第68話天女の如く

 横山城に着いた僕はさっそく城内の軍議の間に通された。

 そこには秀吉と秀長さん、正勝の兄さんに半兵衛さんが周辺の地図を広げて話し合っていた。


「おお! 雲之介! 久方ぶりだな!」


 陣羽織を着ている秀吉が話を中断して、僕に駆け寄って、両手で僕の肩を掴んだ。


「おぬしが来てくれて助かるぞ! 兵糧の管理が上手くいかなくてな――」

「そうか。僕の役目はないと思っていたけど、案外あるものだね」


 必要とされていることの嬉しさを隠しながら、僕は他の三人に挨拶をした。


「秀長さん、正勝、半兵衛さん。お久しぶりです」

「雲之介ちゃんに会えなくて、物凄く淋しかったわよ」


 戦になるかもしれない状況でも女装をやめない半兵衛さん。少し痩せた気がする。


「おう兄弟。いろいろと成長したみてえじゃねえか」


 具足姿の正勝も僕に近寄って背中を思いっきり叩いた。呼吸が一瞬止まるくらい痛かった。


「とりあえず一休みするかい? 向こうに湯漬けがある」


 同じく具足姿の秀長さんが咳き込む僕にやさしく言ってくれた。


「……いえ。今の状況を説明してもらってから休みます」


 僕の言葉に「じゃあ戦況を説明するわ」と半兵衛さんが地図を桃色の扇子でさし示す。


「率直に言ってかなりの不利ね。湖北十ヶ寺が敵に回って、支城がほとんど落とされて、本拠地の小谷城もほぼ落とされる寸前。こちらは横山城と鎌刃城、そして浅井家の佐和山城に少数の兵しかいない。本来なら大殿ちゃんに頼んで援軍が欲しいところだけど、武田との戦が近い今は無理ね」

「味方と敵の兵力は?」

「味方は織田家だけで三千。敵は二万よ」


 かなり厳しいことは分かる。この状況は簡単に覆らないだろう。


「さっき兵糧のことを言ってたけど、不足しているのか?」

「ええ。篭城したら一ヶ月しかもたないわ」

「一ヶ月ももてば十分じゃないか?」

「馬鹿ね。私が指揮すれば一ヶ月はもつって話よ。並みの武将じゃ十日が限度だわ」


 凄い自信だ。でもそう考えると確かに不足している。

 続けて半兵衛さんは小谷城周辺を扇子でなぞった。


「それでこれからの予定だけど、小谷城が落ちる前に、なんとか一向宗の包囲を壊滅させる必要があるわ。それには佐和山城の協力が要るのよ。向こうには四千の軍が居るはずよ」

「僕たちと合わせると総勢七千……でも城にも最低限残しておかないといけないから、戦えるのは五千かそこらか……」

「一向宗のほとんどは訓練されていない農民よ。五千もあれば十分よ。だから今回の肝は佐和山城から兵をどれだけ借りられるか」


 するとここまで黙って聞いていた正勝が「兵を借りるのは難しいんじゃないか?」と眉をひそめた。


「残り少ない兵を同盟国とはいえ、他家に貸し与えるような奴は居ねえ。俺だったらまず断るな」

「そうよね。でも私の策には必要なのよ」


 眉間に皺をよせる半兵衛さんに秀長さんは「駄目で元々なら、やってみるしかない」と腕組みをした。


「俺も無理だと思うけど、浅井家が滅びそうなときに意地は張らないだろう」

「そうだといいけどね」

「だったら援軍としての参戦は?」


 僕の提案に半兵衛さんは「指揮系統を二つしてもいいけど」と言いおえてから咳払いした。


「予測がつかなくなるし、策通りに動いてくれる保証もないわ」


 どうしてそこまで軍を一つにすることに拘るのだろうか?

 策以外に何か思惑があるのかもしれない。


「あい分かった。ならば話は簡単だ。雲之介、佐和山城に向かうぞ」


 秀吉がぽんと膝を叩いて、僕に告げた。


「説得しに秀吉自ら行くのか?」

「わしとおぬし以外に説得できる者は居らん。半兵衛は高慢で正勝は乱雑。秀長は相手に遠慮するからな」


 端的な人物批評に三人は何も言わず、バツが悪そうに目を逸らしている。


「三人は横山城を守っていろ。わしたちはすぐに向かう」


 言うやいなや、すぐにその場から立ち去ろうとする秀吉。行動力は元々あるほうだけど、ここまで強引だとは思わなかった。


「ま、待ってよ秀吉!」


 廊下を歩く秀吉になんとか追いつく。


「一体どうしたんだ。何を焦っているんだ?」

「……もしも小谷城が落城したら、佐和山城は降伏するかもしれん」


 そんな馬鹿な――とは言えなかった。佐和山城を守っている磯野さんは忠義の士だけど、本拠が落ちてしまえば揺らいでしまうかもしれない。いや磯野さんが頑固として守り続けたとしても、兵たちが動揺して戦えなくなってしまう。


