第22話武士の名分

「義元さまが……」


 松平さまを始め、陣中の武将たちは茫然自失となってしまった。

 このとき僕は、ああ大殿が勝ったんだなと大声で喜びたい気持ちをグッと抑えるのに必死だった。いくら一万七千の軍が居たとしても、今川は二万五千の兵を擁するのだから、不安がないわけじゃなかった。


「……それで、我らにどうせよと?」


 松平さまは冷静に書状を拾って、懐に仕舞いつつ伝令に問う。


「いえ、指示は出ておりませぬ。松平さまに一刻も早く伝えよと、朝比奈元長さまが……」

「朝比奈さまはご無事か?」

「負傷なさっていましたが、ご無事です」


 松平さまは「分かった。これより撤退する」と早口で言う。


「伝令殿もご苦労であった。他の方々にも伝えるのか?」

「はい。鳴海城の岡部さまにも」

「そうか。織田の兵に気をつけてな」


 伝令は「御免」と一礼して陣から足早に去っていった。


「殿。駿河まで撤退するのですか?」


 数正さまとは違う、別の武将が訊ねた。なまずのような髭を生やしている。目は細い。


「忠次。駿河には行かん。とりあえず岡崎の大樹寺まで退く」

「なるほど。そこで小休止するのですね」


 忠次さまの言葉に松平さまは頷いた。


「では急いで退却の準備せよ! それから――」


 松平さまは僕を指差す。


「おぬしも一緒に来てもらう。よいな?」


 突然のことに驚いたけど、よくよく考えれば僕は主君を討った織田家の人間だから、仕方ないなと思い返した。


「分かりました」

「……やけに素直だな。殺されるとは思わないのか?」


 数正さまが不審そうに訊ねるので「本当に殺すなら今殺すでしょう」と返した。


「後で殺すにしても、急いで退却しなくてはいけないのに、僕を連れて行く必要はありません」

「ぬう……」


 源五郎さまに何となく教えてもらった処世術が役立つとは思わなかった。

 僕の言葉に松平さまは思わず笑ってしまった。


「度胸があるな! わしが人質だったときは怯えていたものだ!」

「はあ……」

「雲之介とやら。おぬしに約束する。決して悪いようにしないとな」


 こうして僕は松平さまと一緒に大樹寺まで行くことになった。

 雨は次第に強さを増していた。




「おお! 松平さま! よくぞご無事で!」

「登誉天室(とうよてんしつ)住職か。おぬしも知っておるのか」


 あれから松平さまは他の配下の武将とも合流し、大樹寺まで行軍した。

 そこで出迎えてくれたのは登誉住職だった。


「しばらく登誉住職とそこの雲之介の三人にしてくれ」

「殿。些か危のうございます」


 そう忠言したのは、合流してきた武将、本多忠勝さんだった。歳は僕とそう変わらない。だけど顔がとても恐くて厳つい。本当に十五かそこらだろうか?


