第32話「……だ、だし」と聞こえないくらいの小声で震えている件

 よりにもよって誰がどう見ても、さやめを強引に押し倒している図を誰かに見られてしまうのだろうかと危惧しながら、ふと玄関の鍵はかけていたか思い出してみる。

 一瞬頭をよぎったのは、泉ちゃんが帰ったままだということだ。


「あぁ、そっか……泉ちゃんが帰ったまま鍵はそのままだ……もちろんオートロックだよな?」

「バカなの? そんなはずないだろ? 鍵がかかっている時に厳しくしただけで、晴馬ごときにそこまでしない」

「ごときって言うなっての! 入る時だけ厳しい? 何だよそれ……そ、それより、勝手に開けて来られたらどう説明するんだよ?」


「(……か、簡単だし? わ、わたしが説明をするだけで多分、納得を――)」

「何? 今なんて言った?」


 さやめにしては珍しく小声で何かを呟いたので、思わず体を近づけてもう一度聞こうとした結果、真正面で見つめ合っているような体勢になってしまった。

 こんなにもさやめの瞳を見つめるのは、何度目かではあるけど、緊張で震えを起こしながら、目を逸らそうとしているコイツは初めて見たかもしれない。


『この時間ならまだ寝てはいないよね? あら? 鍵は開いているのかな?』


「――っ! さ、さやめ、どうす……」

「晴馬は黙ってて! ありのままのわたしたちを見られてもきっと怒られないから……だから」

「う、うん」


 何の躊躇ためらいもなく玄関の扉を開けて来る相手なんて、そうはいない。いるとすれば、身内くらいなものでそれはまさしく、俺じゃない方の身内。押し倒している姿を見られるなんて最悪でしかない。


「晴馬くん、空いていたから入りますよ――って、まぁ……! まあまあ! お邪魔しちゃったのかな?」

「え、えーと? どちらさまでしたっけ?」

「忘れちゃった? さやめの母のさぎりですよ」

「えっ? さぎりおばさん!?」

「やだなぁ、おばさんだなんて。もうすぐ晴馬くんのお母さんにもなるのに! ううん、今すぐかな? ねぇ、さやめさん?」


 なるほど……やはり母さんの言う通り、さやめとは許嫁みたいだ。そうだとしても、どうしてここが分かったのだろうか。そしてさっきから、さやめがすっかり大人しくなっているのが気になる。


 さすがにこの状態ではよろしくないので、ベッドから抜け出して真ん中のテーブルでさぎりさんと話すことにした。


「は、はい、ママ……」


 さっきまでの俺への態度はどこへ消えたのだろう。まるで怯えた子猫みたいになっているじゃないか。小さい頃の記憶が正しければ、目の前に座っている女性は間違いなくさやめのお母さんみたいだ。


 話し方も丁寧だし、知性と品格を備えている大人な女性に見える。


「あの、どうしてここへ?」

「ここは晴馬さんが暮らしている寮でしょ? それと、さやめさんが住んでいるお部屋でもあるのよね?」

「はぁ、まぁ……」

「確かめに来たのだけれど、今まさに始めようとしていたのかな?」

「な、何を?」

「もちろん、子作りですよ? さやめさんってば、中々ご報告に来ないの。でも見た限りでは仲は良さそうだし、そう遠くない時期にいい報告が聞けそうで安心です」

「ええっ!? そ、そんなことしてないですよ! そ、それに仲はそんなに……第一、僕には他に付き合っている彼女がいまして、だから……」


『――今、何と?』


 気のせいか空気感が変わった気がする。さやめの奴も口を開かずに顔を下に向けたままだし、そんな怖そうに見えないのに。


「え、だから、僕には他に彼女が……」

「ち、違うの、ママ! わ、わたしとはるくんはまだそこまで進んでいなくて、はるくんにはもっと他の――」

「さやめはお黙りなさい。私は晴馬くんとお話をしている最中ですよ? 途中で口を挟むなどと、お行儀の悪い子に育てた覚えはありませんよ?」

「は、はい。ごめんなさい」


 さすがにお嬢と付き合っていることを、お母さんに教えることもしていないだろうけど、どうしてそんなに怯えているのか。一体どういう報告をしているんだろう。


 そもそもさやめとは、最近になってようやく多少の距離を縮めて来たかどうかのモノなのに、子作りだとかそんな進んだ展開になんてなり得ないのに、何ともおかしな話だ。


「……それで、晴馬さん。他に女がいるとはどういうことですか? 嘘ではないのでしょう?」

「はい。嘘じゃないです。僕はさやめとは一緒に住んでいますけど、学園では他の子と付き合っ――」


 バンッ――!

 テーブルを勢いよく叩きつけたさぎりさんは、身を乗り出して顔の間近に迫って来た。


「ひっ!?」

「あなた、晴馬さんよね? 偽物じゃない? ウチのさやめをお嫁さんにするというから、厳しくしつけを施して、晴馬さんに見合う美しさを磨かせて留学までさせたというのに……いつからです?」

「え? いつからって……はぐっ!?」


 間近に迫るさぎりさんがまさかの顔掴み攻撃とか……怒涛すぎる。


「いつからロクデナシ野郎に成り下がったのか答えな! それとも、他の女があなたをそそのかしたから、そんな下衆野郎になったとでも?」


 これはもしやスパルタ教育ママさん? しかも俺への期待値が恐ろしく高い。さらにはさっきまでの知性的な大人女性はどこに行ったのだろう。

 さやめがどうやら思い出の女の子なのは間違いないと分かったけど、そんな昔に約束なんかしていたのかな。それすら覚えていないんだけど。


「そそのかしてなんかいないです……さやめとはまだ付き合ってもいなくて、だからその……」

「ふぅん……? 付き合っていない? 一緒に住んでいて押し倒す関係なのに、付き合っていない? それじゃあ、退学する? さやめと進む気が無いのなら晴馬さんは退学して、さやめに近づかないと約束できる?」

「し、しないです。そんな約束なんて……さやめとはこれから少しずつ――」


 少しずつどうするつもりなのか。嫌いじゃないけど、コイツのことが何も分かっていない状態で、もっと近付くとでも言うべきなのか? 

 思い出の女の子なのに、せめてもう少し素直になってくれさえすれば。


「どうするつもり? 答えなさい!」

「僕はさやめちゃんと――」

「待って! あの、ママ……大丈夫だから。だから、次に報告に行く時には彼と一緒に行きます。だから、今日は許して欲しいです。お願いします……」

「……それは確かね? さやめさん」

「はい」

「……さやめさん、晴馬さんの言葉が次に違っていれば……後は分かりますね?」

「約束……します」


 どうやらかなり進んだ関係ということを伝えていたみたいだ。ウチの親はそんなに深刻そうにしていなかったのに、さぎりさんは切羽詰まった感じにしているのはどうしてなのか。


「では、晴馬くん。次は調月つかつきの本家でお会いできるのを楽しみにしておりますよ? 夜分にごめんなさいね」

「あ、はい」


 よく分からないままで、静かに玄関の扉を閉めてさぎりさんは帰って行った。終始さやめが大人しくなっていたのが気になるけど、ウチとさやめの家とでどんな約束をしていたというのか。


「おい、さやめ! さぎりさんが何で――うっ?」

「ねぇはるくん、キスして――?」

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