角笛

きのみ

 生協で「ぽっかぽっかゆずれもん」とつぶやいているところに話しかけた。大学に長くいる人間は総体として次第に気の抜けた格好をするようになるものだが、彼女は度を越した気の抜き方をしていて、いつもジャージかスウェットしか着ていないので遠目でも容易に判別できた。全身灰色のスウェットでサンダルを引きずって歩く女に声をかけるのは俳味がある。「なんですか」と言って不機嫌と驚きを隠した無表情をした。

「なにもない」

「そうですか」

それきり何も言わなくなって結局ミルクティーを持ってレジに行ってしまった。去り際に小さく「では」と言ったかもしれない。


 前のオリンピックの年に友人に呼ばれて行った居酒屋にいた時の彼女がどういう服を着ていたかなどまったく思い出せない。そもそもあの時に口をきいた覚えがない。友人とばかりお喋りをして、その中であの人は誰だと尋ねた。つまるところ友人の友人というやつで、いよいよ会話が難しいなと思った。友人はそのあたりに疎いので、その夜の後も平気で彼女と私とその他が集められた。友人の好む遊びは人数のかかるものばかりで、彼は私が呼ばれれば断れない性質であることを知っていた。


 何度か新しい夏が始まって、彼女が火おこしなどをやりたがることがわかった頃には二人で会話ができていた。夏季休暇に入って息がしやすくなった大学でときどき話をした。

「あいつ知らん間に就職決めてたの聞いた?」

「群馬の工場に配属になるだろうと言っていました」

「群馬?栃木じゃなかったっけ」

「そうかもしれません」

「いまだに『ですます』つけるね。別にいいけど」

「一度にたくさんのことができないので。気に障りますか」と言って目にする回数の増えたジャージのポケットに手を隠した。動転してしまったのでまったくそんなことはない、考えなしに言ったことでむしろこちらが謝りたいくらいだとまくし立てた。彼女は「そうですか。謝っていただくほどのことでは」と言いながらもポケットから手を出さない。それで何とかしようと思ってつい笑いを求めた。

「最近ジャージばかり着てないか。ここは自分の家かよ」

たしかにうっすら笑って「私に家なんてありませんよ」とだけ告げた。

 彼女の一等うつくしいところを見てしまった。その責任を取らねばならないと感じた。

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