第9話 ジュースっていっぱい買うと結構重い
帰りのホームルームが終わると、一旦席に座ってぼんやりと何をするまでもなく数分過ごして、その後は図書室で本を読んだりそのまま帰ったり、まあ一人で無為に時間を過ごすだけだった僕の高校生活は若干その様相を変えた。
だけれど、教室では何一つ変わることはなかった。
いろりさんが僕のことをチラチラ見てきたのはあの日だけで、それ以降は目が合えば軽く会釈したり挨拶をしたりするけれど、それ以上は何も起こらない。
決して僕たちの間に天文部というつながりがあることを隠している訳ではない――隠したところで同じ部活動に所属している以上いつかはばれてしまうから、秘密にしている訳ではなかった。
でも、それでも何となく距離があった。秘密にしている訳じゃないけれど、必要もないので周りには言わない、みたいな。僕はいろりさんの自殺を補助するだけであって、それ以外ではなるべく関わらない、みたいな暗黙の了解が出来上がっていた。
別にそれが不満だとかそういう訳じゃない。仲良くはしないでほしいと言ったのは僕からだし、いろりさんと関わりがなかったところでそれは今までと同じなだけなので、不都合があるわけじゃない。
「――部活、どうしようかなあ」
「あれ、バスケは続けないの?」
「うん、なんか、中学で燃え尽きちゃってさあ」
今は昼休みということもあり、そこかしこからクラスメイトの雑談が聞こえる。毒にも薬にもならない、会話の当事者以外には何の価値もない会話。それを耳から脳内へと通過させながら、僕はぼんやりと、同じようにクラスメイトと雑談に興じているいろりさんに意識を向けていた。
いや……意識を向けていた、という表現は正しくない。いろりさんにしか意識が向かなかった――いやこれも誤解を招く。
僕はクラスメイト達となんの接点もなく、だから彼女たちに興味は全く持っていない。だから、このクラスで僕が興味を向けることができる人物がいろりさんしかいなかったという訳だ。
「――いろりは部活どうしたの?」
いろりさんを中心として右隣に座った背の高い女子が、そう訊ねた。いろりさんが答え辛そうに「んー」と視線を泳がせると、今度は左隣のスカートの短い女子が「あー、あたしもそれ気になってたの!」と声を張り上げた。
彼女ら二人はいろりさんと仲がいい(多分中学が同じ?)らしく、休み時間は殆ど一緒にいる。というか、いろりさんは基本的に彼女たちとしか一緒に居ないのだった。
僕はいろりさんのことをクラスの中心グループの人間だと勝手に思い込んでいたのだけれど、それはどうやら間違いだったらしい。むしろ大人し目の――というか地味目の、あまり集団には属さず仲のいい友達とだけ一緒にいるタイプだった。
不思議だった。彼女は見た目も可愛いらしいし性格もいい。少なくとも平均点以上の魅力を持った女の子だと僕は思う。こんなことを考えていることをいろりさんに知られたら僕の方が先に自殺するだろうけど。
だから、どうしてたった三人だけで群れているのか、僕には分からなかった。
別に、その二人の女子意外と関わりが無い訳じゃあないらしかった。たまに話題を振られれば愛想よく応対する。でもそれだけ。自分から必要以上に関わることも無ければ、そうしたいという気配も感じない。「冷たく接する理由がないから、愛想よくしている」といった風。
「私は……あんまり活動の無い、文化部に入ろうと思ってるの」
「……ふーん」背の高い女の子が、不思議そうに眉をひそめた。「どうして?」
「どうしてって言われても……」
「あ、いや、ダメとかじゃないけど。特に深い意味もなく聞いたんだ」
焦ったようにフォローをした。
「いーちゃんは中学も帰宅部だったしねー。あんまりそういうの、好きじゃないよね」
