2、ガトバルの街

 空は暗く濁り嵐の訪れを告げている。二人がガトバルに到着したのは昼過ぎだったが、夕暮れを感じさせる薄暗さだった。

 旅人を出迎えるように立ち並ぶ燻製小屋を過ぎると、石畳の道が始まる。街に入ると溢れかえる人の熱気に包まれた。予定は大幅に遅れたものの、天気が崩れる前に街に辿り着けたことに安堵して、二人は外套の襟を緩めた。

「もっと小さい街かと思ってたよ。人が多いんだね」

「船が足止めされちまってるのかもな」

 感嘆の声を上げるパンに対して、サハルトは淡白な反応を返した。それは地元の人間らしくわけ知り顔に振舞ってみただけで、胸の内には熱いものがこみ上げていた。

 街に近づくにつれて濃くなる潮の匂いや、旅人を拒むような厳しい向かい風、村の入り口に並ぶ燻製小屋。些細なこと全てが故郷を感じさせる。離れていた時間の分だけたまらない気持ちになる。

 パンはお見通しだと言わんばかりにいたずらっぽく微笑ので、サハルトは気恥ずかしさをごまかすように咳払いをした。ロバの背から這い降りると人ごみにもまれる前に、互いの荷物を整理する。

 二人で行くのはここまでだ。サハルトは医者のところへ寄る。怪我が治るまでは自宅で大人しくしなければならないだろう。パンは船で次の国に発つという。とはいえ今晩は温かい食事とうまい酒で旅の疲れを癒すため、ガトバルに宿を取る。

「うちに泊まるか? 独り身だから気負う相手もない」

 この人の多さでは、宿が埋まってしまっているかもしれない。

「うーん、それも魅力的なんだけど、せっかくだからこの街の酒場に行ってみたいんだ。いい場所知らない?」

「このまま通りを真っ直ぐだな。港に出たら右に曲がって、三つ目の角にある夜鳴きの鶏亭に行くといい」

「変わった名前だね」

「主人に由来を聞いてるといい。きっと気に入る」

 そこはサハルトの馴染みの酒場でもあった。楽師ならば、あそこが宿を取りやすいだろう。

「楽しみにしてるよ。じゃあ、サハルト元気でね」

「ああ。お前の航路に風の加護があらんことを」

 互いの背はすぐに通りに溢れかえる人の波に流され消えた。




 パンは荷物を背負い直すと、夜鳴きの鶏亭を目指して歩き出した。港に向かう道はこの街のメインストリートで、活気にあふれている。教えられた道は単純明快で迷う心配はなく、安心して左右に立ち並ぶ店に目移りをすることができた。

 入り口に立ち並んでいた燻製小屋の数にも納得がいく。港街でありながら鮮魚を並べた店と同じくらいの数、保存食を扱う店があった。皮の水筒やランプ、毛布やロープといった旅の必需品を揃えた店も多い。

 よだれを垂らしそうになりながら燻製の店を眺めていると、吊るしベーコンの中に覚えのある品がぶら下がっていた。サハルトが振舞ってくれた魚の燻製だ。店主はパンが興味を持ったのをみると、すぐにその腕をしっかりとつかまえてあれこれと試食を勧めてきた。いささか強引な客引きだが彼らに悪気はない。人懐っこい笑顔に負けて財布の紐を開けば、ご馳走でカバンは膨れても、船賃も宿代もなくなってしまう。

 屋台のようにグリルで自慢の商品を炙っては差し出してくる主人を振り切り先へ進んだ。今晩の宿が最優先、お腹を膨らませるのも大事だけれど、火口箱を新しくしてランプの油を補充したいし、港にいるうちにナイフと槍を研ぎにも出したかった。

 あちらの店を覗けばこちらの客引きに捕まり、後ろ髪を引かれながら前に進めば通行人に押しのけられた。硬い蹄で誰かの足を踏んづけてしまわないようにするだけでも一苦労だ。ふらふらと蛇行しながらもなんとか港までたどり着くと、視界が開けた。

