血命戦争①『幼馴染はどこ……? ここ……?』
七月の日射が雑居ビルの壁を反射し、路地裏を灰色に照らす。
臭気と熱気が立ち込める不快極まりない空間で、一人の男が息を切らせながら足を引きずっていた。
「ハァ……! ハァ……!」
それは一目見ただけでも分かるような、端正な顔立ちをした青年だった。
だがそれを台無しにするかのように額からは玉のような汗が吹き出し、肌の血色も悪く目は虚ろに淀んでいる。
すぐにでも病院に駆け込むべき状況であるが、向かおうとする様子は一切ない。
まるで人目から逃れようとするかのように、青年はひたすら街の奥へ奥へと進んでいた。
「一体、どうなってしまったんだ……俺の体……!」
そう呟きながら、青年は自らの喉に触れた。
先程から、ずっと喉が渇いて渇いて仕方がない。
いくら水を飲もうとも、まるで砂漠に水を撒くかのように渇きが一向に収まらないのだ。
体の変化はもう一つあった。
それは人の姿をまともに直視できなくなってしまったこと。
視界に入った瞬間、抑えきれない程のドス黒い欲望が心を染め上げようとするのだ。
その欲望とは、人に対する純粋な「食欲」。
人間にとって最大の禁忌を
自分の体に一体、何が起こったというのか。
スマートフォンのインカメラを起動し、自身の顔を見る。
「くそ……! なんなんだよ、これ……!」
そこには赤く輝く瞳と、口からはみ出る程に発達した牙が映し出されていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「オハヨウございます! 八坂さん!」
特徴的な発音の滑り出しをした、軽快な挨拶が響いてきた。
振り向くと、
彼女の名はカトリーヌ=フレイベルガ。早応大学の二年生で、かつ英人と同じマンションに住むご近所さんである。
「ああ、おはよう」
明るい彼女とは対照的に、英人はややテンションが低い様子で挨拶を返した。
特段朝に弱いわけではなく、ただ単に緊急時以外はいつもこんな調子なのだ。
現在時刻は午前8時20分。
二人は共に9時から始まる一限(講義は別々)に向けて、一緒に通学するところだった。
「そういや退院してから今日で一週間か……くどいようだけど、体は大丈夫か?」
「ハイ! 八坂さんの『異能』と、ヒムニス先生の治療のおかげです!」
カトリーヌは両手でガッツポーズをして、体の無事をアピールした。
半袖のワンピースから伸びるその腕は、よく見たら程よい筋肉で引き締まっている。
その辺りはさすが『仮面ウォリアー二号』といったところだろう。
「それは何より。ともかく人間、ケガなく健康なのが一番だ」
「ハイ! デスカラ、私はもういつでも戦えます!
なので一号さんにも、困ったらいつでも呼んでいいと、伝えてください!」
カトリーヌは自信と覚悟に満ちた表情をする。
彼女の言う「一号さん」とは、英人扮する『仮面ウォリアー一号』のこと。
ちなみに英人は一号に協力している『異能者』ということになっている。
「ああ、しっかり伝えとく。
後その一号さんから伝言を一つ……『頼りにしている』、だとさ」
「……! ハイ!」
カトリーヌは元気よく頷いた。
「……ヤハリ、この国は人がたくさんですね」
英人の隣を歩くカトリーヌが、げっそりとした表情を浮かべた。
いま二人は駅構内を抜け、今二人は早応大学名物の桜並木を歩いている所だ。
早応大学もいちおうは首都圏に位置する大学である。その為通勤ラッシュの影響は避けられず、朝はいつもお祭り状態なのだ。
「首都圏に関して言えば、これからもっと増えるらしいからな……。
マジで都心を出て地方に移るのも一つの選択肢かもしれん」
「アト日本の夏、暑すぎです……」
講義はまだ始まってすらいないのに、カトリーヌはもうヘトヘト顔。
北欧出身の彼女からしたら、高温多湿の日本の夏はかなりキツいだろう。
「日本人ですら時々熱中症で死ぬからな、マメに水分補給はしとけよ」
そう言う英人も、額にしっとりと汗をかいていた。
「ア……八坂さん、汗が……」
それに気付いたカトリーヌがバッグからハンカチを取り出し、英人の額を拭った。
「お、おい……」
「ジッとしててください」
身長が高いので、その目線も必然的にほとんど同じ高さに来る。
切れ目気味ではあるが、パッチリと開いた
その距離、およそ20cm。
眼前に迫る彼女の肌は、産毛など生えていないのでないかと錯覚するくらい、透き通っていた。
「……ハイ、終わりました」
カトリーヌはニッコリと笑い、ハンカチをバッグにしまう。
「さ、サンキュー」
英人がチラリと周りを見渡すと、学生たちが皆こちらの方を向いていた。
どうやら注目を集めてしまったらしい。そりゃ北欧美人が有名人(悪い意味で)の汗を拭いてたらこうもなる。
認めたくはないが、英人としても最早見慣れた光景だ。
「……ナンだか、皆さんこちらを見てますね?」
「そ、そうだな」
カトリーヌはキョトンとした顔で周りをキョロキョロ見回す。
まあ汗を拭いただけだから、そう思ってしまうのも無理はないが。
「アレ? あの方……」
周囲を見回している時にふと何かを見つけたのか、カトリーヌが声を上げた。
英人も視線を向けると、そこには一人の少女がいた。
平均よりやや低めの身長の、おっとりとした印象の子だ。
そもそもここは大学なので、少女が何人いても別におかしいことはない。むしろいない方がマズいくらいだ。
しかし、その少女の様子は遠目から見ても変だと分かった。
「あれ~? 私、どこに向かえば~」
何故なら彼女は大学の敷地のド真ん中で、ずっとキョロキョロしていたからだ。
それこそ挙動不審と言えるくらいに。
確かに、入ったばかりの新入生なら大学内で迷うことも多少はあるだろう。
だが今はもう七月、少なくとも講義の場所が分からないなんてことはないはずだ。
「……八坂さん、少し行ってもいいですか?」
その様子を見ながら、カトリーヌは英人に尋ねる。
「ああ、もちろん」
英人はそれにやれやれと軽く頷いて答えた。
彼女の性分なら、必ずそう来ると思っていたのだ。
カトリーヌの表情はパァッと明るくさせ、パタパタ彼女のもとへと駆け寄った。
「シツレイします。何か、お困りですか?」
「あっ、はい!
