第243話雲之介の隠居

 五年後に死ぬと告げられても、僕は受け入れられなかったのだろう。現実味がないというか、本当に死ぬのか疑問に思えたのだ。

 でも時々、血痰を吐いたりすると、僕は病に冒されているのだなと感じる。

 だからこそ、この段階で秀吉に告げられたことは幸運だと思った。

 死への恐怖で取り乱した僕なんて、きっと見たくないだろうから――


「とにかく、安静第一です」


 主治医となった玄朔が僕に言い聞かせる。死にゆく者への対応に慣れているのだろう。下手に同情などせず、無感情に淡々と説明してくれた。


「良好になることはありますが、決して快復などしません。徐々に身体の自由が無くなっていきます」


 玄朔の言っていることは恐ろしかった。不自由となっていくことが、自分の時間が無くなっていくことが、とても怖かった。

 玄朔は医者として必要なことを言った後、一度だけ感情的になった。

 自分の腕が及ばないことを悔やむような一言だった。


「医術であなたは癒せない――蝕まれるのは身体だけじゃないから」


 僕は馬では無く、輿に乗って丹波国に帰ることにした。まだ馬に乗れるけど、今後に慣れるために輿での移動を用いた。

 馬と違う揺れ方に初めは戸惑ったけど、少ししたら慣れてきた。この歳になって気づいたけど、僕は順応性が高いのかもしれない。


 揺られながら、僕は大坂城での出来事を思い出していた。

 秀吉はあまりの衝撃で話すことができなくなり、その場を去ってしまった。僕以上に僕の死を認めたくないようだった。

 正勝の兄さんとは話すことができた。正勝は酒を、僕は水を飲みながら語り合った。


「そうか。兄弟、お前死ぬのか」

「ああ。実感が湧かないけどね」


 正勝は「残念だな」とだけ言った。

 それ以外にいろいろ思うところはあるだろうけど、口にしなかった。

 その代わり、思い出話をした。墨俣から志乃のこと、半兵衛さんのこと、大返しのこと。

 話題がたくさん出てきて尽きなかった。


「今度、長宗我部家と戦をするらしい」

「へえ。そうなんだ」

「おそらく、四国のどこかをせがれの領地としてもらえそうだ」


 僕は「おめでとう。これで蜂須賀家も大名だな」と笑った。


「まあな。しかしこの歳になると嬉しくも何ともねえな。せがれが上手くやってくれるかどうかが心配だ」

「親の悩みだね。僕だって同じだ」

「お前に後見人を頼みたかったけどな」


 ぼそりと呟く正勝に「僕のほうこそ頼みたかったよ」と返した。


「だけどさ。子には子なりの考えがあるんだ。後のことは子に任せよう」

「そうだな。いい加減子離れしないといけねえな」


 そう言って正勝は杯を掲げて。

 僕はそれに合わした。


「ごほごほ。咳止めの薬って無いのかな……」


 輿の中で咳をする。寂寥感に包まれる。

 そうしながら、僕は丹波国に帰ってきた。


「殿。お帰りなさいませ」


 丹波亀山城で出迎えてくれたのは、島だった。

 僕が倒れたことを知っているはずだった。だけどそんなことをおくびにも出さなかった。


「半刻後に家臣一同、評定の間に集めてくれ」

「……承知しました」


 何故とは聞かなかった。

 ただ悔しそうに唇を噛み締めた。

 自分の足で歩く。

 はると雹が居る部屋へ歩く。


「お前さま。お帰りなさいませ」


 はるが笑顔で出迎えてくれた。


「ちちうえ。おかえりなさい」


 雹も嬉しそうに笑った。


「ああ、ただいま」


 僕は微笑んだ。

 はるは不思議そうな顔をした。


「どうかしたかい?」

「あ、いや、お前さま、またどこかへ行くのですか?」


 はるが戸惑った顔で問う。


「……どうしてそう思う?」

「お前さまが遠くのほうへ出かけるような、そんな雰囲気があって……」


 夫婦だからかな。そんな勘は鋭いんだね。


「はる。雹。大事な話がある」


 僕の言葉にはるは居ずまいを正した。

 雹も分からないなりに母の真似をした。


「僕は、五年後に死ぬ」


 はるはとても信じられないという顔をした。

 雹は僕が言っていることを理解できていないらしい。


「……冗談では、ないみたいだな」

「ああ。名医の曲直瀬道三の見立てだ。労咳らしい」

「倒れたとは聞いた……でも、まさか……」


 はるは何も言えなくなってしまった。

 僕は「ごめんな」と言う。


「家臣たちにも言わないといけない。また後で話そう」

