第119話ありがとう

 施薬院に着く。燃やされていない。でも、ところどころ壊されていて、特に門が破壊されていた。

 おそらく、無理に押し入ったのだろう。

 中に入ると、患者たちが泣いてたり、悔しがっていたり、そして僕を哀れむ目で見ていた。

 道三さんと玄朔が居た。二人とも僕の顔を見て、ハッとする。それまで顔を伏せていたのに。

 まるで、何かを悼むように、顔を伏せていたのに。


「志乃は、晴太郎は、どこに居る?」


 僕は二人に訊ねた。玄朔が唾を飲み込みながら「晴太郎くんは、無事です」とだけ言った。

 晴太郎は……?


「奥の部屋で寝ています……」

「志乃はどこに居る?」

「それは……」


 僕は玄朔の着物を掴んで無理矢理立たせた。乱暴な行ないだけど、玄朔は文句一つ言わない。


「どこに居るんだ?」

「…………」


 答えなかったので、玄朔の頬を思いっきり殴る。

 倒れこんだ彼は、それでも何も言わなかった。


「志乃は、どこに居るんだ?」


 玄朔を再び立たせて問うと「右奥の寝室に寝かせているよ」と道三さんが言う。

 厳しい目つきで僕を見つめていた。


「そうか。じゃあ二人ともついて来てくれ。診てやってほしい」


 玄朔を乱暴に放して、僕は真っ先に志乃が寝ているところに行く。

 志乃は身篭っているんだ。

 僧兵に襲われて、きっと怖い思いをしたんだろう。

 母子ともに大丈夫だと良いけど。


 寝室を開けた。


 志乃は布団に寝かされていた。


 真っ青な顔で、死に装束だった。




「嘘でしょ……」


 後ろで半兵衛さんの声がする。

 振り返ると秀長さんたちが居た。

 正勝も半兵衛さんも長政も居た。


 全員、分かっていた。

 僕も、分かっていた。


「ねえ。曲直瀬道三でしょ、あなた。知っているわよ。医聖って呼ばれてる名医でしょ」

「半兵衛、よさないか」


 半兵衛さんが道三さんに詰め寄った。

 それを正勝が止める。


「ねえ治してよ。すぐに、いますぐに!」

「……無理だ。いくらわしでも、死人は――」

「ふざけないでよ! 良いから治しなさいよ!」


 半兵衛さんが道三さんの首元を掴む。


「やめろって言ってんだろ! 半兵衛!」


 正勝が、半兵衛さんを、道三さんから引き剥がした。


「死人を治すなんて、できっこねえ!」


 死人、死人か……


「雲之介ちゃんから、志乃ちゃんを奪わないであげて! お願いだから、生き返らせてあげてよ! 後生だから……」


 泣き崩れる半兵衛さんを長政が支える。

 秀長さんも泣いていた。手で顔を覆って、泣いていた。


「しばらく、志乃と二人きりにしてくれ」


 自分でも恐ろしいほど、かすれた声だった。

 全員、何かを言おうとして、何も言わずに、黙って下がった。


 襖を閉めて、志乃を見る。

 どこか、覚悟しているような顔。

 だけど、少しだけ苦しみも混じっている。


『あなたは――悪くないわ』


 いつか、初めて人を殺したとき、慰めてくれた言葉。

 何故だろう。志乃が遠くに感じる。


 そっと頬を撫でる。冷たくなっている。


『当たり前よ! 心から、あなたを愛しているわ!』


 そう言ってくれた志乃。

 僕が愛した、妻。


 それが遠くに遠くに感じる。


「志乃。いつだったか、言ってくれたね。太平の世になったら、百姓になって、静かに暮らそうって」


 志乃は答えない。


「悪くないと思ってしまったんだ。穏やかに、何も思い煩うこともなく、暮らせたらどんだけ幸せだろうか」


 志乃は答えない。


「初めて言うけどさ。志乃の髪、好きだったんだ」


 志乃の髪をかき上げる。

 志乃は答えない。


「どうして、こうなっちゃったんだろうね……」


 志乃は答えない。


 志乃は答えない。


 志乃は――答えない。




 ようやく、僕は、志乃が死んだことを、認められた。




 襖を開けると、みんなが正座をして待っていた。


「兄弟、それは……」

「……ああ、志乃の髪だ」


 僕は不自然にならない程度に、髪を切った。


「志乃の遺髪、持っていようと思って」

「あ、ああ……そうだな……」


 何か言いたげな正勝だったけど、何も言わなかった。


「それで、晴太郎はどこに居る? 無事だって言ってたけど」

「……怪我はありません。でも、心に大きな傷を受けました」


 玄朔が医師として言う。


「大きな傷?」

「……志乃さんが殺されたところを、見てしまったらしいです」


 繊細な晴太郎らしいな。


「……分かった。詳しい話が聞きたい。二人はその場に居たのか?」


 道三さんと玄朔に訊ねると「いえ、居ませんでした」と不在だったと告げられた。


「今、明里が帰ってきました。彼女なら知っています」

「そう。じゃあ聞こうか」


 玄朔がそう言ったので、僕は居間に向かう。


「雲之介……」


 長政が僕と話したいようだった。足を止める。


「なんだい? 長政」

「あまり、無理をするなよ」


 僕は「無理してるって自覚してるよ」と言って――笑った。

 無理に、笑った。


「でもね。そうしないと死にたくなるんだ」




 明里はまるで処刑される直前の囚人のように青ざめていた。

 僕はそんな彼女の前に座る。


「何があったのか。教えてくれるかな」


 明里は泣きながら、涙を零しながら、語り出す。


「そ、僧兵が、押し入って――」

「それで?」

「志乃さんが、皆を守って、前に立って……」

「それで?」

「――殺されました」


 いまいち要領を得なかったけど。

 志乃がみんなのために死んだことは分かった。


「そうか……志乃は、みんなのために、死んだのか」


 みんなのせいで、とは言えなかった。


「そのとき、志乃さんの水晶を僧兵は奪いました」

「ああ、そういえば、なかったね」

「しばらくの間、志乃さんは息がありました」

「志乃の最期の言葉、分かるかな?」


 明里は身体を震わせて、長い時間をかけて、言ってくれた。


「志乃さんは、『ありがとう、雲之介』と……」


 僕は目を閉じて、志乃を思い出す。

 浮かぶのは、笑顔だった。

 太陽のように明るい笑顔だった。


「落ち着いたら、また話してくれ」


 泣き崩れた明里にそう言い残して、僕は立ち上がる。

 この場に居たくなかったから、僕は施薬院を出た。


「おい、どこに行くんだ!」


 正勝が僕の肩を掴む。

 いつの間にか、仲間に囲まれていた。


「ここに居たくない……」

「気持ちは分かるけどよ。晴太郎は……」

「連れて来てくれ。今日は二条城で寝る」


 正勝の肩を握る力が強くなる。


「……分かった。長政殿、晴太郎くんを」


 秀長さんの言葉で、長政が晴太郎を背負ってきてくれた。

 苦悶の表情で魘されている。


「ありがとう。みんな」


 それしか言えなかった。


「一晩寝たら、長浜に帰っていいかな」

「…………」

「かすみに、言わないと」


 ああ、そうだった。

 志乃に言わないと。


 僕も愛してるよ。

 さようなら、志乃。

 今まで、ありがとう。

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