第十七章 後妻

第127話家族の絆

 長浜城に戻ると、ねねさまに頬を叩かれた。

 城門に入ってすぐのことだった。僕の姿を見るなり、ねねさまは駆け出して、思いっきり殴ったのだ。

 そして肩を怒らせて、息を切らしながら、全ての感情を込めた目で、僕を非難する。


「どうして、今まで帰ってこなかったのですか!?」


 周りの侍女たちはおろおろしている。

 付き添っていた雪隆くんと島、そしてなつめも驚きのあまり動けなかった。

 ねねさまに晴太郎とかすみの面倒を見てもらった。何か問題があったのだろうか?


「何があったのですか?」

「何がなんて……! あなたを責めても仕方がないと思いますが、それでも……!」


 怒りのあまり、何も言えないようだった。顔を背けてしばらく黙った。


「ねね。雲之介は悪くないだろう」


 静かな声。だけど威厳を多大に込めた声だった。

 秀吉が厳しい顔つきで僕たちを見ていた。


「お前さま……しかし……」

「事情は分からんが、晴太郎が苦しみの原因は雲之介にはない。長年一緒に居たわしには分かるよ」


 ねねさまは「分かっているのです……」とその場で泣き崩れてしまう。


「何が、あったんだ? 晴太郎に……」

「雲之介、すぐに行け」


 秀吉はねねさまの背中を抱きかかえた。慰めるように強く抱いている。


「晴太郎が――倒れた。もう三日もろくに食事を摂っておらん」




 晴太郎の様子を見たとき――心の傷が深いことを思い知らされる。

 焦点の定まっていない視線。だらしなく開かれた口。まるで人形のような晴太郎が布団に寝かされている。

 その隣で、かすみが座っている。

 晴太郎の手を握って、壊れてしまった兄を見続けている。

 僕も家臣たちも言葉が無い……だけど、何かをいわないと。


「晴太郎、かすみ……」


 僕の呟きにかすみは過敏に反応した。


「……とうさま」

「晴太郎は、起きているのか?」


 馬鹿なことを馬鹿みたいに訊ねてしまう。かすみは僕から目線を外して、晴太郎を見る。


「にいには、ねると、うなされるの」

「…………」

「かあさまのことでうなされるの」


 僕は部屋に上がって、晴太郎の顔を覗きこむ。

 正気を保っていないようだった。


「ねえ。にいにはどうなるの?」


 かすみは気丈だった。泣いたりしない。厳しい目で僕を見る。


「どうして、こうなっちゃったの?」

「…………」

「ねえ! こたえてよ! とうさま!」


 僕は晴太郎を抱きしめた。

 優しく、抱きしめる。


「ごめんなあ。本当にごめん。こんなになるまで、ほっといて……」


 涙が溢れ出して、ぽろぽろと流れ落ちる。

 晴太郎がこんなに苦しむのは当然だな。

 だけど、僕はどんな風に慰めればいいんだ?


「……とうさま」


 晴太郎の声。僕はパッと離れて晴太郎の顔を見た。

 小刻みに震える。凍えているように、震えている。


「……みすてないで」


 泣きながら繰り返し呟く。


「みすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないでみすてないで――」


 晴太郎は優しい子だ。かすみのことも大事にする。僕や志乃のことを好いてくれる。そんな良い子が――母殺しという重荷を背負えるなんてできやしないんだ。


「大丈夫。見捨てたりしない」


 僕は晴太郎を抱きしめるしかできなかった。

 なんと言えば良いのか、見当もつかなかった。

 だってそうだろう? 志乃の死を僕が知ったと知れば、ますます気に病むに決まっている。

 それに晴太郎が悪くない。志乃を殺したのはあの悪僧なのだから。

 でも幼い晴太郎がそんな理屈を納得できるか?

 大人でも納得できない、難しい感情を飲み込めるか?

 そして自分が手にかけたと思い込んでいる晴太郎に、僕は何をしてあげられる?