背の低い女の子はスナック菓子の袋を、丁寧にハサミで開けながら言った。袋を切り開いて「食べていいよ」とテーブルの上に置くと、いろりさんたちがまばらにつまみ出す。
「いろりは小学校の時からそうだよ。集団に交ざるのがあんまり好きじゃない」
「……うん、そうだね」やや弱弱しく、いろりさんが笑った。「集団嫌いです」
「えー! でもいーちゃん、凄い愛想いいじゃん! いつもニコニコで、どんな人とでも上手に喋れて、そういうの羨ましいなあって思ってたんだけど!」
「得意かどうかは分からないけど、……あたしゃあんまりいろんな人がいるところが得意じゃないですよ」
「えー、どうして?」
「いろんな人がいるといろんな考えがあるから、ちょっと疲れちゃうのだよ」
「……ほー。なんか、大人っぽい」
「……どこがだよ」
「社会に疲れた大人」
「ああ、それはそうかもしれないね」
いろりさんは言葉を返さず、やはり僕には力ないように見える笑顔を作っていた。
*
僕は中身のほとんどは言っていない鞄をぶら下げながら、段々と痛みの激しくなっていく階段を上っていた。
目的地は勿論、天文部部室だった。
いろりさんはいない。来ない訳じゃなくて、日直の仕事で遅れて来るらしい。いつの間にか引き出しにメモが入っていて、「日直で遅れます!」と女の子特有の丸っこい文字で記されていた。その時僕は、初めていろりさんと連絡先を交換していないことに気が付いた。
「こんにちはー……」
流れ作業的な挨拶を口にしながらドアノブを捻ってドアを押す。鍵はかかっていない。本来ならばちゃんと施錠しなければいけないのだけれど、「誰でもいつでも入れる方が楽でしょ」とは十時さんの弁。顧問は「盗まれて困るものもないしいいんじゃないの?」と言っていた。いや困るもの、高価なもの、いっぱいあるだろう。
そのまま、僕の席として定着しつつあるソファ向かいのボロ椅子に腰を下ろす。
ふわあと大きな欠伸。何とも言えないくぐもった様な気持ちよさが、背中から頭へと抜けていく。「あー眠い……」。春先というのはどうしてこんなにも眠くなるのか。花粉の影響も少なからずあるだろう。
「おーっす。……お、丁度男手が」
椅子に座るとすぐさまドアが開かれた。よっこらとドアを引いて現れたのはちっこい先生だった。
「……諏訪部先生。こんにちは」
「おう」
諏訪部先生はイチゴミルクを一本取り出して、パックを握りつぶすようにして一気に飲み干すと、僕を一瞥して「来い」と言った。
「……え?」
「買い出し行くぞ」
「……なんのです?」
「歓迎会だよ」
「あっ、はい」
「今日やるから、急いでいくぞ」
「えっ今日?」
昨日歓迎会の話はしたけれど、随分と唐突だった。
歓迎会の当日に買い出しに行くなんて、スケジュールに無理があるのではないだろうか。
「ほら、早く」
「は、はい……」
狼狽えながらも反射的に首を縦に振ると、先生は満足そうに頷いて部室から出て行ってしまった。僕はブレザーを脱いで慌てて先生を追いかけた。
ぶっきらぼうというか、雑というか、致命的に言葉が足りないやり取りだった。だけれど何をするにも何を言うにも回りくどくなってしまう僕からすると、諏訪部先生のその雑さは嫌いじゃなかった。
「買い出しってどこへ?」
階段を下りていた先生にはあっという間に追い付いた。数段先を下っているせいで、先生は幼児くらいの小ささだった。
「どこがいい?」
わずかに僕の方を振り返って、先生はそう聞き返した。
「……僕、電車で通ってるのでこの辺の地理詳しくないです」
「ふむ。コンビニは高いからスーパーだな。ちょっと歩くけどいいか?」
「まあ、はい」
僕が曖昧に頷くと、先生はそれ以上何も言わず、気が付けば昇降口だった。先生は職員用玄関に向かって、僕はローファーに履き替える。そのまま直ぐに合流して、言葉もなく再び歩き出した。