 大きな船が沢山停泊している。嵐の気配を感じとって港に避難してきた海鳥が、帆桁の上で身を縮めていた。

 街の入り口と港をつなぐメインストリートは、ガトバルの街の中心を貫いている。港にでると左右に分かれ、海岸線に沿うようにして、外海へ向かって緩やかな弧を描いている。左の方には地元民の漁船と思しき小ぶりな船が並び、右には幅広の橋と大型の船がある。

 普段なら活気の中心になるであろう港には、嵐から船を守るために奔走する男たち以外は見えず、閑散としていた。白波が波止場に押し寄せては砕けていた。海から吹き付ける風を遮るものは何もなく、煽られるたびに転びそうになった。大きな帆船の陰に入るとやっと風は弱まったが、相変わらず激しい唸りを上げている。

 目当ての店は三つ目の角。橋を渡ってから通りの数を数えていたが、そんなことをするまでもなくすぐに見つけることができた。三日月に向かって鳴く雄鶏の絵が描かれた看板が、金具を軋ませながら揺れている。雨戸は閉ざされているが営業中である印に、ドアの隙間から上機嫌な酔っ払いの歌が漏れていた。

 扉を開けて中に入ると、客の何人かが振り向いた。カウンターに店主の姿はなく、客席に目を移すが誰も彼も手にジョッキを握っていて、店員には見えない。

「おおーい、親父。客だぞ」

 近くに座っていた男が、声をかけた。店の喧騒の中ではせいぜい手の届く範囲にしか聞こえないように思えたが、伝言ゲームのように次々と隣の客が声をあげ最終的に店の奥から店主と思しき男が出てきた。恰幅が良く、酒樽も酔い潰れた客も一人で持ち上げられそうな力強さがあった。

「おう、悪いな。給仕の連中がまだ来てなくてよ。テーブルは埋まっちまったカウンターで勘弁してくれよ」

 流れるように一杯目の酒を出そうとした店主を押しとどめる。

「いやあの、宿の方は、空いてますか?」

「おっと悪いな、そっちの客だったか。あんたわたりうたいか、楽士なのか」

「わたりうたいではないんだけど、楽士ではあるよ」

 店主はパンの格好を上から下まで眺めて、手にした楽器に目を留めた。

 そうして話している間にも、店のあちこちから店主を呼ぶ声が上がっている。店主はオーダーも聞かずにカウンターに四つエールを並べた。

「なら大歓迎だ。すぐにでも案内してやりたいんだが、今ぁ手が離せない。給仕の連中が来るまで待っててくれ。迷惑料にまず一杯だ。二杯目以降はきっちり頂くぜ」

 カウンターに置いたジョッキの一つがパンの目の前に置かれ、残りは餌をねだるひな鳥がごとき男たちの元に運ばれていった。その後もしばらく手は開かなかったようで、部屋に案内されるまでの間にエールを三杯飲み干し、小鍋で作る魚介の蒸し煮をゆっくりと味わう余裕があった。

 パンの案内を申し付けられた快活な青年は、給仕の仕事から一時解放されることを心の底から喜んでいるように見えた。店主から鍵を受け取ると、パンを伴って青く塗られた扉に向かった。扉には”宿泊専用”と書かれた札がかかっており、上から赤い字で”ここはトイレじゃない!”と殴り書きされていた。

 青年は店主から受け取った鍵で扉を開けた。扉の向こうは二階に続く階段だ。階段のランプに一つ一つ明かりを灯しながらだったので、二人は何度か立ち止まった。二階に並ぶ客室の扉はそれぞれ濃い緑色で塗られ、数字が振ってある。

 案内された部屋は広くはないものの、掃除の行き届いた綺麗な部屋だった。晴れた日には窓から、ガトバルの港がある小さな湾が一望できるのだという。今は雨戸が固く閉ざされ、カーテンをめくっても窓の向こうにはガタガタとなる木の板しかない。外は雨が降り出したようだ。

