第6話 変な人

 休日を挟んで月曜日。今週は、学校にはまた違った声が飛び交っていた。

 仮入部に勧誘する声だ。「どこ部どうですかー」「これこれやってみない」みたいな無差別な勧誘を朝の校門から見かけて、昼休みもそんな集団が校内をうろついて、それは放課後でも続いているらしかった。


 中学の仮入部期間というのは二週間だったけれど、高校は三週間あるらしかった。この星陵高校だけなのか全国的にそういう風習なのかは分からないけれど。


 最初の全校集会の部活動紹介から仮入部期間は始まって、今週で最後になる。別にそういう決まりががあるわけではないけれど、何となくきりがいいからか、ほとんどの一年生は一週間を区切りとして部活を移動するらしい。

 勿論、ずっと同じ部活にいる人も少なからずいるらしい。特に野球部なんかはその傾向が強い。


 だから、この最後の一週間の最初の日は新入部員を引き入れたい部活側からすれば最後のチャンスという訳だ。勧誘の声が選挙カーなみに激化しているのはこういう訳だ。


「いろりさんは部活とかいいの? 何か興味があるならそっちを優先しても全然いいんだけど……」


 僕は、フェンスの傍で勧誘に勤しむ先輩方を見下ろしているいろりさんにそう訊ねた。もしかして行きたい部活でもあるんじゃないのかと気を使ったのだ。


 だけれどそれは杞憂らしかった。いろりさんは振り返ると、「ううん」と首を振った。


「私は部活とかはあんまり……。二幹くんは? いいの?」


「うん。僕は……入れる部活なんてほぼないし」


「あ……そっか。男の子だもんね」


 規定としては、男子生徒である僕でもどの部活に入ることはできる。でも運動部に入っても団体競技では大会はおろかまともに練習すらできないだろうし(入ることは万に一にもないけれど)、文化部だって歓迎はされないだろう。

 結局、扱いはクラスの延長線上だ。むしろ母数が減る分、僕への風当たりを強く感じることになるだろう。その原因は僕にあるのだろう。


 中学の時は、僕は家政部だった。だけれどそれも最低部員を割ってしまったという家政部に名前だけ貸して、実質は帰宅部だった。

 僕は別にやりたい部活も無ければ興味のある活動もない。勧誘する人は「興味なくてもオッケー」とか言うけれど、でも実際はそうもいかないだろう。


 興味ない活動は続かないし、続いたとしても精力的に打ち込むことはできない。その意識は行動に表れてしまって、真剣に活動をしている人からしたら目に付いてしまうものだ。


「他の男子生徒はどうしてるんだろう?」


「私たちのクラスの雑賀くんと二宮君は、それぞれサッカーとバスケのクラブに入ってるって言ってたよ。あ、クラブっていうのは、部活じゃなくて校外活動の」


 ……ああ、そういうのがあるのか。


「部活動は一応、絶対どこかには入部しないことになってるから、私はどこかに名前だけを貸すことになるかな……」


「……え、そうなの? 部活動って強制なの?」


「うんそうだよ。……知らなかった?」


 知らなかった。僕はがくがくと首を縦に振った。

 多分部活動紹介の時に説明があったのだろうけれど、入学して数日は僕は魂が抜けてしまっていたから、多分聞き逃してしまったのだろう。


「でも……大丈夫だよ、なんとかなる。幽霊部員でも部員を欲しがってる部活なんていっぱいあるだろうから。今度聞いて来てあげましょう」


「……ごめん」


「いいよいいよ。私のついで」


 なんとも情けなかったけれど、いろりさんの好意に甘えることにしよう。無償で自殺の手伝いをするのだから、これくらいしてもらって当たり前だ。そう自分に言い聞かせることにする。


「――っと、ごめんね。この屋上の掃除をしようって話だったのに、私がぼんやりしちゃってて」


 申し訳なさそうにいろりさんは言った。そしてフェンスから僕の方、つまり屋上の出入口のところへと転ばないよう慎重に足を動かして、壁に立てかけてある二本あるブラシのうち一つを手に取った。