「……分かった」


 僕は部屋を出て襖を閉めた。


「ははうえ。どうしてなくの?」


 雹の声だけが聞こえた。

 いたたまれなくなって、足早に去った。




「僕は病に冒されている。五年後に死ぬだろう。だから今日より家督を秀晴に譲る」


 集まった家臣にそう告げるとどよめきが起こった。

 雪隆くんも島も大久保も、玄以も長束も、弥助も忠勝も――動揺していた。

 押し黙る者、感情を露わにする者、信じようとしない者。

 反応は様々だった。

 秀晴は僕のほうを見てから、家臣たちに言う。


「俺が跡を継ぐ。異存はないな」


 家臣たちの声はぴたりと止んだ。


「では、丹波国の大名はこれより秀晴とする。皆、秀晴の言うことをよく聞くように」


 家臣たちは頭を下げた。


「それから、僕が死んでも殉死するな」


 それに反応したのは、島だった。

 軽く笑いつつ「島。君ならそうするだろうと思っていた」と言う。


「島。秀晴のことを頼むよ」

「……殿。俺はあなたに――」

「これは命令だ。分かってくれ」


 僕は立ち上がって「皆の者。今までご苦労だった」と言う。


「そしてこれからも秀晴が苦労をかける。どうか支えてやってくれ」


 僕のその言葉で泣く者が出てきた。

 驚くことに、あの雪隆くんが真っ先に泣いてしまった。


「雪隆くん。泣くなよ。もうすぐ、婚姻するんだろう?」

「……泣かせてください、雲之介さん。それしか、俺はできない」


 泣きながら雪隆くんは言った。

 僕は困ってしまって、後のことは秀晴に任せて、自室に戻ることにした。


 自室に戻って、小姓も下がらせて。

 一人きりになる。


「久しぶりに、一人になったな」


 いや、まだ一人じゃない。


「なつめ。丈吉。居るんだろう?」


 僕の呼びかけで二人は襖を開けて入ってきた。


「聞いていたな? 僕は五年後に死ぬ」

「ええ。聞いていたわ」

「……はい。聞かせていただきました」


 僕は筆を取って紙に二つの姓を書く。


「なつめ。君の弟は才蔵と言ったね」

「……ええ。そうよ」


 涙が声に混じったのを無視して、僕は「君の子に姓を与える」と紙を掲げながら言う。


「これは僕の孫から取った。『霧隠(きりがくれ)』だ。今日から霧隠才蔵と名乗らせなさい」

「……それって、つまり」

「ああ。武士として雨竜家に仕えてくれ」


 驚くなつめをほっといて「丈吉。君の息子は佐助と言ったね」と確認する。


「これは長政が過去に名乗っていた姓だ。『猿飛(さるとび)』という。今日から猿飛佐助と名乗りなさい」

「……よく息子の名前を知っていましたね」

「初めて会ったとき、牢屋で言ったじゃないか」


 丈吉は目を細めて「素晴らしい記憶力ですね」と言う。


「もちろん、士分として取り立てる。俸禄もきちんと出す」

「……どうして、そこまでしてくださるのですか?」


 丈吉の問いに「僕にも分からない」と答えた。


「なんだろうな。先がないと分かるとそうしたくなったんだ。ああ、秀晴には言っておくから」

「ありがとう、雲之介」


 なつめは素直に礼を言った。


「……あなたに仕えて、本当に良かった」


 丈吉は深く平伏した。


「あ、そうそう。しばらく僕を一人きりにしてほしい」

「……どうして?」

「一人になりたいんだ」


 なつめは怪訝そうにしながらも「他の忍びも下がらせるわ」と言う。


「半刻したら元の配置に戻らせる。それでいい?」

「ああ、それでいい」


 なつめと丈吉はその返事を聞いて、素早くこの場から去っていった。

 静かになった空間。

 僕しかいない部屋。


「う、うう、うううう……」


 これで、ようやく、一人で嘆くことができる。


「くそ、なんで、僕が、こんな早く……」


 受け入れられなかった気持ちが、皆に告げ終わった後、ようやく認められた。

 それが、怒りに転化する。


「死にたくない。もっと生きたかったのに……!」


 目から流れ出すのは、涙だった。

 当たり前だ、死ぬって分かったんだから。


「ちくしょう……」


 誰に怒ればいいのか、分からなかった。

 やり場のない怒りに支配された半刻を過ごした。

 その間に血痰を何度も吐いた。

 吐いても、一人きりだった。

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