第91話 夏なのに 冷たい汗が 止まらない
異世界で 上前はねて 生きていく 最新刊の第3巻が本日11月30日に発売です。
コミカライズ第2巻は12月14日発売でございます。
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俺たち夫婦の寝室のクローゼットに置かれていたクラウニア印の輸送用木箱、その蓋がおよそ二年ぶりに開かれた。
中から出てきたのは官製の紙巻煙草の箱だ。
その開け口を毟り取るように開いたローラさんは手のひらで底をトントン叩き、浮いてきた煙草をぐわっとつかみ取る。
勢い余って三本も掴み取ったそれを、そのまま口に全部咥え、魔法で火をつけた。
火の付いた三本の煙草の先が、灰に変わったと思ってからは早かった。
彼女は驚異的な長さの一吸いであっという間に三本全てを根本まで灰にして、めったに見せない満面の笑みで煙を吐き出した。
三連煙草を指に挟んで満足そうに微笑む彼女はまるでコンパ中の大学生のようだったが、彼女が満足なら俺はそれでいいのだ。
そう、この日……妊娠初期からずうっと続けていたローラさんの禁煙が、双子の卒乳によってようやく解けたのだ。
「禁煙というのも得難い経験だったが、やはり人生には楽しみが多いほうがいい」
「ローラさんはいつから吸ってるんですか?」
「軍に入ってからだから、10年ぐらい前からかな? 周りがほとんど全員吸っていたから、きっかけは覚えてないな」
続けてもう一本煙草を吸い始めたローラさんは懐かしそうにそんなことを語る。
十四歳の頃のローラさんか、全く想像もつかんな。
この人も俺みたいに制服着て、あくびしながら学校に行ってたんだろうか?
「ローラさんは学生の頃ってどうでした?」
「学生というのかどうかはわからないが、当時はうちの実家の城で縁のある貴族の子弟を預かっていてね。その子たちと一緒に実家で教育を受けていたよ」
うわぁ、お姫様みたいだぞ。
いや、この人正真正銘北のお姫様だったっけ。
「まさかお飾りとはいえ、研究者として学校に通うことになるとは思わなかったがね」
彼女はそう言いながら苦笑して、ふうっと煙を吐き出した。
乾いた風が真っ白なその煙を窓から吸い出して、どこかへと吹き抜けて行く。
窓から差し込む日光は日に日に眩しさを増し、上がる気温に汗は流れ、双子泣き叫ぶ。
トルキイバに、今年も暑い暑い夏がやってきたのだった。
シェンカー通りにそびえ立つマンションのうちのひとつ、その屋上にその水田はあった。
種籾から苗を起こし、つい最近田植えを済ませたばかりの小さな田んぼだ。
今日はここの責任者である虎の猫人族のイスカが、久々にやって来た俺を服の袖で汗を拭いながら案内してくれていた。
「最近はどんな感じ?」
「リナリナさんの言ったとおりにやってます……水を切らさないようにして、虫を取って、農家の出の子達にお願いして毎日手入れしてもらってます」
「そうか、最近暑くなってきたから気をつけてな」
「みんな塩飴を舐めてます、あれってご主人様が作ったんですよね……?」
「ああ、昔な」
話しながら、稲や水や土に再生魔法や強化魔法を流していく。
田んぼに植わっている苗の四分の三ほどは俺が種籾の頃から強化魔法をかけつつ手ずから成長させたスーパー苗だからな、多分病気や虫にも強いと思うんだが、どうだろうな。
苗の作り方は前世の小学生の学校の授業でやったことがあったからなんとなくは知っていたが、細かい部分はこの米の出どころの出身で下の兄貴の嫁さんであるリナリナさんに聞いた。
多分日本の稲作とは全然やり方が違うんだろうが、稲作を二千年以上続けてきた国とは積み重ねがまるで違うんだから劣っていても当然だ。
一回で成功させようなんて思っちゃいない、これは俺の趣味なんだからぼちぼちやればいいのだ。
「あの……これってどう食べる作物なんですか?」
「ああ、そういやイスカは食べたことなかったっけ。これはな、水分をなくした麦粥みたいにして食べるんだよ」
「水分をなくした麦粥……ですか?」
「まあ、ちょっと麦とは違う風味の食べ物だよ、収穫できたら食わせてやるよ」