 手渡された鍵は二つ、青い札が付いている方が一階の扉の鍵、緑の方が部屋の鍵だ。扉の色に対応していて分かりやすい。

「今日はこのままお休みになります?」

「そうしたいけど、明日にでも出発したいから準備しないとなぁ」

 お腹は膨れたが、必要なものは何一つ買っていない。酔いが回って全部明日やればいいじゃないかという気分になっていたが、刃物の研ぎだけは今日中に出しておかなければいけない。

「確かに、今は船が港に釘付けでみんなピリピリしてるから、早めに発つに越したことはないですよ。陸路は普通に使えるんですけどね」

「え、そうなの。船、使えない?」

「はい。足止めされてる人が大勢いるから、船が動いてもきっと順番待ちですよ。船乗りはみんな暇を持て余して昼間から酒場で呑んだくれてます」

「それであんなに賑やかだったのかぁ」

「いや、うるさいのはいつもなんですけどね」

 青年は肩をすくめた。

「じゃ、明日出発するのは諦めて今日はこのまま寝ることにする」

「はい。では、おやすみなさい。鍵をかけ忘れないようにしてください」

 鍵をサイドテーブルに置き、青年は階下に戻っていった。

 旅装束を解き、水を持ってきて体を拭う。野宿の後だと、それだけで旅の緊張から解放されて気持ちが楽になった。

 ベッドは体が沈み込むほど柔らかくはないが、シーツは洗いたてで清潔な宿だ。静かに横になっていると、様々な音が聞こえて来る。くぐもって響く階下の喧騒と激しさを増す嵐の音を子守歌にしてパンは眠りについた。




 次の朝は空腹で目が覚め、ベッドの上で大きく伸びをした。

 夜は明けているはずだったが、雨戸が閉まっているので部屋の中は真っ暗だった。雨戸を開けると潮風が頬を撫でた。雨は止んでいたが相変わらず空には厚く雲が立ち込めている。

 身支度を整えると階段を降り、青い扉を開ける。

 夜鳴きの鶏亭は眠りについたところのようで、店内は静まり返っていた。豪快な店主も案内をしてくれた青年の姿もない。テーブル席は椅子が全て挙げられていて、掃除用のバケツとモップが置きっ放しになっていた。昨晩は見かけなかった男性が黙々と仕込みをしており、カウンター席で軽食を食べているのは見知った顔だった。

「あれ、サハルト」

 ちょうど食べ物を頬張ったところだったサハルトは片手を上げるだけで応えた。

 近づくと隣の席に立てかけてあった松葉杖をどかし、座る場所を空けてくれた。別れてからまだ一日も経っていなかったが、当初の予定ではパンは今日にでもガトバルの街を出発する予定だった。もう二度と会うことはないと思っていた友人との再会は嬉しかった。

「船が止まっちまってるらしいな」

「そう。だからしばらくはガトバルにいるよ」

「災難だったな」

「全然。ゆっくりする時間ができてよかったんだと思うことにした」

 ガトバルを早めに発とうとしていたのは、次の国でみたいものがあったからだ。

 海の向こうでは、耕地にできない斜面にベリーを植えて、草止めにする風習がある。収穫されたベリーは日持ちする形に加工され、同国の名産品にもなっている。冬に入る前にいけば、収穫風景が見れると噂で聞いたのだ。興味はあったけれど、無理を通して先を急ぐほどのことではない。