「や、大丈夫だよ」そう言って、僕ももう一本を手に取った。「まあのんびりやろう」


 僕がいろりさんの自殺を手助けすることになったのはつい昨日のこと。その手始めとしてまずはこの屋上を清掃することになった。

 二人の秘密の集会場がこうも汚いのはよくない。そう言い出したのは勿論いろりさんだった。


 秘密の集会場。

 その言葉に、小学生のことの秘密基地の様な、少しあほらしいと思いつつも胸が弾むような感情を抱いたのはここだけの話。

 そしてやや遠まわしに僕の存在を隠すことを宣言された事に何とも言えない感情を抱いたのは、もっと内緒だ。


 そりゃあそうだろう。むしろ僕と最近会っていることを周りに吹聴したらそちらの方が驚くことは確実だ。それにそうなると僕にも注目が集まってしまい、もし「どうして仲良くなったの?」とか聞かれたら返答に窮すことは目に見えている。

 そもそも、人の多い所で「じゃあどうやって死のうか」なんて話はとてもじゃないけれどできないだろう。


 そういった僕への気遣い含む諸々の理由で密会という選択にしたのだろうけれど――それは分かっているのだけれど――感情というのは合理的じゃないらしい。一から十までの過程を全部分かっているのに、その答えにどうにも納得がいかない。


 それを口に出したり態度に出すのは、幼稚な子供のすることだけれど。


「どれくらいかかるのかな?」


 いろりさんはモップで苔の大きく盛り上がっている一角をつついた。これ全部を剥がすのは相当な重労働になるだろうことは火を見るよりも明らかだった。


「うーん……」


「私は片付けは嫌いだけど掃除は好きだから全然いいんだけど、二幹くんはぼちぼちでいいからね」


「うん。……ぼちぼちやるよ」


 ちなみにこのモップは校舎内から屋上へ続く扉の横に設置された掃除用具入れに入っていたものだった。やや古いように見えるけれど、使ったような形跡は全くなく新品のよう。買うだけ買って使わなかったのだろう、という感じ。


「――ういしょ!」


 いろりさんはモップを握る手に力を込めて、苔の上を大きく一撫で。苔が僅かにめくれあがり、その裏面の根っ子が露わになる。


「あー……ちょっと気持ちいいかも」


 うっとりするような声を漏らしながら、もう一回。ブラシの荒い毛先がめくれ上がった苔の裏面に食い込み、そしてそのまま地面からぶちぶちと剥いだ。


「こういうの気持ちよくない?」


 そういういろりさんの表情は、日向ぼっこをしている猫のように全体的に緩んでいた。

 分かる。いろりさんの「片付けは嫌いだけど掃除は好き」というのも同じ気持だ。ごちゃごちゃしたのは嫌いだけど、汚れたものを一気にきれいにするのは、気持ちいい。


「高圧洗浄機とかいいなって思う」


「あー、分かるなあ!」


 黒い壁面に、まるでレーザーの様な激しく鋭い水が高圧洗浄機から放たれる。その水の通り道は、浄化される。抉られたかのように、蒸発したのかのように、汚れが瞬く間に消滅してしまう。


 ……その光景が脳裏に浮かんだのか、いろりさんは上機嫌にぴょんぴょんと跳ねた。二回も苔に足を滑らせたのにその上で飛び跳ねるいろりさんは、大胆不敵なのかそれとも……。僕はその様子をハラハラしながら見ていた。


「……いちゃいちゃしているところ申し訳ないけど、ちょっといいかな?」


 そんな気の抜けた声が聞こえたのは、その時だった。

 音源は――上。つまり貯水タンクの上からだった。


「わたしの庭を綺麗にしてくれるのは嬉しいんだけど、でも辞めてもらってもいいかな、本当に申し訳ないけれど。綺麗にされちゃうといろいろと不都合が出るのよ」


 ホイップクリームの様な、ふわふわと空気を含んだ明るい髪。野暮ったい前髪から覗いている目は無気力で、僕たち二人をぼんやりと瞳に映しているだけで見ているとは表現しがたい。


