5:月下の対話 ―本音のふたり―
それから1時間ほどしてだった。ようやく、ラフマニが階上から降りてきた。さすがに空腹が過ぎたらしい。
階段の途中にて、ローラはそんなラフマニにこう声をかけた。
「ねぇ、子どもたちおとなしくしてるから、二人だけにならない?」
ローラの思わぬ言葉に不思議がりながらもラフマニは同意する。
「あぁ、いいぜ。一番上の階のフロアを使おうか」
「うん。先行ってて」
「あぁ」
そんなシンプルなやり取りを済ませるとラフマニは先に上の階へと向かう。そして、ローラもラフマニの分の夕食とおまけの品を用意する。
この家での食事は台湾人街が近いせいか中華系の料理が比較的多い。今日の夕食は水餃子で、天満菜館でもらってきたものを煮てスープ風に仕立ててある。これに肉詰めの包子が添えてある。それにラフマニだけに〝例のもの〟を用意する。それと安物だが酒類も添える。瓶入りのスパークリングカクテルの類だ。
それらを配膳用の長おぼんに乗せてラフマニの待つ最上階へと向かう。
足音も静かに登っていけば最上階の4階はほとんど使われていない。ただ道路際の一室は見晴らしがよく外の光景がよく見えるのだ。
明かりも付けずに月明かりの下でラフマニは腰を下ろしていた。
足を投げ出し、手を両側について月を見上げながらぼうっとしている。外で着る作業着や革コートは脱ぎ、中に着ていたハイネックのシャツ姿だ。一日、力仕事をこなしたのだろう、そこはかとなく汗の匂いがする。
その時のラフマニの表情は思案げと言うより、物思いに耽っているかのようだ。その姿に見入りそうになるローラだったが、持参した食事が冷めるかもしれないと、声を掛けることにした。
「ラフマニ――」
建物の外の喧騒が漏れてくる意外は音楽すら聞こえない部屋に、ローラの声はとても良く響いた。その声に軽く振り返りつつラフマニは笑顔で答える。
「おう」
たったそれだけだがその言葉の意味と価値はよく分かる。
ローラもはやる気持ちを抑えながら静かにラフマニへと歩み寄っていった。
「おまたせ。持ってきたよ」
「あぁ、ありがとうな」
ローラは、持ってきた長四角いおぼんをラフマニが腰を下ろした辺りにそっと置き、その近くに自分も腰を下ろす。
「今日は水餃子と包子」
「楊さんのところか」
「包子はね。水餃子は前にもらってきた冷凍物を出してきたの」
「あぁ、山程もらったやつだったな」
「うん、そろそろダメになるから使っちゃおうと思って」
そして、ローラはラフマニだけに用意したものを指し示す。
「あと、もう一皿はラフマニだけに用意したものだから」
「え? 俺だけ?」
不審そうに確かめればそこにあったのは、楊さんが特別に分けてくれたあの品であった。
「お、
「好きなんでしょ? 特別にもらってきたの」
「いいのか?」
心配げな声が帰ってくる。だがローラは一笑に付した。
「平気よこれくらい。ホントのこと言うと楊さんが特別に出してくれたの。それとお酒――、少しだけどね」
ほんの僅かな違いだったが、そこには間違いなくローラがラフマニへと込めた気持ちが表れていた。感謝を口にせずにはいられなかった。
「ありがとな」
それを聞いてローラもはにかみながら答える。
「ううん、今朝、嫌な思いさせちゃったし――」
「あぁ、その事か」
ローラの詫びの気持ちを聞いてしまえば、ラフマニもそれに答えずには居られなかった。
「いや、悪かったのは俺の方だよ」
そっと呟くその言葉にローラは無言で聞き入る。
「仮にもこの家のまとめ役なのによ、言い方だってあったはずなんだ。うまく収める言葉がさ」
そう言葉を漏らしつつ包子に手を付ける。
「俺もまだまだだな」
自嘲の言葉をラフマニは漏らす。だがローラはそれをやんわりと否定した。
「そんな事無いよ。ラフマニは十分よくやってるよ? あたしがこの家で子どもたちの世話に専念してられるのも、ラフマニがみんなを支えてくれてるからだよ」
そう語りつつ、ローラはスパークリングカクテルの瓶を手に取り、その封を開ける。
――プシュッ――
小気味よい音が漏れて、心地よい香りがあたりに広がった。
「でも、すべてを完璧にこなすなんて誰にもできないよ。私も毎日なにかしらしくじるし。ジーナもアンジェリカもそう。今朝はそれがわたしとラフマニとでたまたま重なっただけだよ。はいこれ――」
封を開けた瓶をラフマニの前に差し出す。包子を口にしていたラフマニは瓶を手にしながら答えた。
「そうだな――、お前の言うとおりだ。間違いやミスをせずに生きるなんて神様だってできやしねえよ」
「でしょ?」
「あぁ」
ローラが笑って問いかける。
ラフマニも笑顔で答える。
沈んでいた空気が変わり、穏やかな空間があたりに広がった。
「さ、食べて。冷めちゃうから」
「あぁ」
和やかになった空気の中――ラフマニが夕食を始めた。
ローラはそれを満足気に眺めるのであった。
@ @ @
ラフマニは食が早い。噛まずに飲むという程ではないが、食事についてはあまりおちついて食べるという雰囲気ではない。ただその理由をローラは察していた。