 パンの旅は、旅することそれ自体が目的の終わりがない道のりだ。観光は切実な理由にはならなかった。

「サハルトはなんでここに? 見送りに来てくれたわけじゃないよね」

「ああ、俺も昨晩は泊まったんだ。待ってたら会えるだろうって思っちゃいたから、見送りってのも間違いじゃないけどな」

「全然気づかなかった。サハルトも来てたんなら一緒に呑みたかったなぁ」

「かなり遅い時間に来たから、もう寝ちまってたんじゃないか。見かけなかったぞ」

「そうかも。昨日はずっとそこの席にいたし、気づいたと思うんだ」

 パンはサハルトの二つ隣の席を指さした。部屋を取るのに店主に声をかけたなら、カウンターにいたパンに気づかないはずはない。

 昨日までの旅装束とは打って変わって身軽なサハルトをみて、パンは気になっていた疑問を口にした。

「家には帰らなかったの?」

「留守の間、隣のやつに任せていたらすっかり物置小屋になっちまっててな」

 サハルトはうんざりした顔でため息をついた。

 パンと別れたあと、サハルトは街にただ一人の医者の元に向かった。手当てはすぐに済んだが、顔なじみと久しぶりの再会だったこともあって話が盛り上がった。家に向かう頃にはすっかりと日が暮れて、外は嵐になっていたのだという。

 家とはいっても、料理もろくにしないサハルトの住処は下宿屋の一室だ。医者と同じく顔なじみだった隣室に管理を任せていったのが、間違いだったらしい。ちょっと置かせてもらおうくらいの気楽さで運び込まれた荷物は部屋を埋め尽くし、ベッドどころか壁も見えない有様になっていた。びしょ濡れで帰宅してそれをみた途端に旅の疲れがどっと押し寄せ、隣人を叩き起こす気も起きなかった。

 混沌の中に自分の荷物を投げこむと、なんとか着替えだけを引っ張り出してここに避難してきたのだという。

「片づけはこれからってことか。その足じゃ大変そうだし、俺も手伝うよ」

「そのために話したみたいになっちまって、さすがに申し訳ない」

「どうせ船が動くまでは暇してるよ。それにサハルトの部屋がどんなのか興味ある」

「俺の部屋らしさなんて無くなっちまってるんだが、いいか」

「物置小屋がサハルトの家になるまで手伝うよ」

「なら、遠慮なく頼んじまうぞ。と、その前に飯がまだだよな」

 サハルトは、黙々と仕事をしていた男性に声をかけた。彼は昨晩店を切り盛りしていた店主の弟で、仕込みや仕入れを担当し昼の間の店を取り仕切っている。店を預かるもう一人の主人で、買い付けや仕入先への納金に出ている時以外はカウンターの向こう側にいる。宿泊客なら頼めば、軽食くらいは作ってくれるはずだから滞在中は利用するといい。

 そう説明してくれたのはサハルトで、本人はかなりの口下手らしかった。目があうと会釈を返してくれるが、紹介をされいてる間も一言も口を開かず、自分の仕事に徹していた。

「サハルトは何食べたの?」

 隣の皿を覗き込む。柔らかいパンを薄切りにして卵液につけ、間にハムとチーズや玉ねぎを挟んでこんがりと焼いてある。手で持って食べるには不向きなそれを、サハルトはフォークを使って食べていた。

「ホットサンドだな。野菜だけの料理も作ってくれるぞ」

「うーん、お腹空いてるし、がっつり肉が食べたいかなぁ。お願いできますか」

 昼間の店主は頷いた。

 旅人へのサービスなのか、出てきた皿は軽食というには豪華だった。叩いて伸ばした豚肉に卵とパン粉で衣をつけ、多めのバターで焼いている。熱々のそれをパンに挟んでかぶりつくと、溢れ出た肉汁で火傷しそうになった。肉を挟み込む生地はしっとりとやわらかいが、食べ応えのある密度だ。

 二口目に行こうとしたところで、じっとこちらを見ているサハルトの視線に気づいた。

「どうしたの。サハルトも、食べたかった?」

「いや、草食じゃないんだな、と」

「俺、牛じゃないからね?!」

 声を大きくしたパンを見て、サハルトはからからと笑った。

 食事を終えると、二人は夜鳴きの鶏亭を出た。空は濁った色をしていたが、嵐を予感させるような不穏さはない。太陽が見えない分、風が冷たく感じられた。

 大通りは石畳で舗装してあっても、裏通りに入れば踏みならされたむき出しの地面がある。放し飼いの鶏が大柄なパンの姿に驚いて逃げて行く。

 サハルトの下宿屋は三階建だった。一階は大家の住居で、二階より上は三部屋ずつある。狭くて急な階段を、サハルトは松葉杖を突きながら器用に上がっていった。彼よりも体の大きいパンは、壁に体を擦るようにしながらあとに続く。