会話は無かったけれど、居心地の悪さは不思議と感じなかった。先生は不機嫌ではないのだろうけれどむすっとした表情で黙々と歩いているので、「何か会話で間を繋がなければ」という義務感のようなものに駆られることは無かったのだ。
「あー、目が痒いな」
「花粉症ですか?」
「ああ」
とか、
「先生はこの辺に住んでるんですか?」
「ああ。どうしてそう思った?」
「歩きだから」
「なるほど」
とかの、独り言以上会話未満のやりとりを時折思い出したようにぽつぽつとするだけで、その距離感がまた心地よかった。
一〇分ほど歩いてスーパーにたどり着いた。チェーン店の、どこにでもあるスーパー。小さな諏訪部先生の歩幅に合わせて歩いたので、きっと僕一人だけだったらもっと早く辿りついているはずだった。
「どういうものが食べたい?」
「……甘いもの?」
「ふわっとしてるなあ」
諏訪部先生はカゴを持って、迷いなくお菓子コーナーに向かう。そして有名どころの大袋のお菓子を片っ端から買い物かごに放り込んでいく。「これと……ああ、これ好きなんだよな」。あれもこれもとお菓子を手に取って、あっという間にカゴはいっぱいになってしまった。
「それ……全部買うんですか?」
「歓迎会だから、ちょっとくらいは奮発しなきゃだろ」
奮発というか……無駄遣いだろう?
それ全部、四人だけじゃ絶対食べきれないと思うのだけれど。
「後はジュースだな」
諏訪部先生はお菓子の詰まったカゴを置いて、誘われるように飲み物コーナーへと向かって行った。その足取りはやや軽快に見える。もしかしたらだけれど、諏訪部先生は少し浮かれているのかもしれなかった。
僕はお菓子の詰まったカゴと、それともう一つ新しいカゴを持って諏訪部先生の下へと向かった。
「……まあ、オレンジジュースがあれば後は適当でいいだろ」
諏訪部先生はジュースにはさほど興味がないらしく、二種類のオレンジジュースをカゴに入れると、「あと二本くらい選んどいて」と言ってまたふらふらとどこかに行ってしまった。本当に子供みたいな人だ、と僕は呆れた。
僕は少し悩んでから、無難処のコーラとお茶をカゴに入れた。
両手にそれぞれのカゴを持って――そして絶望した。重い、というか痛い。取っ手がみりみりと手に食い込んで、肉は千切れそうだし骨は砕けそう。
僕が買い出しに付き合わされたのは荷物持ちだよな?
……これを持って帰るのか? 持って帰れるのか?
最悪の事態――つまり学校に帰れずに行き倒れることを想定していた僕の気持ちなんていざ知らず、帰ってきた諏訪部先生はイチゴミルクのパックの詰め合わせを何個か抱えていた。僕は乾いた笑いしか出なかった。
お菓子のカゴは先生に持ってもらって(なかなかどうして不機嫌そうだった)ジュースのカゴを抱えてレジに持っていくと、全部で四千円ちょっとくらい。一番大きいレジ袋の三つをパンパンにするほどの量のお菓子が四千円。これが高いと考えるか安いと感じるのかは人次第だ。
そう言えばお金はどうするのだろうと思っていると、諏訪部先生はフクロウの姿を模した小銭入れを取り出して、そこから四つ折りにされた一万円札を取り出した。まさか先生のポケットマネーか? と思って見ていると「部費だよ、部費。こういう時は部費を使ってもばちは当たるまい」とにやっと笑った。
部費ってのは往々にして部員数とか活動実績によって割り当てられるもので、部員数四人実績なしの天文部の部費なんて微々たるもののはずだった。そこから四千円なんて割合で言えばどれくらいだろうか。
だけれど……折角僕たちの為に歓迎会を開いてくれるのだろうから、そういうことを考えてしまうのは野暮だろうか。
まあ、なんか、先生が一番はしゃいでいて、先生の食べたいお菓子を部費で買いこまれたような感じがしないでもないけれど。
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