掌編【即興小説トレーニング(テーマ:理想の作家デビュー、必須項目:離婚】
書三代ガクト
本文
「先生の作品大好きなんです」
文庫本にペンを滑らせ、ファンと握手したところ、そう言われた。少しだけうつむいていた顔を上げる。彼女は頭を振りながら熱っぽく語った。丸眼鏡をずらして、つばを飛ばす。頬にひたりと冷たい感覚が乗った。不愉快さがこみ上げてくる。
ありがとうございましたと、熱を残して彼女は去って行く。次の本を受け取りながら、私は静かに視線を落とした。
私は作家ではない。こうして本を出し、サイン会を開いていただけるだけの一般人だ。たまに先生とか言われるけれど、自負としては何も変わっていない。
もう書き慣れてしまった崩し字を走らせて本を閉じる。ファンの手を握って笑顔を浮かべた。緊張からか冷たいのにじっとりと湿っている手が気持ち悪い。
お客様の背中を眺めて一つ溜息を溢す。
「あいかわらずね」
冷たい声に顔を上げると、別居中の妻が目の前にいた。彼女は腕を組み本と一緒に紙を渡してくる。受け取り開くと離婚届だった。
もうろくに連絡もしていなかった。こうなることも仕方ないと思っている自分を自覚する。それと同時にまだ未練を抱いていたことも気付かされた。
私は文庫本のそれと同じように文字を書いていく。それを見るやいなや妻は離婚届を奪った。
「そんなんだから、嫌いなのよ」
悪態をつき、彼女は背中を向ける。ハイヒールの高い音を聞きながら、そういえばこういう喧嘩も久しぶりだなと記憶を探る。
大学で出会った彼女。まだあの頃が本を出すことが夢で、がむしゃらにやっていた気がする。今みたいに何もかも適当に、投げやりにはやっていなかった。
そうか。この不快感はこういうことなのか。
「待てよ」
急に燃えだした想いは口から飛び出す。自分の想像以上に大きい声に、彼女は足を止めた。
「ちゃんとやるから。ちゃんとやるかさ」
そう叫ぶと、彼女はくるりと振り向く。そのまま手に持った紙を掲げて、両手を添えた。
「なんだ言えるじゃない」
紙が裂ける音がびりりと響いた。そして一般人の私が細切れになる。
そしてそこから表れたのは、作家の私だった。
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