もともとが身寄りのない孤児の身の上であり、食うや食わずの暮らしを幼い頃からしてきているはずなのだ。食べると言うことに強い執着が見え隠れするのだ。だが、それでも、ローラと暮らし始めて落ち着きが出てきたのか、食べ方もまともになっている。
包子にかじりつきながら、水餃子を口に運ぶ。香腸と酒はあとのお楽しみにするようだ。
ローラは、そんな彼の食事姿を、その隣に腰をおろしながらさり気なく見守っている。食と言うものを本来必要としない彼女は、人間として振る舞うための偽装目的以外には食事をしない。ただおだやかに体を休めるだけである。
それから少しの時間が過ぎて、水餃子と包子はラフマニの胃の中へと収まっていけば、残るは酒と香腸である。好物をあとに取っておくのがラフマニのやり方らしい。その香腸に手を伸ばしながら、語り始めたのはラフマニであった。
「そういえば――」
ラフマニはさらに告げる。
「ローラは春節って知ってるか?」
「うん、中国圏のニューイヤーウィークでしょ? 旧正月って言う昔のニューイヤーデーに合わせて開かれる一週間くらいの長い休みだって」
「そのとおりだよ。知ってるなら早いな」
ローラもかつては世界中を巡っていた。それゆえに意外と異なる様々な民族風習に明るい面がある。中国文化圏の旧暦の正月行事についても理解していたようだ。
「いつも世話になってる台湾人街の人たちも、春節を迎えるんだけど、その事で声をかけられたんだ」
「うん、ジーナに聞いた。毎年、食事に招かれるって」
「それなんだが、今年は少し違うんだ」
「え? どう言うこと?」
ラフマニの言葉にローラは不思議そうに訪ねてきた。
「旧正月の9日間を〝街〟の方で過ごさないかって。寝泊まりするところも用意するって言われた」
「9日間――って、春節の間ずっと?」
「あぁ。ただ春節の最初の〝竈の日〟だけはお年寄りの家とかの大掃除とかを手伝ってほしいんだってさ」
それは寝耳に水、そして予想外の朗報だった。
「本当?」
「あぁ、本当だ。今日、台湾人街の李さんから言われたんだ。もう準備も始まってるみたいだった」
「それ、子どもたち喜ぶよきっと。いつも街の人に会うとみんな嬉しそうにするのよ」
「だろうな。〝誰かに受け入れてもらえる〟――それがわかるだけでも心の中に溜まった〝
「それじゃ――、子どもたちの事、もっと身ぎれいにしてあげないとね」
「あぁ、そうだな。髪の毛切ったりとかも必要だし」
「そうね。街の人達のところへ連れて行って恥ずかしくないようにしないとね」
二人の表情は明るく弾んでいた。朝のケンカが嘘のようである。
「それじゃ、一緒に準備しようか」
「えぇ、一緒にね」
二人はそっと並んで腰掛けながら語らい合う。ラフマニが床についていた左手にローラは自らの右手を重ねたのだ。
ローラのその右手のぬくもりに導かれるように、ラフマニはある事を思い出していた。
「なぁ」
「なに?」
「今日、李さんに言われたんだけどよ」
「うん」
ラフマニの言葉に不思議そうに問い返す。傍らのラフマニに視線を向け、その顔をじっと見つめる。
その視線を見つめ返すようにラフマニはローラにこう告げたのだ。
「俺たち〝若夫婦〟みたいだってさ」
若夫婦――、その聞き慣れない言葉をわからぬローラではない。周りがローラとラフマニをどう見ているのか? あらためてう突きつけられたような思いだ。
「ちょっ――なに言ってるのよ」
ローラの顔がみるみる間に赤くなる。そしてその体をラフマニの左肩に預け、顔をラフマニの肩に埋めてしまった。
「やだもう――何を言うのよ」
少女らしい恥じらいを見せるローラの頭をそっとなでてやる。
「嫌なのか? そう言われて」
「嫌じゃ――、ないけど」
「けど?」
「嬉しいよ、いちおう」
「いちおうかよ」
恥ずかしさのあまりにまとまりのない言葉を漏らしたローラにラフマニは笑いかける。
「仕方ないさ。ちびども育てて養って――その役目を俺たち二人がやってれば、年甲斐もなくそう見えちまうさ」
「じゃ、ラフマニがおとうさんで――」
「ローラがおかあさんだな」
それは事実だった。
たとえ、仮初の存在だったとしても事実だったのだ。
赤らめた顔をローラはあげるとラフマニを見つめて、たとえの話をする。
「じゃさ、ジーナとアンジェリカは?」
「やさしい年上のお姉さんかな」
「オジーは?」
そう問われて一瞬、ラフマニは答えに窮する。そして思わずこう口走ったのだ。
「い、居候?」
「そ、それ――失礼だと思う」
ローラが肩を震わせ笑っている。
「せめて、頼りになるお兄さんくらいには言おうよ」
「本人に聞かれたら怒られるな、これ」
「うん、わかってる内緒ね」
月明かりの下、二人は静かに笑い合っていた。そして、お互いの中の気まずさはいつの間にかどこかへと消えていったのである。
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