第210話山崎の戦い

 およそ八千の軍勢を乗せた船は流れに逆らって、川上へと進んでいく。

 このままの速度で行くと、夕刻を過ぎた頃になると九鬼殿は言う。

 僕は甲板の上でなつめと一緒に辺りの風景を眺めていた。


 何を話すことなく、僕たちは共に居た。

 何かを話せば、居心地の良い空気が壊れてしまいそうだったから。


 そういえば、僕は上様が死んだとき、悲しんでいなかったと思い出す。

 秀吉のように怒りを示すこともなければ。

 長政のように取り乱したこともなかった。


 それどころか、官兵衛のように次に一手を考えていた。秀吉が自害するのを止めて、上様の遺志を継ぐように説得した。

 まるで己の保身のように思える行ないだった。


 僕は本当に上様が死んで悲しいのだろうか?


 僕にとって上様は名付け親だ。

 雲之介という名前を与えてくださった。

 生きる術を示してくれた。

 武士として生きても良いと認めてくれた。

 よくよく考えると――いや考えなくてもか――大恩人だ。

 そして僕は御恩に対して奉公で返さないといけない。

 何故なら、僕は武士だから。

 上様が僕を武士にしてくれたから。


 しかし上様から受けた仕打ちもある。

 脅されたり斬られたり、足蹴にされたこともある。

 でもそれを恨んだりしたことはなかった。

 上様は僕に暴力を振るったとき、いつだって悲しそうだった。

 まるで自分が痛い思いをしているようだった。


 ということは、僕は上様に何のわだかまりを持っていないことになる。

 だとするのならば、悲しむのは筋ではないか?

 主君の主君、そして大恩人である上様が亡くなって、僕はどうして悲しまないんだろう。

 冷静に次の物事を考えられるのだろうか。

 心が無いのだろうか?


