第22話 サクラ、サ、ク、ラ……

 〜桜子のいる風景〜




 桜が満開だ。

 月明かりのなかでは雪景色のようにも見える。

 少し、ひんやり、薄気味悪い。


 土をほる音が単調に続く。

 人の気配はない。

 風も吹かない。

 静寂。


 おまえが悪いんだからな——と、タカトは胸の内で、つぶやく。

 おれは別れようと言ったのに、おまえがイヤがるから……。


 桜子のことは、ほんとに好きだった。

 こんなに人を愛するのは最初で最後だろうとすら思った。

 彼女は、まるで天使だった。

 あれほど、はかなげに美しい人は、ほかにいない。


 できることなら、桜子と結婚したかった。

 結婚して、平凡に子どもなんて二、三人作って、ささやかな幸福なんてのを味わいたかった。


 でも、タカトには、あきらめきれない夢があった。

 自分に才能がないことは、わかっていたが。


 子どものころから絵を描くのが好きだった。一生、絵だけを描いていたいと思った。だが現実には、そうはいかなくて、小さな広告会社でチラシの絵なんか描いてる。


 このまま、一生、埋もれていくのかなと、思っていた。ほんとにやりたいことと、生きるためにやらなければならないことの、はざまで。


 ゆっくり、静かにつもっていく。

 灰色の絶望感。

 それは、静かに降りつもる雪のような。風に吹かれる桜の花びらのような……。


 桜子と出会ったのは、そのころだ。

 夢はやぶれた。でも、桜子との静かな時間は、その穴を埋めてくれた。

 彼女となら、このまま、平凡な一生に埋もれてもいい……。


 そう思った。


 桜子は、ふしぎな女だ。

 激しく存在を主張するわけじゃない。そこにいるのが、あたりまえのように、景色にとけこむ。

 だからって、影が薄いわけでもない。

 彼女が、そこにいることによって、すべての景色が数段、美しくなる。

 景色が桜子色に染まる。


 タカトのわびしい安アパートの一間も。さびれた商店街も。誰もいない小学校の校庭も。ゴミ捨場でさえ。

 桜子がいれば、美しい。


 そう。花にたとえれば、桜。

 桜子は桜の精のような女。


「おまえって、桜みたい」

 タカトが言うと、桜子は笑った。

「そうなの。どうして、わかったの?」

 真剣な顔で答えるので、タカトも笑った。

「わかるよ。だって、まんまだもんな」


 ささやかで、幸福な日々。

「ずっと、いっしょにいよう」

 おまえと名もなき生涯を送ろう。

 それも、きっと、よき人生……。


 でも、そのあと、すぐ事態は変わった。


 何かを求めたわけじゃない。

 最後に、もう一度、賭けてみようとすら思ったわけじゃない。

 桜子と暮らすために、今のせまいアパートを引っ越すことにした。そのために、不必要なものは全部、処分しようとした。ただ、それだけ。

 描きためたガラクタを画廊に、まとめて持っていった。廃品回収のようなつもりで。


 画廊の女社長は言った。

「この絵、高く売ってあげようか? あたしといれば、きっと、あなたは成功するわ」

 タカトの絵に価値があるわけじゃないことは、わかっていた。女はタカト自身に価値を見いだした。


 どぎつい鬼百合みたいな女。

 まったく好みじゃないが、でも、絵は売れる。それだけのコネが、女にはある。


「ごめんな。桜子。形式だけだから。あいつのことは利用するだけだよ。あいつの手を離れて、おれの名前だけで売れるようになったら、かならず、おまえを迎えに行くから」


 もちろん、桜子はゆるしてくれなかった。

 責めはしない。ただ、泣きじゃくる。


 愛をとるか、夢をとるかの二者択一。


 タカトは夢をとった。

 それは、何度、ざせつしても、焦がれ続けた夢だったから。


 それで、今、ここで、こうしている。

 桜子の郷里だという山里で。

 桜の古木にかこまれながら、ザクザク。ザクザク。穴をほる。


 ウソみたいと言われそうだが、タカトは泣いた。

 桜子への愛は高まるばかりだ。


 さよなら。おれの愛した、ただ一人の人。

 おれはもう一生、恋はしないよ。

 今ここで、おまえとともに葬ったから。

 おれの心も。ここへ。


 泣きながら、車をとめた車道まで帰った。


 なんだか、おかしいとは感じていた。

 車道に帰るまでのあいだ、何度も背後をふりかえった。

 何かが、あとをつけてくる……。


 ウソだろ? 気のせいだ。

 きっと、愛する人を殺した罪の意識が、そんな錯覚を感じさせるんだ。


 車道に出た。

 人影は、やはりない。


 タカトは安心して、運転席に乗った。

 エンジンをかけ、ライトをつけたとたん、光のなかを何かが、よぎった。

 一瞬、白いワンピースを着た女に見えた。


 心臓が止まりそうになる。

 が、よく見れば、風だ。風のせいだ。

 薄闇のなか舞い散る桜吹雪が、人影に見えたのだ。


 山道に車を走らせた。

 静けさが、のしかかるように迫る。

 トンネルに入ったとき、音が聞こえた。


 なんだろう? あれは?