「庭……?」


「そうよ、わたしの庭。わたしだけの庭、ではないけどねえ」


 そしてその女生徒は体勢を起こした。ふわあっと大きな欠伸、目元をぐしぐしと拭った。

 胸元のリボンが青色だった。青色は二年生の学年色。どうやらこの人は僕たちの先輩らしい。


「ここで逢引きしてる人も居なかったわけじゃないけどね。でも、掃除をしようとしたのは君たちが初めてだよ」


「……逢引き?」


 いろりさんが、先輩の言葉を反復した。逢引き、逢引き……。もう何度か呟いてから数秒、ぼん、と音が鳴った訳ではないけれど、いろりさんの顔が一瞬で真っ赤に染まった。


「ち、違います、違いますよ! そんなんじゃないです!」


「……そうなの?」


 こてんと首を傾けて、僕の顔を見た。僕は慌てて逸らしつつ、「あ、当たり前じゃないですか……」と何とか言葉を紡ぎだした。


「ふうん……そうかあ。まあどっちでもいいんだけど」両手を空に向かって伸ばして大きく伸び、んんーと気持ちよさそうな声と共に目元に涙が浮かぶ。「お嬢さん、そんなに必死に否定されると男の子は傷付くものよ?」


「……えっ、あっ、ごめん! そういうつもりじゃ……」


「分かってる、し、気にしてないよ……」


 ぺこぺこと僕に頭を下げるいろりさん。先輩はその光景を見てくすくすと笑っていた。


「お二人さん、昨日もいたよね。先週も」


「……ずっとそこにいたんですか?」


 僕が訊ねると、先輩は「安心していいよー」とへらっと笑った。


「ここに来る人たちの会話は聞かないようにしてるから。わたしは耳栓をつけてお昼寝をしてただけ」


「それならいいんですが…………」


「なんでそんなほっとしてるの? ……やっぱり逢引きなんだあ」


「ちっ、違いますっ!」


「冗談冗談。トッポ食べる?」


 先輩は傍らの通学鞄を掴んで、よいしょよいしょと貯水タンクの上からやおらに下りた。足を取られないように慎重に着地して僕たちの向かいに立った。背の低い、中学生にも見える容姿をしていた。


 先輩はブレザーのポケットから顔をのぞかせていたお菓子の袋を僕たちに差し出した。僕はそれを断ったけれど、いろりさんは「ありがとうございます……」とそこから一本取って口に咥えた。


「それで」僕はずっと訪ねたかった質問を口にした。「掃除をされると困るというのは、どうしてですか?」


「人が来ちゃうでしょ」何でそんな当たり前のことを聞くんだ、といった口ぶりだった。「屋上なんて青春スポット、こんなに汚いからわたしのお昼寝スポットになってるのに、綺麗になったら人でごった返しちゃうわ」


「……ここを独占したいってことですか?」


 いろりさんの言葉に、先輩は肩をすくめた。


「や、まあ、そう言われちゃうとそうなんだけどねえ。ただ君たちも人目を忍びたいからここに集まってる訳でしょ? 人が増えたら困るのは君たちも同じだと思うけどなー?」


 先輩はにやにやといやらしい笑みを浮かべた。

 ごもっともだ。その通り。イグザクトリー。僕もいろりさんもそれ以上言い返せず、その場に軽く俯いた。


「でも、そういう私欲的なやつじゃなくてもね、ちゃんとした理由はあるの。ここに人が増えると部活動に支障が出ちゃうから」


「部活動……ですか?」


「うん。一応言っとくけどお昼寝部、とかじゃないよ。天文部。空を眺めるのがわたしの活動」


 そう言ってどこか掴みどころのない先輩は、顎を九十度になるように空を見上げて、口をぽっかりと開けて、「今日も空は平常です」と呟いた。


 これが青空を眺める天文部、十時璃呼子さんとの出会いだった。

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