== 蛇足のエピローグ ==

1) 時をかける三角


 返事がない。


 入国手続きやホテルのチェックインで慌ただしいだろうし、時差があるから仕方ないのはわかっているけれど。


 だって、最近ちっとも会えていない。

 お互いが忙しいうえに、彼女は海外でのメイク仕事も増えて、まともに家でゆっくりする暇もない。


 芸能界でモデル・俳優として活動する私と並んでビッグカップルだと世間に認めさせるために、メイクアップアーティストして名を上げるんだって言うけれど――だいたいあの人は慎重すぎる。

 それが私を守るためだとはわかってる。それに、その目標を早く実現させようと、一生懸命働いていることも知っているから、もっと家で一緒にいてよ、とわがままも言えない。


「……」


 ふうと息をついてスマートフォンを机の上へ置いた私を、マネージャーの有働さんがちらりと見る。今は控え室で次の撮影までの休憩中。有働さんはノートパソコンのキーをまた叩き出した。


「ときどき……」


 声を出した私へ再び視線を戻した彼女に向かって、ゆっくりと口を開く。


「あの人に、有働さんとのことは知ってるんだからって、衝動的に言いたくなることがあります」


 机を挟んだパイプ椅子に座る、大人の色香の匂いたつ綺麗な人。

 私の恋人は、かつてこの人と付き合っていた。


 有働さんがマネージャーになってくれた当初は、あの人と二人で暮らし始めたばかりで有頂天で、そんなこともあまり気にしていなかったけれど、この頃は……特に、私も彼女も忙しくて、家で一緒に過ごす時間も少なく、有働さんと彼女の昔あった関係性についてふと思いを巡らせることも多くなった。

 そのことを考えるだけで、私の胸はちりちりと燻る――ぐらいならまだいいほうで、めらめらと嫉妬の炎が燃え上がって、私の中は真っ黒に焦げて、窒息しそうになる。



 突然妙なことを言い出した担当タレントにも動じず、目を細めて有働さんは訊く。


「言いたくなる――どんなときに?」

「……喧嘩したときとか、構ってくれないときとか」

「ふうん」

「……あとは……めちゃくちゃに傷付けたいって思ったとき」

「あら怖い」


 ふっと口元に笑みを浮かべる有働さんを見ながら、それでも仄暗い考えを吐露するのをやめられない。

 あの人のことを何よりもだいじに想う一方で、彼女がちっとも私のことを気にかけてくれないのなら、いっそ傷を付けて、その痛みでひりひりと私を思い出してほしい――なんて、どうかしてる……のはわかってるのに。


「知ってるって言ったら……あの人きっと傷付きますよね」

「そうでしょうね、あの子は」

「……」

「でもいいんじゃない、やってみたら」


 有働さんは面白そうに軽々しく言う。その余裕に満ちた様子にまた嫉妬心が疼く。

 ――私は、いつまで経っても余裕がない。あの人がどこかへ行ってしまわないか、あの人に愛想を尽かされないか、いつまでも不安だ。でも目の前のこの人はきっと、あの人と付き合っている当時から、そういう関係性ではなかったんだろうな、と感じる。


「そんな怖い顔しないでよ」


 眼鏡の向こうの眉を少し曇らせて言うその姿も、低めの声も魅力的で。

 私はいつまで経ってもあの人にとっては子どもっぽく見えてるんだろうと思うと、この大人の色気たっぷりの人が羨ましくなる。


「……どうしたらあの人とずっと一緒にいられますか」


 すがるように訊いた私を見つめ、


「……ずっと一緒にいられなかった人間にそれを聞く?」


呆れた色を灯して聞き返した有働さんに頭を下げる。


「すみません」

「貴女の場合は、正直に不安な気持ちを伝えてみたら。私はそれができなくて失敗したから」

「……おも、くはないでしょうか……」

「重いでしょうね。重そうだもの、貴女」

「……」


 いまや数年に及ぶマネージャー活動で私のことをよく知る彼女からありがたく頂戴したお墨付きに言葉を失くしていたら、スマートフォンが短い間隔で、二度震えた。

 不自然な俊敏さにはならないよう、ことさらゆっくりと動きながら画面を確認すると、あの人からのメッセージで、ぴょこんと心臓が跳ねる。


『つーたー』


 着いた、の意だと思う。

 すぐに続いて写真が届く。現地空港の巨大で変てこな木彫りの前で、彼女も同じポーズをしている。その呑気さにくすりと笑ってしまう。


 ――なんて返信しようか。ああ、今すぐ電話をかけて声を聞きたい。

 今あっちは何時だろう? 現地の時間を調べて、かの地はすでに深夜であることを知る。きっと寝る前に送ってくれたんだ。長時間のフライトでたぶん疲れているだろうし、彼女の睡眠は邪魔したくない。


 再び写真を開く。……可愛いなあ。顔を拡大して眺めていると、自分の頬が緩むのを感じる。


 ふと、控え室の窓の外を流れる雲の切れ端が目に入る。抜けるように青い空は嫌味なく心に染み込んだ。

 さっきまでの、彼女を傷付けたいなんて暗い気持ちは吹き飛んで、この空が彼女のいる場所の夜空と繋がっていることがただ嬉しい。

 もう一度スマートフォンの画面へ目を落とす。こんなひと言と写真一枚で、安直にこんなにも幸せになってしまう自分に苦笑いする。


 だけど、ふと気付く。

 この写真を撮ったのはきっとあの子なんだろうな。

 遠い外国の地で、彼女と一緒にいるであろう、女の子――未唯さんの顔を思い浮かべて、暗い気持ちが挿す。

 すると、声が飛んでくる。


「百面相ね。誰からの連絡かしら」


 有働さんは、意地が悪い。

 ばつの悪い感情に頬が熱くなるのを感じながら、背を向けて、苦し紛れの嘘をついた。


「……ただの、メールマガジンです」



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