「それに、おぬしの愛しいお市さまをお救いする機会でもあるぞ」

「どういう意味だ? お市さまは佐和山城で守られているはずだ」

「馬鹿なことを申すな。既に夫の長政殿は亡くなっておるのだぞ? 織田家へ帰参させるに決まっておろうが」


 考えていなかったけど、確かにそのとおりだった。

 長政さまが一向宗に討たれた今――浅井家に居る理由はない。

 それに浅井家でも扱いに困るだろう。嫡男の万福丸が居る以上、跡継ぎは解決している。先日茶々を出産したばかりのお市さまに子が宿っているとは考えにくい。

 だから後はお市さまが了承すれば、万事解決なはずだ――


「お断りします」


 思いも寄らないお市さまの言葉に、僕だけではなく秀吉までもが絶句した。


「……理由を聞かせていただけますかな?」

「たとえ夫である長政さまが亡くなったとしても――私は浅井家の人間です。どうかお引取りを」


 お市さまは佐和山城の評定の間で僕たちに告げた。

 周りを見ると残り少ない重臣たちは一様に頷く。


「お市さま……」

「雲之介さん。それにまだ、長政さまが亡くなったとは私は考えていませんよ」


 にっこりと微笑むお市さま。

 怪訝な僕たちに磯野さんが説明を始めた。


「浅井家家臣の遠藤直経をご存知ですな」

「ああ。あの高名な武将ですね。その方が何か?」

「殿の身代わりになって討ち死にしました」


 思わぬ言葉に息を飲んだ。

 あの遠藤さんが……


「殿はもしかすると生きておられるかもしれません。一向宗に部隊を分断されてしまった我らには生死を確かめる術はありませんでしたが、生き残った者たちから証言が得られました」

「僅かでも生きているかぎり、私は信じているのですよ」


 お市さまが磯野さんの後に続いて言う。


「ですから不安はありますが、希望もあるのですよ」


 もしも長政さまが生きていたら、もう既に佐和山城に来ているはずだ。

 だけど、影も形もそれどころか生存の噂すらないのなら――


「分かり申した。されば兵の件は――」

「それもお断りします。我らは織田家の同盟国であって、従属国ではありません。それに殿の子息や奥方さまを守るのも我らの仕事。少ない兵では遂行できぬかもしれません」


 きっぱりとした磯野さんの言葉。それにお市さまのことを引き合いに出されたら何も言えない。

 これ以上説得しても難しそうだな。

 そう思った矢先だった。


「――このままだと浅井家は滅びますぞ」

「……なんだと?」


 秀吉の静かな物言いに磯野さんは素早く反応した。

 重臣たちも何を言い出すんだとばかりに睨みつけてくる。

 僕も内心、何を言い出すんだとはらはらしている。


「お市さまのことは一先ず置いて、兵を預けないと確実に滅びます」

「何を根拠に言えるんだ!」

「我が配下の天才軍師、竹中半兵衛は二万の兵を五千で打ち破ると豪語した。しかしそれはそちらの兵を貸していただくことが前提。それができぬのなら、小谷城が落ちるのを放置する他ありません」

「……必要な犠牲だ」

「何を言うか! 小谷城は北近江の要! ここが落とされたのなら、浅井家は滅んだも同然ではないか!」


 磯野さんは黙ったままだけど、他の重臣たちは目に見えて動揺している。


「磯野殿。ここで兵を貸さぬは浅井家が滅びの道に進むのと一緒。さあ決断してくだされ」


 秀吉の上手いところは上から目線で貸せと言うのではなく、自ら貸すように仕向けるところだ。

 磯野さんは天井を見上げた。


「……磯野殿。私は雲之介さんを信じています」


 口を開いたのは、お市さまだった。


「その雲之介さんが信じている秀吉さんの言葉を、私は信じるつもりです」

「……奥方さま」

「私に遠慮せずに、どうか決断してください」


 磯野さんは「もし奥方さまが亡くなったら、殿に顔向けできませぬ」と呟いた。


「ましてや浅井家に残ると決断してくれた奥方さまを……!」

「私のことは気にしないでください」


 その微笑みは天女のようだった。

 磯野さんは決断する。


「……兵を貸し与える。ただし兵糧と交換だ」

「あい分かった。雲之介、手はずを整えてくれ」


 僕は頷いた。

 そしてお市さまを見る。

 静かに微笑むその姿は美しかった。

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