 何かが走っているような……?

 裸足で走る人の足音……。


 まさか、この深夜にランニングか? それも裸足で?

 そんなやつ、いるはずない。

 なら、なんだっていうんだ。この音……。


 バックミラーを見るのが、怖い。

 そこに、あるはずのないものを見てしまいそうで。


 呼吸が速まる。

 動悸も激しい。

 あの音がせまってくる。


(桜子。おまえなのか? おれを恨んで?)


 恐る恐る、バックミラーをのぞいた。

 白いものが見える。

 何かが追ってくる。

 影のような、ふわふわしたもの。


 タカトは悲鳴をあげた。

 思いきり、アクセルをふかした。

 急カーブの続く山道を右に左に、車体は振られる。

 だが、どんなにスピードを出しても、影は追ってくる。


(ゆるしてくれ! 桜子。おまえを愛してたのは、ほんとなんだ。殺したくなかった。ずっと、いっしょにいたかった)


 白い影が笑ったように見えた。

 タカトはアクセルをふんだ。メーターは、すでに百キロ出てる。

 影が笑う。

 パタパタと足音が追ってくる。


 やめろ! やめてくれ!

 だから、おれは言ったじゃないか。

 形だけだって。別れるふりしてくれたらいいって。

 おまえがいけないんだ。

 うんと言ってくれなかったから。

 おれには夢があるんだよ。


 泣きながらハンドルを切った。

 前が見えない。後輪がすべった。

 車はガードレールにぶつかり、止まった。


 とたんに足音がやんだ。

 影も見えなくなった。

 急停車の衝撃で、タカトは気を失った。


 気がついたときには、夜が明けていた。

 東の空が白みはじめている。

 タカトは周囲を見まわした。

 桜子に追いかけられた、あの恐怖。

 あれは、夢だったのか?

 あたりに不審なものは何もなかった。


 けっこうなスピードで事故ったが、大きなケガをしてるふうもなかった。

 タカトはドアをあけ、車外に出た。

 冷たい空気が気持ちを冷静にしてくれる。

 車体の背後にまわりこんだタカトは、それに気づいた。


 いったい、いつからだったのだろう?

 たぶん、トランクから桜子の死体を出すときに、ひっかかったのだ。


 桜子のしていた白いスカーフ。

 トランクから、はみだし、地面に長く、ぶらさがっている。

 これが車体をたたいたから、あんな音がした。そして、ふわふわと舞いあがる姿が人影に見えた。


 見つめるうちに、タカトは涙があふれてきた。

 これは、きっと、桜子の心だ。

 暗く静かな山奥に、たった一人で置いていかれるのが、さみしかったにちがいない。


 あなたといたいの。

 殺されてもいいから。

 ずっと、いっしょに……。

 そう、彼女がささやいたような気がした。


 スカーフを助手席に結んだ。


 いっしょに帰ろう。

 やっぱり、おれの恋人は、おまえしかいないよ。


 数時間、車を運転して、自宅へ帰った。アパートのカギをあけると、桜子がすわっていた。

「遅かったのね。タカトさん。わたしのほうが早く、ついちゃったわ」


 タカトは彼女を見つめた。

「……なんで、ここにいるの?」

「言ったじゃない。わたし、桜なのよ。桜の精。知ってる? ソメイヨシノって、一本の木の分身なのよ。今風に言うと、クローン?」


 そうだ。ソメイヨシノは一本の木を接ぎ木で増殖させた。日本中にある何万本もの桜は、すべて同じ木、同じ遺伝子……。

 その一本ずつに、精霊が宿るのだとしたら。

 その一人ずつが、同じ遺伝子なのだとしたら……。


 おれが桜子と別れるためには、いったい、何人の桜子を殺し続ければいい……?


 タカトは笑った。

 もう笑うしかなかった。


 桜みたいな女なんて、愛するもんじゃない。

 思ってたより、ずっと、しぶとい。

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