第30話「下がいいと聞きました」と素直に答える女の子
さやめの不意打ちは目が覚めたら痛みそのものを感じることはなく、普通の保健室で普通に眠っていたらしい。あの後、さやめは紅葉さんにやられたのだろうか?
「晴馬、目が覚めたか?」
「円華? え、どうしてここに?」
「良かった! 晴馬が無事ならそれでいいんだ。レイケに土下座をしてしまったが、こうして無事に戻って来たのだ。レイケに感謝するしかない」
「え? 土下座? 円華がどうしてさやめに謝るの?」
「いや……晴馬を行方知らずにした責任はわたしにあるのだ。こんなことでは彼女失格ではないか! 常に寄り添うべき立場でありながら、一瞬でも彼氏である晴馬の姿を見失うなど……何て浅はかだったというのか」
このお嬢様はどこまで純粋なんだ。誰かを悪く言うよりも、自分のせいにするなんて純粋すぎる。あの人にされそうになったことや、さやめにされたことを含めて自分がいかに恥ずかしいか思い知った。
「いや、円華は悪くないからね? そもそも気づいたら連れ込まれていたわけだし、誰が悪いとかそういうのはないし。だ、だから、頭を上げてよ」
「……晴馬」
「あ、いやっ……」
これはまずい雰囲気になっている。ここはあの保健室では無くて、普通の保健室だ。白いカーテンで仕切りがあるとはいえ、彼女である女子に何かを求められているというのは本当に良くない。
「わたしにはしてくれないのか?」
こんなことを言わせている時点で、さやめにはしたという事実を知られていることに気づく。何もかもを知ったうえで、俺と付き合っている円華はいい女なんだなと実感するものの、素直に応じられるかは別だったりする。
「こ、ここではしないよ。そういうのは、円華の部屋でしたいからね」
「そ、そうか。そこまでわたしのことを考えていてくれたんだな。すまない、晴馬。こんなはしたない女ですまない……」
武家屋敷のご令嬢に下手なことは出来ない。軽はずみなことはしてはいけない。
「体は平気か? もし立ち上がるのが辛いのならば、わたしが晴馬を抱えるが……」
「いやいやいや! だ、大丈夫だからね? ちなみに今は何時限目だったりするのかな?」
長いこと保健室にいる気がする。そんなに時間は経っていないはずなのに、あんなことが起きてしまった以上は、半日くらい経っていそうな感じがした。
「あ、あぁ、それは……」
「「晴馬ー! 無事か?」」
「カイ? それと、たくみまで?」
「たくみから聞いた。男限定でウワサの紅葉に食われそうになったんだって? っと、おじょ……」
「く、食われ……? いや、えっと……」
「カイはともかく、俺はまさに該当者っていうか……もっと言うべきだった。晴馬、本当にごめん!」
たくみに疑いをかけた自分も、この場で頭を下げたくなった。それを察してなのか、邪魔をされたからなのかは分からないけど、円華は明らかにしかめっ面になっていて、カイとたくみ……特にカイを睨んでいる。
「そ、その話は今はいいよ。それよりも今って何時なの? もしかしてもう放課後とかじゃないよね?」
「放課後だ。結構な時間いなくなってたからヤバいと感じていたけど、レイケに助けられたんだろ? っと、その前に、碓氷お嬢様の訴えによるものか。お嬢様に感謝したか? まぁ、晴馬の彼女だから後で思いきり甘えさせてやればいいんじゃね?」
「そ、そうするよ。ありがとう、カイ」
「ごめんな、晴馬。朝の時点でもっと注意しとけばこんなことには……ひどいことされた?」
「え、ええと……大丈夫だったよ、うん。たくみもありがとう」
このままでは円華が二人を、特にカイを模造刀で斬りかねないだけに、ここは素直にしておかないと。
「疲れたろ? 晴馬は俺らが責任もって寮に送るからな。碓氷お嬢様は、心配しないでくれるか?」
「……貴様の言葉を信じるに値するかは分からないが、下手なことをすればどうなるか分かるはずだ」
たくみはともかくとして、どうして円華はカイを嫌っているのだろうか。
「んじゃ行くか、晴馬」
「うん、よろしく。円華、ありがとう! 俺は大丈夫だからね?」
「承知した。ま、また後で会いたい」
何とも言えない可愛さが溢れていた。出会ったばかりの態度はどこに行ったのだろう。そうだとしても、彼女には彼氏らしいことを、何一つしてあげられていないのが何とも言えない。
「晴馬、カイ。俺はここで……」
「おう、じゃあな! たくみ」
「うん、またね」
