第39話約束

『雲之介――あなたは本当に優しいのね』


 これは――夢だ。

 あるいは――過去だ。

 お市さまの輿入れ前に休みを貰って、志乃と清洲の町に出かけていたときの――記憶。


『みんなから言われるけどさ。毎回甘い奴って言われているような気分だ』

『確かに間違っていないわ。でも優しい人と甘いだけの人は違うわよ』


 前を歩く志乃は笑って言う。

 志乃の笑顔は好きだ。心が落ち着くから。


『どう違うんだ?』

『甘いだけの人は他人だけじゃなく、自分にも甘いものよ。でも優しい人は違う。他人には優しいけど、自分には優しくないのよ』


 志乃はこっちを見ながら、それっぽいことを話す。


『雲之介。あなたは――自分に厳しすぎるわ。いえ、厳しいというより自分が正しくあろうと思っていないかしら?』

『正しくあろうと? 僕が?』

『そうでなければ――他人の期待を裏切らないように振舞っているのかもね』


 自分が誠実であるべきという義務感を覚えているのか。

 他人から見放されられないように気を配っているのか。

 どちらにしろ――他人の顔色を窺っているのと変わりはない。


『別に批難しているわけじゃないのよ。あなたの事情も分かっているし』

『……記憶がないから、そんな風に振舞っているのかな』


 これは質問ではなく、自問だった。

 それでも志乃は答えてくれた。


『だから――あなたは優しいのよ』


 志乃はにっこりと微笑んだ。

 気がつくと辺りに誰も居なかった。

 盛況な市なのに、誰も居ない。

 夢と過去が乖離し始めた。


『あなたはそれでいいのよ。変わる必要はないわ』

『志乃……』


 志乃は笑っている。

 僕は笑っていない。


『あなたの思うまま生きて。私はあなたについて行く』


 志乃は笑みを絶やさず。

 僕は表情を消していた。


『幸せに――してくれるんでしょう?』


 僕はなんと答えたんだろうか。

 必ず幸せにするって言えたんだろうか。

 それとも――何も言わなかったんだろうか。


 分からない。

 それでも、僕は、夢の中で答えた。

 志乃に対して、僕は言う。


『ああ。約束――』




「おっ。兄弟。目が覚めたか」


 知らない部屋で見知った男の声がした。


「小六の……兄さん」

「大丈夫か? まだ痛むか?」


 その言葉で全身に激痛が走る。


「……痛い」

「そりゃそうだろうな。とりあえず藤吉郎さん呼んでくるから。お前は隣の方と話でもしてろ」


 隣? ゆっくりと小六の反対側に顔を動かす。

 そこには長政さまが、布団の上で横になりながら、僕を見つめていた。

 顔には包帯が巻かれていた。多分、僕も同じだろう。

 目には青痣ができていた。僕が言える義理じゃないが痛そうだった。


「長政、さま……」

「さまなんて止してくれ……とはいかないか。目が覚めて何よりだ」


 気さくに話してくださる長政さま。

 目覚めてからいきなりのことで、何がなんだか分からなかった。


「それじゃ、俺は行くぜ。すぐ戻るからよ」


 小六は説明もせずにその場から去ってしまう。

 残されたのは、僕と長政さまの二人きり。


「あのう……御付の者は?」

「うん? ああ、その者たちは下がらせた」

「……度胸ありますね。小六がその気になったら――」

「ならないよ。彼は。少し話しただけで分かる。義侠心の塊だってことは」


 人を見る目がある。流石一国の主だなと素直に思った。


「それよりもまず、訊くべきことがあるんじゃないか?」

「……それを訊く資格はありませんよ」


 長政さまが言っていることは、多分お市さまのことだろう。

 だけど、それを聞く資格なんて、僕にはない。

 だってそうだろう? お市さまの夫を殴ってしまったんだから。


「……そうか。お市から聞いていたよりも強情な男だな」


 軽く笑って、長政さまは「なら二番目に気になっていることを言おう」と僕に告げた。


「雲之介くん。君はこの件で処罰を受けると思っているだろうが、そんなことはない」

「……僕は切腹だと思っていました」

「馬鹿なことを言うな。こちらが殴ってきたんだ。それに他家の家臣を処罰などできない」


 それはそうだけど――無礼討ちだってできたはずだ。


「少しは安心したか?」

「……いえ、僕のことはどうでも良かったんです」

「どういう意味だ?」

「僕が切腹するのは良くて、連座して藤吉郎に処罰が下るのは……」


 悪いことだと思う。


「木下殿……彼は扇動者の素質があるな。彼によって拙者と君が喧嘩することになったんだ」

「えっ? そうなんですか?」

「ああ。きっかけは婚礼の儀のときだった。お市の顔が曇っていたのが気にかかった。まあ知らない男に嫁ぐのだから、仕方ないと思っていたが、木下殿が真実を明かしてくれたのだ」


 余計なこと――とは思わなかった。

 何故か嬉しい気持ちになった。不謹慎だと思っていても。


「お市にも話を聞いてな。拙者の心に何かが芽生えた。しかし、その何かがなんなのか、分からなかった。初めての感情だ。それを木下殿は当ててみせた」

「それは、なんですか?」


 長政さまは「戸惑いだよ」と短く答えた。


「これから婚約する人に、好いた男が居る。はっきり言って横恋慕する気分だった――いや横恋慕そのものだったな。それにその男は既に別の女と婚約している。戸惑い以外の感情など、生まれなかった」