「あの、楽しみにしてます……」
何一つ遮るもののない屋上の青空をバックに、イスカの長いしっぽがシュルシュルと揺れている。
そこそこの付き合いを経てわかったが、あれは彼女の機嫌が良い時の動きだ。
「イスカ、最近人を使うようになってどうだ?」
「え? その……少し、気を使いますね」
そう言って、彼女は自分の足元へと視線を落とした。
イスカは能力はあるんだけど、うちでは珍しいぐらいシャイだからな。
でも管理職になるんなら、シャイなままでいてもらっては困るんだよな。
「いいかイスカ、部下には飯を奢ってやれよ。先輩の価値ってのは飯奢ってくれるかくれないかで全然変わってくるぞ」
「ご飯、ですか……」
イスカは大きな体を縮こめるようにして、自分の足にしっぽを巻きつけた。
「人を飯に誘うのは苦手か?」
「少し……」
気持ちはわかるが、イスカの人見知りはちょっと根が深そうだな。
そうだ、業務命令ということで部下を飯に誘わせてみるか。
イスカの人見知りも改善されるかもしれないし、イスカの部下は飯が食えて嬉しい、Winwinだなんて言わないが、やらせてみて損することでもないだろう。
人間というのは飯の感謝は忘れないものだ。
俺だって前世の会社にはいい思い出はないが、それでも金がない時期に飯を奢ってくれた先輩との思い出は色褪せず残っているからな。
ズボンのポケットを探り、財布から金貨を一枚取り出した。
「イスカ」
「はい……わっ!」
俺から投げ渡された金貨をキャッチした彼女の虎縞しっぽは、ピンと空を向いていた。
「なんですか? これ」
「命令、その金貨一枚なくなるまで部下に飯を奢り続けろ。もちろんお前も一緒に食うんだぞ」
「え、金貨一枚分もですか……?」
「そうだ、飯を奢るためには部下のことをよく知らなきゃいけない。それは人を使うってことの一番大事な部分だ」
飯がまずくて歌が下手なママのいるスナック……
上司に無理やり盛り上げ担当にされ、酒も飲めずに割り勘にされたあの夜……
うっ、頭が……
「いいか、部下の好きそうな店に連れてってやるんだぞ! 自分の好きなスナックなんかに行くなよ!!」
「すな……? いやその……もし断られたら……?」
「何回でも行け! 部下に気持ちよくタカられる上司になれ、金ぐらい俺が面倒見てやる」
「わ、わかりました……」
飯代ぐらいで人が育つなら安いもんだ。
人が育てば俺が楽になる、俺が楽になれば後に座るかもしれないノアやラクスも楽になるからな。
お前らもイスカも、育ってくれよ、俺のために。
田んぼに手を入れ、目に痛いぐらいの緑色をした苗へと強化魔法を送る。
その茎がぴょこんと伸び出た田んぼの水面には、右往左往するイスカのしっぽと照りつける太陽が映っていたのだった。
夏といえばなんだろうか?
スイカ、夏休み、カブトムシ、プール。
もちろんそういうのも楽しいが、俺の世代の夏の楽しみといえばそう、甲子園だった。
縁もゆかりもない少年たちが白球を追いかけて泣いたり笑ったりするのを、今となっては不思議なぐらい毎日毎日見守っていた気がする。
そんな夏の甲子園が……国どころか世界線すら越えたトルキイバで、今まさに行われていた。
『バッター、二番、スノア家家臣ハリアス・リンター様』
「ハリアスーっ! 打てよーっ! スノアの誇りーっ!!」
トルキイバ現領主であるスノア家の私設楽団の皆さまが応援歌を吹き鳴らし、子弟達や奥様方が声の限りに歓声を飛ばす。
そう、今シェンカー球場ではこの間発足されたばかりの貴族野球リーグのリーグ戦が行われていた。
俺とローラさんはたまたま観戦にやって来ただけなのだが、あまりの観客の多さに球場のオーナーだというのにVIP席にも座れずにいた。
「しかし、凄い応援だな」
「そりゃあもう、スノア家は領主でしょ、意地がありますから。是が非でも優勝するつもりで選手をかき集めてますよ」
「選手を? 家臣団だけじゃないのかい?」
「野球の上手い町民を使用人として取り立ててチームに取り込んだんですよ、他の球団もやってるらしいですよ」