 考えれば考えるほど、自分が周囲に言われるほど、優しい人間とは思えなかった。

 それどころか、冷たい人間だと思ってしまう。

 何とも滑稽な話だ。上様が死んだ非常事態になって自分の本性が分かってしまうとは――


「ねえ。雲之介。何を考えてるの?」


 不意になつめが僕に問う。

 僕は「上様のことを考えていた」と隣の彼女を見ずに答えた。

 ずっと川の流れを見ていたから。


「上様のこと?」

「ああ。どうしてか、泣けないんだ」


 自身の思いを吐露する。まるで志乃やはるに話すように。


「悲しいはずなのに、涙が出てこない」

「…………」

「上様が死んだと知らされてから今まで、ずっと」


 なつめは何か言いたそうだったけど、無視して続けた。


「恩人なのに、尊敬しているのに、思い出もたくさんあるのに、どうしても泣けないんだ。泣いたほうが楽になれると思うのに、どうしても涙が出ない」


 ほとんど独り言のように喋る。


「どうしてだろうね。僕は上様が死んで悲しいはずなのに」

「それは――あなたの中で受け入れてないからよ」


 なつめはあっさりと答えを示す。

 まるで分かりきっているように。


「私も、伊賀を焼き討ちされたとき、実感が湧かなかった」

「…………」

「まだ恨みは残っているわ。同時にあなたの配慮に感謝している。でもね、全てが終わった伊賀を見たとき、最初に感じたのは――あなたの言う悲しみだった」


 横を向く――なつめは無理矢理笑顔になっていた。


「思い出の中の伊賀の里が壊れていて、それが目の前にあって。とても胸が張り裂けそうだった」

「……ごめん」

「謝らないでよ。そんなつもりで言ったわけじゃないから」


 なつめは「だから悲しみを受け入れないと涙が流せないのよ」と言う。


「誰だって恩人が死んだら悲しいわよ。でもね、思い出が大きければ大きいほど、受け入れるのは大変なのよ」

「……そういうものなのか?」

「ましてや手紙で知らされたんでしょう? 実際の遺体も見ていない――噂だと本能寺で焼けてしまったと聞くわ。だから実感が湧かないのは当然よ」


 なつめの言葉がすっと染み渡っていく。


「むしろあなたは優しいわよ。悲しめないことを真剣に悩むなんて。普通は気づかないか無視するわよ。何せこんな状況なんだから」

「やめてくれよ。僕は――」

「自分がどう思おうと、他人が決めることなのよ。ふふ、その歳で知らなかったの?」


 からかわれていることは分かるけど、まあ僕もいい歳になっている。

 甘んじて受け入れるようにしよう。


 励まされたおかげで、少しだけ元気が出た気がする。

 ありがとう、なつめ。




「旗印はお前の家紋を使う。時間はたっぷりあったからな。既に準備はできているぜ」


 山崎の付近に着き、上陸の準備をしていると、主だった将が甲板にやってきた。

 そして孫市が真面目ぶった顔でそう言ったのだ。


「いいのか? 雑賀衆の旗のほうが明智勢は恐れると思うが」

「……お前には欲がないのか? 手柄を立てる好機だぜ?」


 傍に居た島も「鈴木殿の言うとおりだ」と進言した。


「それにこちらが明確に味方だと分かったほうがいい」

「……そうだね。そうしよう」


 孫市は嬉しそうに「馬も用意したからよ」と僕の背中を叩く。


「大将の姿を見せてくれや。それでこそ、恩返しが完了するんだからよ」

「命を助けてくれただけでも、十分恩返しになったと思うけどな」


 孫市は「これで貸し借りなしだぜ?」とにやっと笑った。


「雲之介さん。皆に一言言ってくれ。士気があがるようなことを」


 雪隆くんが突然、そんなことを言った。


「そうだな。殿が大将なんだ。ここは言わねばならんな」

「おう。皆、よく聞いておけよ!」


 どんと前に押される。主だった将や組頭が僕に注目する。

 本当は、こういうの苦手なんだが……

 それに何を話せばいいのか、分からない。


 こういうとき、秀吉だったら上手く言えるだろう。

 上様だって兵を鼓舞する言葉がすらすら出る。

 ……違う。僕は秀吉でも上様でもない。

 それにこういうときは、自分の言葉で伝えなければいけないんだ。

 そうでないと――人の心は動かせない。


 とりあえず、僕は空を見上げた。

 真っ青で雲がまばらな、透き通るような夕暮れだった。

 皆もつられて上を見る。

 僕は――話し出す。


「夕陽が落ちていく。人々を照らした太陽が消えていく――上様が亡くなったように。しかし夜のままで居ることはない。時間が経てば、いずれまた日が昇る」


 誰も何も言わない。


「しかし明智を討たねば、新しい日輪が昇ることはない。親兄弟が殺しあうような戦国乱世は続くことになる。明智には太平の世へと導く器量がない。何故なら、主君に逆らった者が栄光を掴むことはないからだ」


 淡々と言葉を紡ぐ。


「僕たちはこの戦を勝たねばならない。新しい日輪を昇らせるために。明けない夜がないと証明するために。太平の世へと導くために」


 静まり返る甲板。


「僕は皆に約束する。この戦に勝てば、皆英雄になれると。新しき日輪を生み出した軍勢として後世に名を残せると。もちろん、八千の兵や九鬼水軍には多大な報酬が与えられる」


 目の前の兵を一人一人見る。


「僕たちは今、歴史を創ろうとしている。後世まで語り継がれる歴史だ――皆は英雄になりたくないか!?」


 全員が声を揃えて「応!」と答えた。


「ならば逆賊明智を討とう! 僕たちは、太平の世のために、明智を倒す!」


 兵たちは思い思い喚いた。士気は高まっているようだ。


「行くぞ! 旗を立てよ!」


 兵が担ぐは、隅立雷――

 そして僕たちは、山崎の地に降り立った。




 戦場の名もなき平原。

 秀吉と明智の軍勢がぶつかっていた。


 明智は天王山を奪おうとしている。確かに天王山を奪えば山と淀川で挟まれている味方は包囲されてしまうだろう。しかしおそらく官兵衛の作戦だろう。山近くで敵を防いで川沿いから別働隊が後ろに回りこんで逆に包囲しようとしている。

 しかし、同数の軍勢なのか、どうしても別働隊が包囲しきれない。山への攻撃が酷くなっている――


「手柄を立てる好機だな」


 孫市が笑っている。


「ああ。全軍、明智の後方に回れ!」


 雑賀衆の神速を以って、一気に明智の後ろに回る。

 組頭の指示で後ろから――鉄砲で釣瓶撃ちする。

 雪隆くんと島も攻撃に加わっている。

 これで明智は、おしまいだ……


「……本当に、明智は馬鹿だよ」


 馬上の僕の呟きに、同じく馬上の孫市が「どうしたんだ?」と訊ねる。


「上様は桶狭間の戦い以外、常に相手より多くの兵で戦っていた。そして地の利も素早く自分の陣地とした……明智は、上様に近しい人なのに、どうして……」


 急に虚しさを覚えた。同時に上様のことを思い出す。


『決めた。貴様は今日から雲之介だ』


 満足そうに言った上様の顔が――脳裏に浮かぶ。


「……雲之介」

「なんだ?」

「涙、拭けよ」


 頬を触ると――涙が流れていた。


「大将がみっともないぜ」

「……そうだな。ごめん」


 僕は明智の兵が逃走する中、一人想う。

 ああ、ようやく、受け入れられて泣けたんだ。

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