朝は分からなかった通学路も、帰りは何故か分かりやすく思えた。見たことのある角を曲がったところで、たくみと別れてカイと二人だけで寮に向かうことになった。
「責任感じてるっぽいな。あいつ」
「たくみのせいじゃないのに、そんな……」
「それに寮に行くとレイケがいるだろ? あいつは知らないけど、寮までは送りづらい思いでもあったかもな。赤城紅葉ってのは、たくみが入れ込んでいた女だったしな。どこまでやっていたかは聞いてないけど、そういうのもあって晴馬には目を向けられないかもな」
「そんな、そんなのは別に」
「実際の所はどうなん? イクとこまでイった?」
その前にさやめにされたなんて言えない。さやめには無い胸に興味はあったけど、それも言えない。
「そんなわけないでしょ。カイは俺がそんなことを出来るように見えるの? 泉ちゃんにすら何も出来なかったのに……」
「それな。後から聞き出して分かった。悪いな、少しでも疑っちまって。で、そのことなんだけどな……」
「うん?」
「俺は寮までは送る。けど、そこからは泉の相手をしてやってくれ! といっても、イクとこまで行けってことじゃねえぞ? 兄としては妹の恋を応援してやりたいだけだしな。晴馬ならほぼ無害だし、任せられる」
「へっ? む、無害って……」
夕暮れの薄暗さが差し掛かった辺りで、寮に着いた。そこには男装姿の泉ちゃんが直立不動で待っていた。
「ってことで、またな! 晴馬」
「いや、ちょっと?」
「レイケがいるかもだが、泊めてやってくれ! 何もしないだろうし、話をしてやれ! じゃあな」
「えええー!?」
嘘でしょ? さやめがいる……といっても、壁の向こう側。そうだとしても、何で泉ちゃんを任せられるのだろう。
「あ、兄者! お、お待ちしていました!」
「あ、うん。ひ、久しぶりだよね」
「あのっ、私は……じゃなくてオレは兄者の下でも構いません! それでも兄者が望むなら、下ではなく上になります!」
「はい?」
「し、下がいいって聞いたんです。兄者は女子の下になるのが望みなのだと。それなら、オレが兄者の上に!」
怒れない罠が待っていた。恐らく何の意味なのかすら、泉ちゃんには知らされていないはず。まずは深呼吸をさせて、それから中にいるであろうさやめを諭すことにしよう。またアレコレ言われたくない……はぁ。
カイの妹でもある泉ちゃんは、可愛い女子だ。女子の姿も知っているだけに、どうしてまた男装女子と化してまで俺に会いに来てくれたのだろうか。しかもお膳立ては兄でもあるカイだ。
「思い切ったね、ソレ……」
「はいっ! 兄者の好みに合わせて短く切りました! これで男らしく見えますか?」
「俺の好み? あ、あれっ……そんなことを話した覚えはないよね」
「カイが言っていました! 兄者はマニアックだと」
あいつめ……どうして妹ちゃんにそんな嘘を吹き込むんだよ。マニアックって……その人選は限られているはずなのに、信じきって髪まで切って来る泉ちゃんに何てことを。
それにしても長く伸ばしていたはずの髪をバッサリと切ってはいるものの、大人しそうで少し気の弱そうな草食系の男の子になったのには驚いた。女の子は何にでも変われるんだなとつくづく感心してしまう。
「は、はは……そ、それはそうと、部屋に泊まりに来たって何で? だって、中にいるかもしれないんだよ?」
「はいです! 望むところです! レイケにされたことを教訓に特訓をして来ましたっ! だから大丈夫ですっ!」
特訓って、確かキスという名の人工呼吸をされたはず。どうやって特訓をするのだろうか。
「と、とにかく、オレが上になりますから、部屋に入れてくださいっ!」
「へ? う、上に?」
まさかアレな意味じゃないよね? 泉ちゃんがまさか、そんなことをするはずがない。しかしカイの企みで、妹ちゃんにあらぬことを吹き込んでいる可能性はゼロじゃない。もしかして部屋の中に入ったら実行に移すのだろうか。
「と、とにかく、部屋に行こうか? さやめがいるかもだけど……」
「はいっ! よろしくお願いしますです!」
両手で握りこぶしを作り、何か間違った気合を入れている泉ちゃんがとてもいじらしく思えた。そうは言っても、いわゆる体のどこかに触れるようなことは絶対にしない。今度こそカイに殴られるのは明確だからだ。
問題はさやめの奴が一足先に部屋に戻り、ニヤニヤしながら俺と泉ちゃんを嫌味ったらしく出迎えるかどうかが心配でならない。
「ふぅ……と、開けるよ?」
「は、はい……」
「た、ただいま……」
