15.

 服を着て脱衣所を出て、階段を降りてロビーに戻ってきた。

 相変わらず、カウンターの受付ロボット以外、誰も居ない。

 サトミの姿も見当たらなかった。

(まだ温泉に居るのか……)

 風呂上がりでのどかわいた。

 ここロビーで飲食は出来ないのだろうか……

 僕は、立ち上がってカウンターへ歩いて行った。

 ロボットにたずねてみる。

「あの、すいません、何か冷たい飲み物は有りますか?」

「あちらに自動販売機がございます」

 ロボットの指す方向を見ると、機械そのものは柱の影になって見えなかったけれど、「自動販売機コーナー」という看板と、自販機のサンプルケース特有の明るい光が周囲の壁に当たって照り返っているのが見えた。

「それから……」ロボットが続ける。「自動販売機コーナーの横に見える廊下を渡りますと、喫茶店があります」

 なるほど、廊下の入り口に『カフェ〈富士桜亭ふじざくらてい〉はこちら』という表示がある。

(……あれが、『温泉カフェ』とやらか……)

 どんな物なのか興味があった。喫茶店なら冷たい飲み物もあるだろう。

(けど、このロビーでサトミと待ち合わせてるしなぁ)

 この受付ロボットに伝言を頼んで、ひとあし先に喫茶店へ行ってアイス・コーヒーでも飲みながら待つっていう手もあるが……

(たぶん、そんな事したらサトミのやつ、怒るだろうなぁ……『待ち合わせして一緒に行こうって言ったのに、なんでケンゴウくんだけ先に行っちゃうの? ちょっと、それ、おかしくない? おかしいでしょ? おかしいよねぇ?』みたいな事を言われて問い詰められるに違いない)

 僕は、受付ロボットに「ありがとうございます」と言って、自販機コーナーでスポーツドリンクを買ってソファに戻った。

(なんで、僕はサトミに対して気を使ってるんだ?)

 ソファに座ってスポーツドリンクを飲みながら思った。

 好きでも何でもない女に対して、こんなに気を使うのは変だ。おかしい。

 あんなやつ、好きでもなんでもない……よな?

 うーん……僕は、あの女を好きになりかけてるのか? いや、でも……明らかに地雷女だぞ、あいつ……

 ここは、いっちょ自己暗示でも掛けとくか。

 僕は目を閉じて、自分自身に言い聞かせるように小さくつぶやいた。

「サトミなんか別に好きじゃない、サトミなんか別に好きじゃない、サトミなんか別に好きじゃない」

 よし。三回言ったから、僕はサトミなんか別に好きじゃないことが確定。

 ……ついでに、もういっちょ言っとくか。

 僕は目を閉じたまま、再度、自分自身に言い聞かせた。

「サトミなんかに気を使わない、サトミなんかに気を使わない、サトミなんかに気を使わない」

「何を一人でブツブツ言ってるの?」いきなりサトミの声がした。

「わっ!」

 死ぬほど驚いた。

 目を開けると真正面にサトミが座っていた。

「い、いつからそこに座ってたの?」僕はおそる恐る、サトミに聞いてみた。

「いま来たところ」

「ほんと?」

「何よ、なんか、やましい事でもしてたの?」

「べ、別に」

「良いお湯だったね。すっかりリラックスしちゃった」

「ま、まあな」

「ねぇ、あそこの廊下にカフェ〈富士桜亭ふじざくらてい〉って書いてある。行ってみない?」

「あ、ああ……そうだな」

 僕ら二人は同時に立ち上がり、僕は自販機の横にあったペットボトル回収箱に空きペットを入れて、廊下の入り口で待つサトミと合流して、二人で並んで廊下を歩いた。

 別にサトミに「行こう」って言われたからカフェに向かうわけじゃない。最初から行こうと思ってたんだ……と、心の中で自分自身に言い聞かせた。

「温泉に入ったから喉が乾いちゃった。なんか冷たい飲み物が有ると良いな」サトミが呑気のんきに言った。

「コーラとか、アイスコーヒーくらいは有るだろうさ」

 廊下は、温泉施設本館と巨大な温室をつなぐ渡り廊下に直結していた。

「カフェ……って、こっちで良いんだよね?」サトミが少し不安げに言った。

「ああ。たぶん、こっちで良いはずだ。途中、他に扉も無かったし、脇道のようなものも無かった」

 僕らは渡り廊下を進み、温室のガラス扉を開けて中に入った。

 巨大温室の中は、暑く、湿度が高く、南国の木々が密生していて、まるでジャングルの中に居るようで、ここがY県の高原だってことを忘れそうだった。

「あそこにってるのって、パパイヤじゃない?」

「確かに……」

「向こうのは、きっとマンゴーだわ」

「パッションフルーツに、バナナ、ライチ、グァバ……南国果物ばかりを集めた植物園みたいだ」

「すごいね……迷いそう」サトミが、鬱蒼うっそうと繁る木々を見て言った。

「うん……」

 足元を見ると、どうにか人間ひとりが通れるだけの幅の細い石畳の道が、右に左に蛇行しながら、ジャングルの奥へ奥へ……じゃない、巨大温室の奥へ奥へと続いていた。

 木の匂いなのか、花の匂いなのか、それとも熟した果物が発するのか、とにかく濃厚で濃密な南国の匂いが辺りに充満していた。

 ……と、その時……

「ギョーッ、ギョッ、フォーッ、ホーッ」

 鳥だか動物だか分からない鳴き声が木々の上から発せられ、周囲に反響しながら、僕らの上に降り注いだ。

「きゃっ!」

 サトミが小さく叫んで、僕の腕に付いてきた。

 彼女の柔らかい体の感触が僕の腕に当たると同時に、その体から濃厚なお風呂上がりの香りが立ち昇って来た。

「あ、ご、ごめん……つい……」言いながら、彼女はすぐに僕から離れた。

「ああ、き……気にしなくても、だ、大丈夫、だよ……と、とにかく進んでみよう」

 僕は率先してその細い道を歩き出した。

 いきなり、サトミが僕の手をつかんだ。

「え?」僕は、驚いて振り返り、サトミを見た。

「えっと……手……つないでも」サトミが僕を見つめていた。「良い……よね?」

「ああ……うん」僕は、サトミの小さな柔らかい手を握り返した。

 僕らは、巨大温室の中に造られた人工のジャングルを、奥へ奥へと進んで行った。

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