今昔彼女語り③ もとかの編_Ⅰ
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スマートフォンの液晶へ久方ぶりに表示された名前を見て、つかの間息が止まった。
こんな宵も更けた時間。酔っ払った末に、誤ってこちらへ電話をかけてしまったのかもしれない。そう考え、息を詰めて震える携帯電話を見つめるうちに電話は切れた。と思いきや、すぐさま再度電話がかかってくる。それが二度、三度――止まらない。
その、いわゆる鬼電ぶりに、当初感じていた情緒はあっという間に吹き飛び、ため息をつきながら通話ボタンを押した。すると、こちらが何か発するよりも早く、慌てた様子の懐かしい声が飛び込んできた。
「瀬戸ですっ。今、どこにいますか? これから会えませんか!?」
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「昔の女に今の女をあてがうなんて、いい趣味してるじゃない」
急遽会いたい、ということで落ち合ったのは、少し前に偶然居合わせた、昔馴染みのバーだった。グラスを傾けながら待っていたところに息急き切って入ってきた彼女――瀬戸 穂高は、挨拶もそこそこに、あることを願い出た。
曰く、「未唯の引退後に、玲のマネージャーをやってくれないか」とのこと。
唐突にそんなことを請われ、しばし黙ったのちの答えが冒頭の私の言葉。
言われた彼女は、ぎゅっと口を引き結び、それから、「自分でもどうかと思うよ……」と弱々しくつぶやいた。
しかし、ぱっと顔を上げ、必死な目で、
「でも……でも、アキちゃんに頼みたいの。安心して玲を任せられるのは、あなたしかいないんです」
――数年ぶりにその呼び方をする。無自覚なのはわかっているから、余計質が悪い。
私は感情を隠すのがうまい。見えないからといって、人より鈍感かというと、そうとは限らない。
黙って煙草をひと吹きしていると、静かに彼女は口を開いた。
「私、彼女にプロポーズしようと思ってる」
さすがに驚いて隣へ視線を向ければ、落ち着いて彼女は続ける。
「ずっとあの子と一緒に生きていきたいから。いつか絶対世間に私たちのこと認めさせてやるんです。だから、玲のマネージャーは辞めて、ヘアメイクの仕事に戻る。それで、私はメイクの世界でうんと立派になって、彼女に相応しい人間になる。そんな日が来るまでどれだけかかるかわからないけど、いつか、絶対」
「……」
何も言わずにグラスを指先で弄っていた私に向かって、なおも彼女は毅然と言う。
「だから、お願いします。私の代わりに、玲のマネージャーを担当してください」
頭を下げ、口をつぐんだ彼女を横目で見てから、グラスの中身を空にする。
新しい酒を注文して、煙草を数口吸ったあとでも、まだ彼女は頭を下げたままだった。
「――いい加減頭上げなさいよ。こっちの酒が不味くなる」
「……」
面を上げた彼女は、固唾を吞んでこちらの言葉を待っている。
「……未唯が引退したあとは、ゆっくり休暇でも取ろうと思ってた」
「玲のマネージャーをお願いする時期は、いくらでも調整します」
「三年間世界放浪の旅にでも出かけるって私が言ったら?」
彼女はぐっと息を詰まらせ、それから目を泳がせて小さく、
「それは……ちょっと、困る……。困ります……」
弱り切って正直に言うものだから、煙草を吸うふりをしてこちらの緩んだ口元を隠した。
「出かけないわよ。阿呆」
明らかにほっとして、
「それはよかったです――」
「出かけるとしても、半年くらいかしら」
間髪入れず畳み掛けた私に一瞬情けない顔を向けるも、絞り出すようにして彼女は答える。
「……有働さんも忙しかったでしょうから、ゆっくりされる時間は……必要ですよね……」
こんな局面でお人好しを発揮して、本当にこいつはいつまで経っても阿呆だ。玲という小娘も苦労させられているに違いない。
彼女の反応で遊ぶのはこれぐらいにして、そもそもの問題点について切り出す。
「瑣末なことは差し置くにしたって、あんた、私の所属してる事務所と、玲の所属事務所が違うってことぐらい理解してるでしょ? 事務所間をまたいでマネージメントするなんてこと、うちの社長が許すかしら」
「有働さんの承諾さえ得られれば、そこは私が全力でどうにか説得するので問題ないです」
あの筋肉馬鹿のことだから、調子よくこいつに丸め込まれるに違いない。
「『玲』かー……。めちゃくちゃ忙しいんじゃないの」
「それは正直に言って、はい。有働さんがマネージャーにつけば、これからさらにどんどん売れていくでしょう」
「私最近体力がもたないのよね」
「これからちゃんと営業戦略の担当つけるってうちの社長も言ってたし、私ができる最大限の努力で、今後有働さんにとって負担が少なくなるような環境を整えるので。マネージャーついてもらったあとも、必要とあればもちろんサポートいたします」
両手で握りこぶしを作り、懇々と説く人間を見て、ため息が漏れる。そのため息は、自分自身に向けられている。私だってお人好しの阿呆と言えるだろう。
雑誌やテレビ、撮影場所で幾度となく目にした、はっとするほど美しく、若さに見合わぬ威風をまとった娘を思い浮かべる。
「……あの子いくつ」
「23です」
「はー……ひとまわり違う……」
「え、晶さんもうそんな年」
純粋に驚いて目を丸くするので、声も低く言い返す。
「……私だけが年取るわけじゃないのよ、このロリコン」
「や、やめてくださいよ。これでも年の差気にしてるんだから」
琥珀色の液体をぐっと呷り、タッ、とカウンターに勢いよく置く。隣のコースターの上には、ほとんど手をつけられないまま氷の溶けたただのソーダ水がある。
