俺は寝ぼけたまま冷蔵庫の中身を見て、朝食が何もないことに気付いた。


「買い物に行くか」


 寝坊したおかげで今はもう十時半。近くのスーパーも開店している時間だ。




 買い物が終わり、俺は家に帰る途中で映画館に寄った。

 俺は映画を見るのが趣味だ。

 映画からは漫画に使えるアイデアがもらえるし、辛いことがあっても映画の中にのめり込んでしまえばこっちのもの、現実を忘れることができる。

 俺は上映中の映画を確認した。気になる映画が二、三個あったので、そのパンフレットを買い物袋に入れてまた歩き始める。


 近所の公園に辿り着いたところで俺は足を止めた。


 公園の中には楽しそうに笑う琳菜の顔があった。

 俺は公園の入り口に生えた茂みの後ろに隠れ、琳菜の話し相手を見ようとしたが、木が邪魔でよく見えない。

 俺は思い切って背伸びをした。そこにいたのは同期でライバルの下田だった。

 俺の手は激しく震えていた。琳菜は売れない俺を捨て、ちょっとヒットしたからといってネックレスやら指輪やらをつけて調子に乗っている下田とくっついていたのだ。

 これで別れる原因をごまかす理由もわかった。


 俺は家へ全力で走った。できる限り早くこの場所から離れたかった。



 

 気付いたら俺は洗濯機の前に座り込み、電源ボタンを押していた。

 ピンポロリン


「おはよう!」


 キレイの声に俺は何も言えなかった。

 それでも何故かその元気な声を聞いて心が落ち着く。それと同時に目から涙が溢れ出した。


「どうしたの? もしかして泣いてる……?」


 俺は洗濯機に抱きついた。自分がバカみたいだったが今はただ温もりが欲しかった。

 だが、洗濯機は冷たかった。そう、これはただの機械であり血の通った人間ではないのだ。

 俺は洗濯機に抱きつくのをやめた。

 キレイが人間だったら良かったのに。そう思う自分がいた。


「何か話したいことがあったら遠慮せずに言って」


 キレイの体は俺を温めてくれなかったが、彼女の言葉は俺の心を芯から温めてくれた。

 俺は今朝あった出来事をキレイに伝え、彼女はそれを最初から最後まで真剣に聞いてくれた。

 いつの間にか俺の涙は止まっていた。


「キレイ、話を聞いてくれてありがとう。おかげで心が休まったよ。昨日から俺ばかり話しているから今度は君の話を聞かせてよ」

「うーん、そうね……じゃあ、私が今まで見てきた夢の話をしようかな。それ以外に話せることもないし」


 これは私がこの前に見た夢の話。


 私はある道を歩いていた。

 すると急に地面が崩れて私は地面の下へ真っ逆さまに落ちていったの。


 私が落ちたその場所は真っ暗で、上を見ると分厚い雲が空に立ちこめていたわ。

 辺りを見回すと、暗闇に不気味な植物や気持ちの悪い生物がうごめいていて、私はその世界が怖かった。

 その時は不安で息が出来なくなりそうになったわ。


 私はそこで深呼吸をして考えたの。


 ここで止まっていてもしょうがない。辺りを見ても真っ暗で、その闇はどこまでも、どこまでも続いているように見える。

 もしかしたら永遠に歩いても出口は見つからないかもしれない。

 でも、とにかく歩いてみよう。ここに留まっているよりはそっちの方が良いはず。


 わたしは疲れない程度のスピード、自分の歩幅で決めた方向へ歩き続けた。

 しばらく歩くと真っ黒な階段にぶつかったの。それは闇と同化していて、近づかなければ全く見えない物だったのよ。

 もし私があの場所から動かなければ、それを見つけることは出来なかったと思う。


 その階段を上っていくと目の前が突然明るくなった。私は雲の上まで登ってきたの。

 私は雲の上に足を踏み入れた。その世界はとても美しかった。

 明るい太陽が世界を輝かせ、一面に広がる真っ青な空。あちこちに華やかな草花が咲き、透き通った川が足元を流れていく。


 そこは雲の下に落ちる前に歩いていた道の何倍も綺麗な場所だった。

 私は看板を見つけたわ。そこにはこう書かれていたの。


 『どんなに分厚い雲が広がっていたとしても、その向こう側には必ず明るい太陽が輝いている』と。




「こんな夢よ」

「へえ、随分と不思議な夢だね」

「色々な夢を見るのよ。他にもSFみたいなのもあったし」


 それから俺は時間を忘れて、キレイと話し込んだ。

 キレイは様々な夢の話を、俺は今までの人生の話、漫画についてネタを探しているという相談などをした。

 気が付けば日が傾いていた。


「もうこんな時間か」俺は時計の針を見て自分が話していた長さに驚く。「いやあ、色々と話せて楽しかったけど、そろそろ夕飯を食べなきゃ。こう二食抜きだと流石にお腹も減るしね」

「わかったわ。また話しましょう。私もあなたと話すの楽しいわ」

「じゃあ、また」


 そう言って俺は電源を切る。


 ピロリロリン


 訪れる静けさ。

 この時に微かに胸の奥がぎゅっとなるのは何なのだろう。


 今、俺はキレイがどこからかやってきた、生きた人間だという話を信じていた。

 勿論、相変わらずおかしな話だとは思っている。

 それでも俺は彼女が人間であるように思う。


 俺は彼女が人間であって欲しいと思う。

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