初めて大学にきたものでして――」
声を掛けられた少女はこちらを見た途端、ギョッと体を硬直させた。
「え、え!? がが外国人さん!?
どどどうしよう……え、えーと、あ、アイきゃんとスピークイングリッしゅ……です!」
そして面白いくらいにテンパりながら、拙い英語を披露した。
ボディランゲージでどうにかしようと考えているのか、よく分からないジェスチャーまで繰り出している。
「落ち着け、いま彼女が喋ったのは日本語だ」
「ハイ。まだ勉強中ですけれど、ある程度は話せます」
ニッコリとした笑顔でカトリーヌは言う。
その言葉に少女は一瞬固まったが、すぐに安心したように大きく息を吐いた。
「……よ、良かった~。すごく焦りました~。
自慢じゃないですが、私英語『2』なんです~!」
確かに自慢にならない。
「それで、彼女の言うように何か困りごとか?」
「ワタシたちでよければ、ぜひ協力させてください」
カトリーヌはにっこりと微笑んだ。
「ええ~っ! ありがとうございます~!
都会って怖い人が多いイメージでしたが、優しい人もいるんですね~。
っと、いけませんいけません、話が逸れるところでした。
まずは自己紹介を。
私は
和香はペコリと頭を下げた。
「カトリーヌ=フレイベルガです。早応大学経済学部の二年生です。
よろしくお願いしますね!」
「俺は八坂英人。同じく早応大学経済学部の二年生だ、よろしく」
「はい! よろしくお願いします!
それで、その困り事なんですけど……実は私、ある人を探しているんです」
和香はそれまでの柔らかい表情から一転、顔に不安の色を滲ませた。
「人探し? それってここの学生か?」
「はい。春からこの大学に入学した人なんですけど、最近連絡が取れなくなって……。
だから心配になって、故郷の秋田からここまで来たんです!」
英人はチラリと彼女の足元を見る。
そこには着替えが入っているであろう大きめのバッグが置いてあった。
どうやら、かなり本腰を入れて探しに来たらしい。
「アキタ……は確か東北ですね」
「はい! きりたんぽが有名なんですよ~。あと比内地鶏も!」
「キリタンポ、とは……?」
「それはですね。お米を木の棒に……」
そのままワイワイと秋田の話題で盛り上がる二人。
カトリーヌもそのクールな見た目に反して、普段は結構おっとり系だからこのままズルズルいくとマズい。
英人は二人を手で制し、会話に無理やり割り込む。
「秋田の話はまた後で。それよりもその連絡取れない人、名前はなんていうんだ?」
「あ、すみません。
言った傍から話を逸らしてしまいました……コホン。
その人の名前は
言い終えると、和香は心配そうに唇をキュッと結ぶ。
どうやら彼女にとって、本当に大事な人の様だ。
一方で英人とカトリーヌは、その名前にすぐピンときた。
「ソレって確か……」
「ああ、この前の合コンに欠席した奴だな。
それに、学年一のイケメンってことで学内じゃちょっとした有名人のはず」
新藤幹也――経済学部の一年生で、その端正な容姿から今年のミスター早応最有力候補とも目されている人物だ。
本来ならば前回の合コンには英人ではなく、この青年が参加するはずだった。
そしてその合コンが行われたのが六月の中旬、つまり最低でも三週間近くは行方をくらましている状態になる。
いくら一人暮らしの大学生といっても、ここまでの期間はさすがに異常だ。
さらにその時期は『
まさか新藤幹也も――
英人の脳裏に、ふと悪い予感がよぎった。
「分かった、早速調べてみよう」
真面目な表情で英人は答える。
あくまで予感は予感。
すぐに見つけて、ただの杞憂でしたと笑って済ませれば、それに越したことはない。
そう英人は心の中を取り
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