「思ったんですけど、ここは元々兄者だけが住むお部屋ですよね? どうしてレイケが住んでいるんですか? 兄者の部屋なのだから堂々と入るべきでは?」
「う、うん」
まさにおっしゃる通り。何をびくつきながら自分の部屋に入らなければならないのだろうか。仕切りがあって、少なくとも俺の部屋側に座って待っている奴ではないことくらい分かっているはずなのに、つくづくビビり魔だなと思う。
昔のあだ名がびびり馬だったことも思い出して、部屋に入る前から落ち込んでしまった。
「それじゃあ、部屋に入ったらオレが上になりますね!」
「あ、うん……」
気の弱そうな草食系男子……いや、中身は可愛い妹ちゃん。それがどうやら間違った知識、間違った解釈で上から目線の態度になるとは、誰が想像出来るというのだろう。
「お、おらぁ! さっさとそこに、座れ!」
「うん、座るね」
何だか可愛い変貌ぶりを見せているので、素直な気持ちで返事が出来てしまうのは泉ちゃんだからだろう。これが奴だとそうはならない。
大抵は何か企んでいるだろうし、常に上から目線で接してくる相手なだけに、この子には愛着しか湧かない。
「ジュースを持って来い! は、早くしろ!」
「あぁ、そうだね。待っててね、泉ちゃん」
「……センパイ、わたし、上から目線で言うの苦手です……で、でも、下が好きだなんてそれって、やっぱり普段からそういう扱いを受けているからですか?」
「へっ? ちょっといい? 泉ちゃんの聞いている上とか下ってどういう意味なの?」
「センパイは妹から罵られるのが好きだって聞きました。甘えて来るよりも、上から目線で責められる方が相手を好きになるんだって言っていました。違うんですか?」
「それも、カイから?」
「はい。ウチの兄は学園の、特に晴馬のことは任せろ! って豪語していました」
なるほどそうか、お嬢が腹を立てているワケが何となく分かった気がする。カイは調子が良すぎるんだ。頼りになるけど、軽い男すぎる。
「いやぁ、泉ちゃんからなら上から言われてもムカつかないし、むしろ照れちゃうよ。泉ちゃんさえ良ければ、もっと上から罵って欲しいなぁ」
「じゃ、じゃあ、威圧的な態度で迫るのも好きですか? あっ……」
「出来るものならやってみていいよ? こういう遊び方もありだと思うし、もちろん、マニアックじゃないからね? そ、それじゃあ、目をつぶってるから試しに迫ってみてくれる?」
調子に乗りすぎているのは自分だったと後悔したのは数秒後。甘えられるよりも攻めてみせてよなどと、どうしてこんなに愚かなコトを調子に乗って言ってしまったのだろうか。
目を閉じて、泉ちゃんが迫って来るのを今か今かと、期待して待っていた。待っていただけなのに……。
「セ、センパイ、あの……」
泉ちゃんの震える声と同時に、あぐらをかいて待っていた自分の全身は、強い力で倒されていた。力を抜いていた自分の体を、あっさりと倒す泉ちゃんは結構強いんじゃないだろうか。
「ご、ごめんなさいっ! ま、また今度にします!」
泉ちゃんの慌てふためく声は、玄関のドアが開いたと同時に聞こえなくなっていた。そうするとさっきから自分の体を強い力で押さえ付けている奴は、もしかしなくても奴ということになる。
「――あれっ? ま、真っ暗? え、な、何も見えない!?」
さっきまで閉じていた目を開けると、視界は何故か真っ暗なままで何も見えない。泉ちゃんと一緒に部屋に入った時には確かに部屋の電気は点けたはずで、消した記憶は無かった。
たとえ電気を点け忘れていたとしても、ここまで暗闇になる部屋ではないだけに、奴の声を聞くまでは何が起きたのか分からなくなってしまった。
「いいことを聞いた。ビビり馬は下が好き……ね。へぇ? そっか、なるほどね」
「さやめの仕業なのか? 部屋の電気を全部消すなんて、どういうつもりだよ!」
「電気なんか消してないけど? あはっ、何も見えないのかな? 体の自由を返してあげるから、わたしを探してみなよ? 暗闇の中から、わたしに触れることが出来たら許してあげるかもね」
「だ、誰が許してくれだなんて言ったんだよ! そ、それよりもやっぱりさやめの仕業じゃないか! 泉ちゃんをどうせまた脅して帰らせたんだろ? と、とにかく、目隠しを外せよ!」
「狭い晴馬の部屋には、わたししかいない。暗闇の中でわたしを探すことが出来たら、外してやる。ほら、わたしを見つけてみろよ、びびり馬くん?」
「く、くそっ……」
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