「おいおいほんとかい?」
実際一番町民が多い貴族リーグのチームはローラさんのスレイラ
ちなみに俺のシェンカー
理由は単純で、俺がローラさんのキャッチャーとして忙しいのでそっちに参加できないからだ。
オーナーの俺は貴族リーグで頑張り、チーム自体は平民リーグで頑張るという不思議な状況になっていた。
「予想どうだ! 予想あるよ! 予想どうだ! 予想いらないか!」
「君体いいね、野球やらない? うち? 平民リーグの東町農家連合。練習? そんなしないしない。気楽に? やれるやれる。畑仕事の体験もできるよ」
しかし、外野席は無法地帯とは言わないが、さすがにうるさいな。
ローラさんは新鮮そうな顔で楽しそうにしてるけど、俺はもうちょっとやられてきてるよ。
「しかしスノア家のバッターは粒ぞろいだな、どう仕留めるか今から楽しみだよ」
真っ赤なシェンカー大蠍団の帽子を被ったローラさんは、楽しそうにそう言いながら煙草の煙を吐き出して、エールを一気飲みした。
「やっぱり他よりもいいですか?」
「平均年齢が若くていい、騎士団と同じように槍働きでしっかり体ができているしな」
「ああ、魔導学園
スノア白球騎士団とザルクド流野球部の試合は七回裏でスノアの攻撃で四対四、かなりいい試合だった。
ザルクド流のピッチャーが振りかぶってボールを投げると、その手元でボールの姿はかき消え、気づいた時にはキャッチャーのミットに収まっている。
リアル消える魔球だ。
初めて見た時は本当に感動したんだけど、このピッチャー自体はすげぇノーコンで頻繁にフォアボールを出すんだよな……球速も遅いから普通に打たれるし……
この回もすでに三人のランナーを出して、すでに満塁の状況だった。
「あの球、君ならどう打つ?」
「キャッチャーのミット見ながらバントします」
「その手があったか」
「ていうか振らなくても割と出塁できますし、キャッチャーも時々見えてなくて球落としますよね」
言っている間にもフォアボールが出て、スノア家に一点が入った。
「やっぱり魔球ってのは難しいね」
「シンプルなのが一番ですよ、使い魔をボールに化けさせて退場食らった投手もいましたし」
「ふっ、打たれたらどうするつもりだったのやら……」
「そういうことを考える人ならそんな魔球使いませんよ」
マウンドでは、点を取られたザルクド流のピッチャーが監督に喝を入れられている。
あーあー、可哀想に。
『ピッチャー交替のお知らせです、レミオ・リーアス様に替わりまして。ピッチャー、ライミィ・ザルクド様』
「うわっ……」
ベンチから交替でやって来たのは、あの懐かしの深窓の令嬢だった。
あの日と同じように栗色の髪をヘルメットに収めた彼女は、凄まじい球威のストレートをキャッチャーミットに叩き込んでいた。
「君は彼女が出てくるといつでも嫌そうな顔をするね」
「昔色々とありまして」
「足を飛ばされたとか言っていたな、試合でも挑んだのかい?」
「いやいや、そんなことするわけないですよ。詩を届けにいっただけです」
「ふぅん……詩をね……」
夏の太陽に照らされているはずの背中に、なぜだか冷たい汗が流れた。
隣へと顔を向けると、ローラさんはいつものにこやかな顔でマウンドを見ている。
なんだこのプレッシャーは……?
ふと気づけば、俺の隣にいた人も、ローラさんの隣にいた人もそそくさとどこかへ逃げ出していた。
「あの、ローラさん。どうかしました?」
「いや、ね……」
ローラさんは深窓の令嬢の背中をじっと見つめながら、不敵な顔で笑った。
「あの女、次試合で当たった時は全打席ホームランにしてやろうと思ってね」
「え?」
その瞬間、マウンドに立っていた深窓の令嬢がくるりと振り返ってこちらを見た。
何百メートルもの距離を挟んだ二人の間に、不穏な空気が流れ、その間にいた平民達が逃げ出した。
夏は暑い。
夏は暑いが、冷や汗が止まらなくなることも、またある。
複雑怪奇な女心を理解するには、まだまだ経験の足りない俺なのだった。
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