「この階段、荷物持って登るの大変そうだね」

「多少、無理はしたな。治るのが遅くなっちまうかも」

「安静にって言われなかった?」

「無理な相談だ」

 何度も折り返す急で狭い階段を上っていると、自分の位置を見失ってしまう。階段がそこで終わっていたから、サハルトの部屋は三階だとわかった。

「雨が降り始めちまってたから、換気もろくにできてないんだ」

 言葉通り部屋の中は埃っぽく、よどんだ空気で満ちていた。白く積もった埃が昨晩のサハルトの痕跡をそのまま残している。

 窓が荷物に塞がれかけて部屋の中は薄暗かった。

 置いてあるものは全部足蹴にして良いという言葉を信じて、家主に代わって荷物を踏み越え部屋に一つだけの窓を開けた。件の隣人は仕事にでており、彼の荷物は一時廊下に追い出すしかなかった。

 サハルトに代わって、重い荷物を運び出す。その間に彼は部屋の中を掃除したり荷物の仕分けをしたりして、怪我に負担のかからない作業をこなした。真っ先にベッドを掘り起こして、調度類に被せられた埃よけの布を引っぺがす。天気は悪いがせめてもと、毛布を外で叩いて窓枠に掛けた。

 扉と廊下の窓を開け放ち風を通すが、それでも室内は埃で白っぽく見えた。一通りの荷物を運び出し終わったると、二人は一旦清浄な空気があるところに避難した。

 口元を覆う布を取ると、ようやく胸いっぱいに息を吸い込むことができた。

 宿を出た時に肌寒いかったのが嘘のように、全身に汗をかいている。肌が埃でざらついて気持ちが悪いので、手ぬぐいを借りて外の水場に降りた。顔を洗い、埃臭い手ぬぐいを一度ゆすいでから固く絞って汗を拭く。

 細い通りを抜けると民家の壁に囲まれたささやかな広場にでる。その真ん中に、彫刻があしらわれた井戸があった。彫り込まれているのは海にまつわる生き物らしい。表通りほどではないが人が多く、パンの角や耳を物珍しそうに見ていた。

 少し涼んでから戻るとサハルトの姿がない。ちょうど下から松葉杖をつく不均等なリズムが階段を登ってくる。

「部屋、開けっ放しでよかったの?」

「ああ、誰かがもってってくれりゃ片付けの手間が減る。それより、腹減ってないか?」

 彼は肩にかけていたカバンからビンと蝋引き紙の包みを取り出して並べた。包みからは湯気が立ち、食欲をそそる匂いがする。

「これ、食べていいの?」

「ああ、二人分ある」

「ありがとう」

 パンは廊下に積んであった手頃な大きさの木箱に腰掛けた。包み紙の中身はホットドッグで、かぶりつくとソーセージの肉汁があふれ出て、火傷しそうになった。

「焼きたてだね、どこで買ってきたの?」

「ちょうど外に屋台が来ててな。昼間は大通りを巡回してるんだ」

「いいなぁ、明日もお昼はこれにしようかな」

「本当に肉食なんだな」

「魚だって食べるよ」

「健康的だ」

 サハルトは部屋の中から戻ってくるとドアの横に積んであった荷物に腰掛けた。栓抜きが見つからなかったらしく、スプーンで瓶の蓋を飛ばしてパンに手渡す。中身は赤紫色のジュースで甘酸っぱい。ベリーを使ってあるようだ。

 服の袖で汗をぬぐったサハルトに濡らした手ぬぐいを渡す。

「濡らしてきたから使いなよ」

「助かる。思ったより汗かいちまったな」

「結構重かったねぇ」

 サハルトの向かいに腰掛けたパンからは部屋の中がよく見えた。物置にしか見えなかった室内は、邪魔な荷物がなくなって家の輪郭を取り戻しつつあった。だがまだサハルトの部屋と呼ぶには生活感が足りない。