 答えは――愛することだった。

 晴太郎のことを愛してあげるしか僕はできない。

 志乃が居たときと同じように、愛するしかないんだ。


「晴太郎、かすみ。よく聞いておくれ」


 僕はかすみも一緒に抱いた。

 二人を抱きしめながら、優しい声で言う。


「僕は二人を愛している。どんなことがあっても、愛し続ける」


 嘘偽りのない本心だった。子どもを愛するのは親として当然だと思う。

 僕は親の愛を知らない。

 そんな僕だけど、愛し続けることはできる。

 それしかできないけど――


「ごめんなさい……とうさま……」


 晴太郎がようやく分かってくれた。


「…………」


 かすみは黙って、僕を抱きしめ返す。

 心の傷は塞がらない。

 それでも、いつか何かで満たしてほしい。

 たとえば、愛とか夢とか希望とか。

 そういう綺麗なもので満たしてほしいんだ。




「晴太郎は――立ち直ると思う」


 屋敷に戻って、晴太郎とかすみを布団に寝かせて。

 雪隆くんは僕にそう言ってくれた。


「すぐには難しいんじゃないか?」


 島は厳しいことを敢えて言ってくれた。


「何にしても、私たちは見守るしかないわ」


 なつめはいつになく真剣だった。


「まあな。しかし、母親の死を間近に見ただけで、あそこまで……」

「それぐらい繊細だってことでしょ?」


 島となつめは晴太郎が志乃を殺したことを知らない。雪隆くんもだ。

 教えるつもりはない。一生秘密にする。


「これからどうする? 主命は下っていないのだろう?」

「ああ、そうだね。そういえば言ってなかったけど」


 僕は家臣一同に告げる。


「上様の縁者から、嫁をもらうことになった」


 その報告に雪隆くんも島もなつめも開いた口が塞がらなかった。


「ど、どういうことだ? つまり……織田家一門になるのか? 殿が?」


 島の言葉に僕は頷いた。


「ああそうだ。一門衆になる」

「陪臣なんだろう? 羽柴殿は何か言わないのか?」

「秀吉も承知の上だよ」


 なんだか気恥ずかしくなって、こほんと咳払いする。


「それと家臣一同に言っておくことがある」

「なんだ雲之介さん?」


 雪隆くんは返事をしてから姿勢を整える。

 島もなつめも同じようにした。


「織田家から嫁が来るんだけど、その際、志乃と同じように扱ってほしいんだ」

「……意味が分からないが」

「島。相手が上様の縁者とはいえ、へりくだる必要はない。逆に侮ったりしてはいけない。僕の妻として扱ってほしいということだ」


 なつめは「まあいいけど」と素っ気無く言った。


「どうしても志乃さんと比べてしまうけどね」

「あまりそういうのは顔に出さないであげてくれ。忍びなんだから得意だろう?」

「……雲之介さんは優しいな」


 雪隆くんは苦笑いをした。


「早く後妻が馴染むようにと前もって言うのだから。気を回しすぎだ」

「自分でもそう思うよ」


 僕はさっと立ち上がってみんなに言う。


「堅苦しい話はおしまいだ。改めて比叡山攻めご苦労だった。秀吉から知行が増えると言われた。みんなにも褒美が出るだろう」

「おお。それはありがたい」


 島がにっこりと笑った。


「ささやかだけど宴をしたい。摂津の伊丹から美味しい酒を貰ってきた」

「酒か。飯のほうがいいな」

「雪隆くんは吞むより食い気だな。美味しい肴も用意しているよ」


 宴は夜が明けるまで続いた。五升あった酒はほとんど呑みつくされてしまい、僕以外の三人は二日酔いになってしまった。




 みんなが寝静まった頃。

 朝日を見ながら、酒を呑んでいると「とうさま、おさけくさい」とかすみが寄ってきた。


「なんだ。もう起きたのか?」

「うん……あのね、とうさま」


 かすみがもじもじしている。


「おしっこか?」

「ううん。とうさま、ありがとう」


 何故かお礼を言うかすみ。


「どうしたんだ、いきなり」

「にいにのこと、せめないでくれて」


 僕は何も言わず、盃を飲み干した。


「にいに、かあさまをまもれなかったって、ないてた」

「……ああ。そうだね」

「でも、なにか、かくしてる」


 顔に出さないように「そうか」とだけ言う。


「とうさま。にいにのひみつ、しってる?」

「…………」

「……やっぱりなんでもない」


 かすみが向こうに行こうとする。僕はかすみの頭を撫でてやった。


「かすみは良い子だな。本当に良い子だ」

「とうさま。いたい」

「……晴太郎のこと、信じてやってくれ」


 僕はかすみに言う。

 父親として、真っ直ぐに言う。


「晴太郎が、いつか話したとき、決して嫌いにならないであげてくれ」

「……うん。わたし、にいにだいすき」


 僕は「ああ、それでいい」と呟く。

 問題の先送りでもいいじゃないか。

 今だけは、家族で居させてくれ。

 この世に神仏がいるならば。

 そのぐらい、目を瞑ってくれよ。

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