不思議なお姉さん(6)

 卯花うのはな神社。夏の木漏れ日がさす涼しげな境内の中を僕と風馬ふうまさんは歩いていた。ここまで僕は自転車、風馬さんは徒歩で来た。

 しかし、その間僕と風馬さんの間に会話らしい会話は成立していなかった。僕がコミュ障だというのも理由だけど、何より風馬さんに話かけづらい状況だった。

 黒くて重たい空気が僕と風馬さんを覆っていた。

 多分、風馬さんにとって話しづらいことなのだろう。


「あの、神社着いたんですけど……」

「うん」


 風馬さんはたまに僕を振り返りながら、何か考えているようなそぶりを見せる。しかし、会話には至らない。

 話したいこと――。風馬さんがいじめを止めようとした本当の理由――。

 早く知りたいという思いはあるけれど、重い空気の塊がその思いを押さえつけ、なかなか言葉を進められない。


 しかし、僕らの葛藤かっとうつるは女性の声に突然引き裂かれた。


「お、セイヤくんじゃん」


 その声に僕も風馬さんも顔を上げた。目の向こうの神楽殿の床に腰掛けている二十歳くらいの女性。

 彼女はひょいと神楽殿から飛び降りると、僕ら二人がここにいるのが珍しいのか、まるで無邪気な子供のように僕らに近づいてくる。

 今朝出くわしたチカさんだった。


「おや、誰かと思えばスズミちゃんも。おひさー」

「あ、はい……」


 風馬さんは下を見ながらも、小さな声で応じる。


「おやおや? 元気ないぞー?」


 チカさんはうつむいている風馬さんをのぞき込んで見上げた。

 今の僕らの空気はどんよりしている。僕は少しくらい空気読んでくれないかな、と心の中でつぶやいた。

 正直今は僕と風馬さん二人だけになりたかったのに……。


「はあ……」


 だけど僕の体は正直なようでため息が出る。

 風馬さんは顔を上げようとせず、もじもじしていた。

 チカさんは一瞬顔を引きつらせた。僕らをもう一度眺める。観察しているようだ。

 そして、チカさんはそんな僕らの状況を見て察したのかしゃがみ込んで、風馬さんに目線を合わせようとした。優しく声をかける。


「ねえ、頭上げられる?」

「……」


 風馬さんはそっと重そうな顔を上げた。


「何があったの?」


 チカさんの目はまるで自分の子供を見つめるような、優しそうなまなざしだった。僕は思わず彼女に見とれてしまった。

 風馬さんはじっとチカさんを眺めていた。

 見つめるうちに風馬さんの目から何かが流れた。それは彼女のローファーを濡らした。


「……っ!!」


 やがて風馬さんは手で目を隠すと、チカさんの腕の中で小さな声を上げて泣き出した。チカさんは彼女の背中をさする。

 僕はその様子をただ眺めることしかできなかった。


***


 どれくらい泣いていたかはわからない。やがて、風馬さんはハンカチで自分の目をぬぐった。


「……ありがとうございます。チカさん」

「楽になった?」

「はい……。ごめんなさい、昔のことを思い出しちゃって」

「そうなの」


 風馬さんはハンカチで涙を拭き終えると、セーラー服の胸ポケットにしまった。

 彼女の時折見せる顔は、何か腫物はれものが取れてすっきりしたような感じだ。

 ……本当は喋りたくなかったんだろうけど、今なら話してくれるだろうか。


「風馬さん、大丈夫ですか?」

「うん……。ごめんね、心配かけちゃって。ちょっと幼稚園の頃を思い出しちゃって」

「……」


 そう言って清々しい顔で何かを思い返すように、太陽の木漏れ日を見つめる風馬さん。僕の目は自然と彼女に吸い寄せられていた。


「でもね、卯花くんが気にすることじゃないよ」

「はい……」

「それで知りたいんでしょ? なんでキミの気持ちがわかるのか」

「……」


 風馬さんは一度目を閉じると、ゆっくりと口を開く。


「私もね、いじめられてるの」

「……!」


 衝撃の一言だった。僕の心臓が震えあがった。

 あれだけ友達が多くて、明るかった風馬さんがいじめられているって……。


「誰に、ですか……?」

「叔父に、ね」

「……」


 僕は言葉を失った。


「叔父さんって……、お父さんとお母さんは……」

「……ちょっとした理由で、いないの」

「え……」


 風馬さんは一瞬だけ瞳を隠した。


 風馬さんはとある事情で叔父と二人暮らしだった。叔父は製薬会社に勤めており、収入こそ安定していた。しかし、出張や残業で夜遅くに帰ってくることが多く、そのストレスが原因でたびたび風馬さんに暴力をふるっていたという。

 ふと、僕に風馬さんと二回目に出会ったときの記憶がよみがえった。あの時、彼女は自分のけがを隠していた。バレー部でのケガだと言っていたが、もしかして――。


「まあ、夜遅いって言ってもどうせパチンコとかにお金使いまくってるんだろうけど。家は荒れ放題だし、掃除なんてロクにされてないし。そして帰ってきたら私に八つ当たり」


 僕にはまるで想像できない、つらい状況が風馬さんの口から放たれていた。


「帰ればあいつがいる。何を言われるか、いつ暴力を振るわれるかわからなくて……。家に帰るだけでも怖かったの。だから、ゆかちゃんたちからいじめを受けてるキミを見て共感した。もちろん、いじめの加害者がゆかちゃんたちだったのがショックだったんだけど」


