したという変わり者。
身長はすらりと高く180㎝はゆうに超え、適度に筋肉もついた細マッチョ。テニスでは全医体(えっと、全日本医科学生総合体育大会の略ね。要は医学科の部活の全国大会)にも行ったらしい。高校時代は生徒会長を異例の二期務めたという、文武両道のハイスペック超絶モテモテ人生まっしぐらの……まぁ要するに、私なんかには全く縁のないスペシャルな人なのだ。いわゆるチートキャラというやつだろうか。
ちなみにここまでの情報は、山田のおばちゃんを始めとする掃除婦仲間から仕入れました。
特に山田さんはこの予備校の担当長いからなー。ここの人達のことは色々知っていて、聞いてないのに教えてくれるんだよね。
あの先生は教え子と結婚したのよ、とか、この先生は一流企業をやめてこの予備校に流れてきたらしいわよ、とか。
でも、それは掃除婦の間だけの話で、外には一切漏れてないんだけどね。掃除婦は、働いた先で知った情報について守秘義務があるから。
そんなおばちゃんたちの噂話は悪い内容が圧倒的に多いんだけど、新川透だけはおばちゃん達もベタ褒めだったんだよなー。うちの娘と結婚してくれないかしらー、とかなんとか。
はあー、今日も白いワイシャツ・青地のストライプネクタイがサマになってますね。
私も一応女子なので、イケメンは嫌いじゃないよ?
だけど、おかしいな? 彼は今日は夜の部――つまり現役高校生の授業の日だから、午後出のはずだ。
まぁ、何か仕事があったのかもしれないけどね。私の知ったことではないか。
私は会釈だけすると、なるべく早くその場を立ち去ることを選択した。
例のプリントの主が現れるかもしれない。
「ちょっと待ってくれる? 仁神谷さん」
「……っ!!」
まさか名前を呼ばれるとは思わなくて、ビクッとする。
生徒受けがめちゃめちゃ良い「新川センセー」は……掃除のおばちゃんの名前まで網羅してんの?
マジすげーっす。
主に全館のトイレを担当している私は他のオバちゃん達と違って表のエレベーターを利用せず、裏の職員用階段で移動することが多い。
すれ違ったくらいはあるかもしれないけど……いや、ない。ないな。絶対「ほー、これが噂の……」とか何とか覚えてるはずだもん。
とにかく、新川透とは
あ、そっか、これだ。
私は思わず、左胸につけていた『仁神谷』と書いてあるネームプレートを見下ろした。
いやはや、観察力も大したものですわ。
うーん、でも、よくスラっと読めたな。ちょっと躊躇う人が多いんだけど。
「何でしょう?」
とりあえず、平常心、平常心。
私の動揺をこの男に悟られるわけにはいかない。
「ミネルヴァって君だよね?」
「――はい?」
な、な、急に何を言いやがるか――!!
危うく叫びそうになったわ!!
マスクの下で唇がプルプル震える。
新川透、どこでそのワードを知った?
「あの……私には、何のことだか……」
「本当に?」
そう言って彼が手元でヒラヒラさせたのは、私の背中にひそかに仕舞われている数学のプリントと同じもの。
そっか、アレ、新川センセーの授業の課題だったのか。
……あれっ。これ、本当にバレてる?
「えーと? 私はただの掃除婦で……」
いかん、動揺している。ベタな犯人の台詞を言ってしまった。
思わず後じさる。
「でもさ」
新川透はあっという間に近寄ると、私の耳に手をかけた。払いのけようとしたが間に合わず、マスクが取られてしまう。
そしてその拍子に、眼鏡が飛び、頭の三角巾もほどけ――灰色の布が宙に舞った。
髪を留めていたゴムもどこかに飛んでいき、肩の下まである長めの髪がバサーッと音を立てて私の視界を遮った。
「掃除のおばちゃんではないよね。……若い女の子だ」
髪がハラハラと流れ落ちていく隙間からぼんやりと見えたのは……普段のキラキラ王子様スマイルはどこへやら。
奪ったマスクを指でくるくる回しながら、してやったりと微笑む、新川透の意地悪そうな口元だった。
「ね? 仁神谷莉子ちゃん?」
……えっ。
何でこの人、私のフルネームを知ってんだ!?
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