第16話 練習始動

「さあ、みんな仲良く練習再開だ」

 改めて整列した選手たちにたかしがありったけの笑顔で言う。

 宮間と麗子の喧嘩は、二人が喧嘩に疲れた絶妙なタイミングで、柴とたかしと信子さんが間に入り、沈静した。多分、周囲も二人の喧嘩に慣れ、この納め方が一番いいとパターン化しているのだろう。だから、喧嘩が始まってもすぐには止めに入らなかったに違いない。そう、繭は思った。

「また、派手にやったわねぇ」

 信子さんが呟くように言う。

 宮間と麗子、それから二人のケンカを止めに入った野田と中田と志穂、その他のメンバーも、みな一様に練習前にすでにボロボロになっていた。

「さあ、気分一新。練習練習」

 そこにたかしのありったけの作り笑顔と妙に明るい声は虚しく響くだけだった。

「おっ、全員そろっちょるな」

 そこに熊田が、股間をボリボリ掻きながら、またひょこひょことトイレから帰ってきた。

「わしの指導が待ち遠しくて堪らんちゅう顔じゃな」

「誰がだ」

 野田が叫んだ。誰がどう見てもそんな雰囲気ではない。熊田一人だけが呑気だ。

「しかもチャック開いてるし」

 仲田が突っ込む。熊田のズボンのチャックは全開だった。

「おっ、こりゃいかん」

 熊田は、そう言って、悪びれる様子もなくチャックを閉めた。

「そ、そうだ。今日は熊田コーチが練習を見てくれるぞ。いつもと違って新鮮だぞ」

 そう言って、そんな空気を変えようとしたたかしだったが、泥水をかき回すがごとく、その場はさらに険悪な空気になるばかりだった。たかしも輪をかけて少し呑気だった。


 しかし、そんなこんなでも練習は始まった。選手全員が、繭とかおりの新人二人も含めグラウンドの中央に集まり、その前に熊田が立った。たかしと信子さんは、練習を全て任せろと言う熊田に全て任せ、グラウンドの端で見守ることにした。

「あ、なんですか」

 そんなたかしが傍らからおもむろに一冊の本を取り出した。それを、興味深げに信子さんが覗き込む。

「じゃ~ん、ついに買っちゃった。サッカー指導者必読の書。オチムの言葉」

 たかしは得意げに信子さんに買ってきた本の表紙を見せた。世界の名将オチム監督の明言を集めた最近発売された本だ。

「へぇ~、面白そうですね」

「うん、前から欲しかったんだ。この前駅前の本屋で見つけてね。やっと買えたよ。大人気でどこも売り切れだったんだ」

「どんなことが書いてあるんですか」

 信子さんがそう訊くと、たかしはページをめくり始めた。

「まず、オチムの言葉その一。名監督は褒め上手でなければならない」

「へぇ~、なるほど」

「うん、やっぱり良いこと言うよね。さすがオチム」

 たかしたちが、グランドの片隅でオチムの言葉に感心している丁度その時、グラウンドの中央では熊田の大声が響いていた。

「お前らは全員クソだ」

 熊田は選手全員を指差し、いきなり開口一番怒鳴った。

「なんだと、この野郎」

 それに野田が反応する。

「お前が一番クソだろう」

 仲田も負けていない。他の選手たちからも次々怒号が返される。

「・・・先輩、いきなりなんかものすごく賑やかになってるけど・・」 

「・・・大丈夫でしょうか・・」

 たかしと信子さんは、本から顔を上げ、急に騒がしくなったグラウンド中央を心配そうに見つめた。

「他には何が書いてあるんですか」

 気を取り直し、信子さんが再び本を覗き込むと、二人はオチムの言葉の続きを再び読み始めた。

「ええとねぇ。オチムの言葉その二、練習は努力根性論ではなく、科学的でなければならない」

「へぇ~、なるほど」

 その時、グランドでは再び熊田の怒号が響き渡った。

「まず、お前らの根性から叩き直しててやる。うさぎ跳び千回だ」

「何言ってんだこの野郎」

 野田がキレる。

「バカかてめぇ。うさぎ跳びなんか昭和に滅んでんだよ。しかも、千回ってお前、頭大丈夫か」

 仲田も叫ぶ。

「せ、千回」

 志穂が、茫然と呟く。

 選手から一斉にブーイングが起こっているその一方、たかしたちはオチムの言葉に夢中になっていた。

「あとはこれなんか面白いな。野生のウサギは準備体操などしない」

「へぇ~、どういう意味ですか」

「これは、常にサッカーのことを考えて準備しておけってことらしい」

「へぇ~、深いですね」

 その時、またグラウンドで熊田の怒声が響き渡った。

「四の五の言わんと、さっさとやらんか」

「まだ準備体操もしてねぇだろ。基本も知らんのか」

 野田がぶち切れる。

「野生のウサギは準備体操などせん」

 熊田はきっぱりと断言するように言った。

「どんな理屈だ」

 野田が叫ぶ。

「野生動物と一緒にすんな。コラッ」

 仲田も続く。

「あっ、先輩も同じこと言っている。さすが先輩」

 熊田の叫び声が漏れ聞こえてきて、たかしは本から顔を上げた。

「やっぱり先輩に任せてよかった」

 たかしは改めて熊田を尊敬の眼差しで見つめた。

「う~ん、でも、なんか違うような・・」

 しかし、隣りの信子さんは、少し困惑しながら首を傾げていた。

 熊田にかみつく選手たちの喧騒の後ろで繭も一人首を傾げていた。

「うさぎ跳びって何?」

 繭は隣りのかおりを見上げて訊いた。

「さ、さあ」

 かおりも分からず、首を傾げる。若い二人はうさぎ跳びを知らなかった。

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