 だから――僕と戦うことを選んだのか。


「さらに木下殿は言う。それを解決するには殴り合いしかないと。家臣たち、特に直経は反対したが、拙者はそれに乗ることにした」


 そして長政は気まずそうな笑みを見せた。


「まさか負けるとは思わなかったな。直前にお市に言われたんだ。雲之介さんは虫も殺さぬ優しい人だから、もしかしたら一方的に殴られるかもしれないと」

「……僕は、優しくないですよ」


 僕は長政さまの目を見て言う。


「恋敵が目の前に居て、その方に一方的に殴られるだなんて、できるわけがない。そんな根性なしのような真似、できるわけがない。それに僕の言い表せない感情を解きほぐしてくれるかもしれない人の期待を――裏切るなんてできるわけがない」


 僕の言葉を長政さまは黙って聞いてくれた。


「もしも――無抵抗で殴られるのが僕の性格なら、そんなの嫌ですよ」

「そうだな。そうであれば、お市は君に惚れることはなかっただろうな」


 そして長政さまは「お市からの言伝、聞くか?」と訊ねた。

 僕は頷いた。


「お市は『もう会うことはないでしょう』と言った」

「……はい」

「そしてこうも言った。『今までありがとうございました』と」


 それを聞いて、ああもう会うことはないんだなとぼんやり思った。

 そして責めたりしないんだなとも思った。


「雲之介くん。拙者は――」


 長政さまが何か言いかけたとき、後ろの障子が開いた音がした。

 振り返るとそこには烈火のごとく怒っている遠藤直経さんが居た。


「貴様! この――」


 刀を抜いてこっちに迫ってくる直経さん――


「やめろ直経!」


 長政さまが今まで聞いたことがないくらいに厳しい声で止めた。

 動きを止める直経さん。


「し、しかし殿――」

「雲之介くんを殺すことは許さぬ! 刀を納めよ!」


 長政さまの命令を聞くか、それとも僕を殺すか。

 悩んでいる直経さんに、長政さまが冷たく言う。


「拙者に恥をかかすつもりか? 納めよと言っているのが分からないのか!」


 直経さんは僕を睨みながら、主命に従った。

 かちんと音を鳴らして、刀を納めた。


「…………」

「そう不満そうな顔をするな。拙者は満足しているんだ」


 直経さんを諭すように、長政さまは言葉を紡ぐ。


「清々しい喧嘩は初めてだ。礼を言うよ、雲之介くん」


 礼を言われる立場じゃない。そんな資格もない。

 そしてこれから言う言葉は、立場がなく、資格もないことだった。

 だけど――言わざるを得なかった。


「長政さま。お願いがあります」

「うん? なんだ?」


 僕は痛む身体に鞭を打って、長政さまに向かって、土下座をした。


「どうか、お市さまを幸せにしてあげてください」

「…………」

「お願いします」


 沈黙が続いて、長政さまはゆっくりと言った。


「保証は、できない」

「…………」

「拙者は武士だ。大名だ。しかしながら家中をまとめきれていないのが現状だ。今回の婚約も家中から反対の声が多かった。特に父の久政は義兄上の信長殿を酷く嫌っている。お市にとって辛いことが多いかもしれん」


 長政さまは僕の肩に手をかけた。思わず顔を見てしまう。


「だがな。たとえ浅井家が滅んだとしても、お市だけは守る。家中が敵だらけでも拙者だけは味方であり続ける。そして雲之介くんのためにも、お市を幸せにしてみせる」


 凛々しくて男らしい言葉だった。


「それとお願いなんて言葉を使わないでくれ」

「えっ? それは――」

「約束だ。男同士の――約束だ」


 そして長政さまは枕元に置いてある短刀を取る。そして僕にも取るように促した。

 僕たちは胡坐をかいて、刀を少しだけ抜き、すぐに納めた。

 金打――そう言われる、武士同士の儀式。

 男の――約束だった。


「ありがとうございます。長政さま」


 僕は長政さまに向かって言う。


「あなたがお市さまの夫で、本当に良かった」

「……何よりも嬉しい言葉だな」


 微笑み合う僕たち。

 これでようやく、僕の初恋は終わった――


「雲之介! 大変だ!」


 満足感を覚えていると、慌てた様子で藤吉郎が部屋の中に入ってきた。


「おおっと。長政さま、失礼します」

「あ、ああ。何かあったのか?」


 藤吉郎の後ろには小一郎さんと小六が居た。二人とも藤吉郎と同じように汗をかいていた。


「藤吉郎、どうした――」

「雲之介。おぬしは動けるのか?」

「いや、まだ――」

「そうか。我らは先に帰る。おぬしはゆっくりと休んでから戻ってこい」


 なんだろう。ここまで藤吉郎が早口で人の言葉を遮るのは珍しい。


「だから、何があったんだ?」

「大変なことだ。簡単に言うぞ」


 藤吉郎は焦りを隠さずに言う。


「斎藤家が家臣、竹中半兵衛が謀反を起こした」


 竹中半兵衛? 誰だろう。美濃三人衆じゃないし……


「それがどうなるんだ?」

「どうなる? もう既になってしまったわ!」


 藤吉郎の言葉はとてもじゃないけど、信じられなかった。


「難攻不落の稲葉山城が攻め落とされた! しかも僅か十数名の手勢でだ!」

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