「あ、そういえばさ、あれって楽器?」

 ベッドの横の壁に、布でしっかりと包んだ塊が立てかけてあった。細い首と丸みを帯びた胴があり、シルエットは弦楽器の基本形だ。ダルチャよりもふた回りほど大きく、胴の形も違う。

 新しい楽器との出会いは新しい歌との出会いだ。片付けの最中、パンはずっとそれが気になって仕方がなかった。

「ああいや、あれは……くだらないものなんだ」

「そうなの?」

「手入れもろくにしてなかったから、壊れちまったんだよ。見せられたもんじゃない」

 邪魔にならない場所に動かす時の慎重な手つきをみれば、大切にしているものだというのはすぐにわかる。

「捨てちまえばよかったんだが、すっかり頭から抜け落ちちまってたな」

 言い訳のようにサハルトは言葉を重ねた。

 そんなはずはない、と思った。サハルトは弾けないからといって楽器に興味を失う人ではないし、彼の腰掛けている位置から見えない位置にある楽器について聞かれてすぐに答えられたのも、常に頭の中にあったからだ。

 上手い嘘ではないけれど、見破ったところでどうにもならない類の嘘だ。

「そっか、残念だね」

 パンが言及してこないとわかると、サハルトはほっとしたようだった。

「パンは、大丈夫なのか。海辺の街は楽士に優しくないだろ」

「確かに潮風は気になるなぁ。船があんまり大きくないと、嵐の時に水被りそうでヒヤヒヤするしね。サハルトはどうしてるの?」

「ダルチャは元々船の上で使われる楽器だからな。作りが粗い分、丈夫なんだ。わたりうたいには帆布と皮で作った専用の袋がある」

 サハルトも同じものを使っていた。帆布を楽器の形に合わせて縫い合わせ、角革をあてて補強してある。

「帆布か。海沿いの街だと色んなものに使われてるよね」

「ああ、水に強いし丈夫だからな。皮もいいんだが、通気性が悪いし重たい」

「俺の楽器が入るサイズがあったらいいんだけど」

「楽器用だとこの形だけになっちまうけど、ただの鞄ならガトバルにもそれなりの種類があるし、帆布だけ買ってきて巻き付けてもいい。折角だから一緒に見に行くか?」

「いいね! 地元の人に案内してもらえると助かるよ」

「そうだな。ぼったくりってほどじゃなくても割高の店はあるからな。ついでに見に行きたいものはあるか?」

「うーん、ランプの油と保存食くらいかな。船っていつ頃動き出すんだろう」

 冬の嵐の訪れが早く、船に乗せるべきわたりうたいたちが帰ってきていないのが原因だと聞いていた。たとえ生活がかかっていても、信心深い男たちは命の危険を伴う旅に祈りを捧げずにはいられない。今まで通り過ぎてきた土地でもそうだった。パンだって、信じる神が違うからといって祈りを疎かにする船に命を預ける気にはなれない。

「心配しなくてもすぐに動き出すさ。同業が少なければ、賃金交渉に有利だからな。その手の噂は千里を駆ける」

 ただしばらくは船賃をふっかけられるだろうから、滞在費と差し引きでどちらがマシか財布と相談しなければならない。

「じゃ、一応ナイフと槍を研ぎに出すかもしれないから、仕事の早い研ぎ師を教えて欲しいな」

「わかった。見繕っとくよ」

 すでにいくつか検討はついているのか、サハルトは口の中でブツブツと唱えて買い物にかかりそうな時間を計算してくれた。少し余裕を持たせるために、待ち合わせは太陽が天頂を過ぎるより前にすることに決めた。

 明日の予定を決めると、二人は片付けを再開した。

 一日掛かりの作業の結果、少なくともベッドは使える状態になったので、サハルトはその日のうちに自宅に引き上げて行った。

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