「この者、油断なりませぬ」

「しかしこの者にも事情を聞かねばならん」

「じゃあ僕の刀をあなたが預かってください」


 僕は腰に帯びてた刀を本多さんに渡す。


「それとあなたも一緒に居ればいい」

「馬鹿な! 武士が刀を預けるなど!」

「でもそうしないと、松平さんは困るでしょう?」

「なっ――」


 怒ればいいのか呆れればいいのか判断つかない本多さんに僕は続けて言う。


「それに戦場でほとんど使わない刀に魂なんて宿らないですよ」

「貴様……!」

「よい。忠勝、刀を預かって同席せよ。他の者は待つように」


 その言葉に数正さまと忠次さま、そして他の武将たちは全員従うようだった。

 なんというか、主君の命に従う忠実な家来だ。

 大樹寺の本堂で僕と松平さま、本多さんと登誉住職は話し合うことになった。


「さて。雲之介。おぬし、どうして信長が義元さまを討てたのか、知っているか?」


 単刀直入に訊ねる松平さま。僕は「別に口止めされているわけではないですけど」と前置きしてから言う。


「もしも織田家に不利になるのであれば、そこは避けさせていただきます」

「ま、当然だ。それでも良い。話せ」

「大殿から書状を受け取る前のことです。僕は茶を点てていました――」


 そこから重臣たちの抗議を無視する大殿と短い問答をしたことを伝えた。


「ふむ。それで、信長の秘策とは?」

「具体的な話は聞いていませんが、今川をある場所に誘導することが、作戦だったと思います」

「……桶狭間か」


 爪を噛みながら思案する松平さま。そこに本多さんが「ちょっと待て」と物言いしてきた。


「どうやって誘い込んだ? 海道一の弓取りであらせられる義元公を、死地に誘いこむなど……」

「それは……」


 流石に言ってよいものかどうか悩んだが、それは杞憂に終わった。


「……武田の忍びを使ったらしい」


 答えたのは松平さまだった。


「……どうしてそれを?」

「書状に書いてあった」


 懐から書状を取り出し、僕に中身を見せる。

 そこにはこんなことが書いてあった。


『竹千代。俺は武田と通じ、義元を討つ。その手はずは整えている。お前は三河の岡崎城を獲るがいい。使者は決して殺すな』


 短い書状だった。大殿の名前は書かれていない。

 つまりは密書だった。


「まさか、今川を裏切れと?」


 本多さんはわなわなと震えている。怒っているのだろうか……いや、違う。


「殿! 好機ですぞ! 我らが城を――」

「ならぬ。それはならんぞ忠勝」


 ぴしゃりと跳ね返す松平さま。


「な、何故――」

「岡崎城には城代が入っている。もしもわしが無理にでも入れば、謀反になる。今川の将同士、戦いたくはない」


 なるほど。大義名分が必要となるわけか。


「では、松平さま。いかがなさるおつもりですか?」


 登誉住職の言葉に松平さまは「そうだ。住職。わしは腹を切るべきか?」ととんでもないことを訊ねた。


「殿! 馬鹿なことを!」

「忠勝。だってそうであろう? 主君に殉じて死ぬ。自然な成り行きだ。それに次代の今川家当主はあの氏真さまだ。武田に滅ぼされるがオチよ」


 僕はここでようやく、武田が何故織田家に協力したのか分かった。

 武田は今川を攻めるつもりなんだ。だけど義元が居れば攻められない。しかし次代が暗君ならなんとでもなる。

 でもいずれ東海道を西進するなら、織田家とも……


「そこでだ住職。わしが腹を切らぬような説得をしてくれ」


 松平さまは笑いながら言う。

 これには僕も本多さんも言葉が出なかった。


「わしが生きる名分をくれ。そうでないとわしは腹を切らねばならん」


 なるほど……


「そうですな。厭離穢土、欣求浄土というのはどうでしょう? 浄土教の教えですがな」

「ほう。いかなる教えか?」

「戦国乱世、大名は皆、己の欲望のために戦をしております。だからこそ日の本は穢れています。しかしその穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土を願うのであれば、必ず御仏の加護を得るでしょうな」


 それを聞いた松平さまは「よしそれで行く」と真剣な表情で言う。


「わしはこの言葉を馬印にするぞ。平和な世の中を作るため、わしは戦おう」

「殿、それでは、岡崎城を?」


 松平さまが答えようとしたとき「殿! 失礼いたす!」と数正さまが入ってきた。


「なんだ? 何があった?」

「岡崎城代、山田景隆殿、城を置き捨て駿府城へ退いたのこと!」


 これを聞いた本多さんは「これぞ好機です!」と喚いた。


「今こそ入城しましょうぞ!」

「ああ。しかし名分が足らぬ。誰も居らん城に入る名分はないか?」


 武士は本当に体裁を気にするものだなと少しだけ呆れてしまった。

 数正さまも本多さんも真剣に悩んでいる。


「誰も居ない城なら、松平さまが守ればいいじゃないですか」


 そう思わず、言ってしまった。

 松平さまは爪を噛むのをやめて僕を見た。


「今、なんと言った?」

「えっ? だから誰も居なかったら攻められちゃうし、誰かが守らないといけないじゃないですか」


 そう答えた瞬間、三人の武士が「それだ!」と叫んだ。


「それなら名分も立ちますぞ!」

「おお! それならば今すぐ入城を!」

「よし。今すぐ向かうぞ!」


 松平さまは手に持った書状を燃やすと僕に向かって言う。


「かたじけない。いずれこの恩は返す」


 そして三人は本堂から出て行った。


「……何かとんでもないことを言ってしまったな」

「雲之介さま。今晩は寺にお泊りなさいませ」


 登誉住職が優しく言ってくれた。


「大変なお勤め、ご苦労様にございます」

「え? 大変なお勤め?」

「ええ。このことで織田さまと松平さまは誼を付けられたということになります」


 それっきり、登誉住職は何も教えてくれなかった。

 浅学非才な僕にはどういうことか分からないけど。

 それでもこれで良かったのだと思う。

 今はそう信じたい。

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