面白くない。
「ああ、面倒くさいなあ。面倒くさい。今夜は奢りなさいよね」
私の投げやりな言葉に、きょとんとして、それから彼女はおずおずと訊いてくる。
「それは……玲のマネージャーの話、お受けいただけるということでしょうか……?」
「……」
頬杖をついてただ睨み返すと、彼女は慌てたように、
「もちろん奢りです! 飲めや歌えや、踊れや騒げっ!」
「騒がしいのはあんただけで十分」
立ち上がって両手脚を阿波踊りさながら揺らしていた彼女は、脱力してスツールに座り、そして泣き笑いめいた表情を浮かべた。
「……本当にありがとう。よろしくお願いいたします」
深々と下げている頭を、腹立ち紛れにわしゃわしゃと撫でくりまわした。
「――今夜はもう仕事の話はおしまい。これ以上何か言い出したら承知しないから」
そうっと頭を上げた彼女は、何とも言えないこそばゆい顔をしている。
懐かしさが一気に胸を覆いつくす。
――けれど、もうこの人は私のそばにはいない。違う場所を選んだのだ。
私とて今は違う陽だまりを見つけたが、かつての日向を懐かしく、愛おしく思うのは、仕方のないことだろう。
どうせ奢りならば高いものを頼んでやる、と新たに酒を頼み、しばらく黙って良い酒を味わっていると、隣の女はそわそわと何か言いたげだ。
「何、鬱陶しい」
「いや、あの……前から気になってたことっていうか」
「何なのよ」
「……有働さん、Gスタジオのあの美術の子と仲良くないですか?」
「……」
「否定されないということは」
にわかに色めき立つその声に、深々としたため息が漏れた。
「……あんたごときに見破られるなんて、勘のいい人間にはもろバレってことじゃない」
「いやいや、私が鈍いみたいな言い方しないでくださいよ。有働さんは別に平常運転ですけど、あの子が懐いてる感じがそこはかとなくしてて、有働さんも別にはね退けてる様子もないなってちょっと思ったことがあって」
高い酒も、味気なく感じる。
「カマ、かけてみました」
揚々と笑う顔が、屈託無く、端的に評して可愛らしいのでますます癪に障る。
「……鈍い人間にもバレるほど脇が甘いって、あの子にはよく言い聞かせておきます」
「だから鈍くないですって。……ほら、"私たち、昔そういう視線を交わし合った仲"だから」
私が前回ここで言った台詞を得意げに引用してきた。こちらの低い温度の視線にもめげず、にこにこと彼女は質問を重ねる。
「あの方、今いくつなんですか?」
「確か……27」
「ちなみにお付き合いはいつから……」
「なんでそんなことまであんたに言わなきゃいけないのよ」
「私のことロリコンとか言いますけれど、有働さんはどないやねんと思って」
「……」
「あ、黙った! さては付き合い始めは、玲の年とそんなに変わらないな⁉︎」
「うるっさい。あんたのとことは違って、私はセーフよ」
「有働さんも十分な年の差カップルの範疇だと思いますけどねえ」
「……そうね。プライベートと仕事の両方で若い子二人も相手できないから、さっきの話蹴ってやろうかしら」
「あっあっ、確かに私はうるさかったです」
狼狽え、口のチャックを閉じる真似をして、ちょこんと行儀よく座り直した。
――まさか、こんな風にしゃべれる日がまた来るなんて、思いもしなかった。
「……それにしても、あんたがそんな風に覚悟決めるとはね」
私の言葉に一瞬気まずげに頬を硬くし、しかしすぐ、わざとらしく不敵に唇を歪めて彼女は言う。
「もし、『人気モデル・玲の交際相手の一般女性Sさんとは? 年齢は? 仕事は? 年収は? 調べてみました!』なんてクソみたいな記事書かれても、結びは『一般女性っていうか世界で活躍するスーパーヘアメイクアップアーティストさんでした! これなら玲さんが惚れるのも仕方ないですね、全世界がお二人の幸せ願っています!』って書かせてやりますよ。くだらない下衆どもの悪意は、私の名声で蹴散らしてやる、そんで祝辞に変えてやらあ。――そう思っています」
「ふーん。玲に比肩するほどの知名度を得るっていうのね。道は険しいでしょうね」
「……うぅ、うん、はい、やっぱそうですよねー……」
「それに、今と比べものにならないくらい、どんどん売ってくわよ――この、私が」
「有働敏腕マネージャー……私の仕事が軌道に乗るまでちょっと手心加えるとか……」
「しないわよ、売って、売りまくってやる」
ふ、と片頬で笑う私に苦笑を返し、手の中のグラスをやや見つめて彼女はぽつりと零した。
「……本当に、私やれるのかな……。そもそも……今さら私をあの子が受け容れてくれるかもわからないんです。私……散々彼女を傷付けてきたから」
「……」
「もしも、もし、だめだったら、この話、本当にすみませんが綺麗さっぱり忘れてください。ごめんなさい。世界旅行めいっぱい楽しんできてください」
そう気弱に笑うのが、気に食わない。
だから、その背中を思い切り叩いてやる。
「ぁ痛っ!」
「馬鹿。なんとか説得するのよ。泣きついてでも、土下座してでも。あんたの覚悟を、きちんとあの娘に示しなさい。私にマネージャーやらせるからには、そんなことぐらいなんとかしなさいよ」
彼女は声を詰まらせ、そして小さく言った。
「………はい。本当に、ありがとう」
その笑顔を見ながら、私は何度こいつに人生を狂わされるんだろう、と思う。
未唯の引退が決まって少し息が抜けると思った矢先、また忙しい日々が続くに違いない。
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