 清々しかった風馬さんの表情が、少し曇る。


「でも、学校に友達がいて、みんなと遊ぶ時が私の居場所と時間だった。家に居場所がないから、友達とのひと時を大切にしたかった。……でも、もうダメだよね」


 僕は何も声に出せなかった。返すべき言葉なんて、何もなかった。

 風馬さんから明かされた、彼女の家での事情が信じられなかったのだ。学校では笑顔を見せ、明るく振る舞っている風馬さんがとてもつらい目に遭っていたなんて。

 まるで僕と正反対な境遇だったのだ。だけど僕もそんな風馬さんの気持ちが少しだけ理解できる気がした。風馬さんが家にいるときはきっと僕が学校にいるときと同じ気持ちなのだろう、と勝手に妄想していた。


 だけど、彼女は僕のいじめを止めたことで学校での居場所も失った。


 僕は声が出せなかった。

 やっぱり、謝るべきだ。


「その、ごめんなさい。風馬さん」

「キミが謝ってどうするのよ。さっきも言ったけど誰も悪くないよ」

「ですけど……」


 ――暗くなってるところ、失礼しちゃうけど。


 僕と風馬さんを優しく包むように響く、女の人の声。

 チカさんの暖かな瞳が、まるで僕たちに差し伸べられているように見えた。


「暗い雰囲気になるのも、ここまでにしたら?」

「チカ、さん……」

「あなたたちがどんな目に遭っていたかはわからないけど、辛かったのはわかる気がする。だけど、いつまでも暗くなっていてもしょうがないじゃない。さあ、顔を上げて」


 僕はそう言われて顔を上げると、チカさんの顔が木漏れ日を浴びて光輝いて見えた。天使に見えるか、女神に見えるか、それはわからないけど見ていて自然と心が温かくなっていく気がした。


「スズミちゃん。居場所がなくなったのならまた作ればいいじゃん」

「え……」


 風馬さんはまるで母親を見る子供のようだった。


「失った居場所を元に戻すのは大変だけど、新しく見つけることもできるから。あたしもいろいろあったなあ」

「チカさんもいじめられたことあったんですか?」


 僕は気になって訪ねてみた。


「まあ、そのたぐいになるのかな――」


 まるで昔を懐かしむかのような、チカさんの声。彼女はそれ以上のことを言わなかった。

 風馬さんは声をかすらせながらも、チカさんを見つめた。


「チカさん……。私どうしたら」

「さっきも言ったじゃん。居場所を作ろうよ」

「どうやって……」

「あたしたちで作るの」


 チカさんは僕に目を向け、ウインクする。


「セイヤくんも一緒に、ね」

「僕も、ですか?」


 僕は目を見開いていた。驚きを隠せなかった。


「うん。この際だから友達になろうよ。あなたも聞くところぼっちみだいだしね」


 チカさんはいたずらっぽく笑った。

 その「ぼっち」発言にむっとするけど、不思議とチカさんの言葉にトゲはなかった。


「……いいじゃないですか、別に」

「ふふ。ねえ、二人ともいいでしょ?」


 僕は何も声に出さなかったけれど、いいかなと思っていた。いじめられて他人をひどく警戒していたけど、風馬さんに対する警戒感はすでに無くなっていた。

 そしてチカさんにも、不思議と警戒感はなかった。


 風馬さんの横顔を見ると、彼女の顔は光が差し込むように、徐々に明るくなっていく。


「チカさん……、いいですね! それ!」


 ぱっと明るい笑顔を見せる風馬さん。


「よかった。さあて、ぼっちくんはどうかな?」


 チカさんは膝に手を当ててかがみ、僕に目線を合わせた。

 ……精神的ダメージはないけど、ぼっち発言はやめてください。


「ま、まあ……、いいですけど……」


 心の中で盛大なツッコミを入れたわりに声が震えていた。

 チカさんはにっこり微笑む。


「なら決まりだね。そうだ。ひとつお願いなんだけど、セイヤくんとスズミちゃんも友達同士なんだから、苗字で呼び合うのやめたら?」

「え?」

「なんか堅苦しいじゃん。まあ、前からあたしのことは名前で呼んでくれてるけど、この際だから二人も名前で呼んだらどうかなって」


 僕は風馬さんに顔を向けるが、同時に彼女も顔を向ける。不思議そうな顔。

 僕の心臓が胸を打つ。

 え、僕が風馬さんを名前で呼べって……? すっごい違和感がある。スズミちゃん、スズミさん……? なんて、呼べばいいんだろう……。


「じゃあ……」

「セイヤくん。これでいいでしょ?」


 僕よりも先に風馬さんが僕の名前を口にした。


「同学年の男の子を名前で呼ぶのは初めてだけど、私たちもう友達だからね」

「そ、そうですね……」


 一度心を落ち着ける。多分、友人同士なんだからスズミちゃん、のほうがいいかもしれない……。でも、それだとなれなれしすぎないか……? なら――。

 そして、腹に力を込める。


「す……す……スズミさん……」


 何とか腹から声を押し出した。

 少しだけ、息が上がってしまった。名前で呼ぶだけなのにどれだけエネルギーを使ってるんだ。

 スズミさんはにっこり笑っていたが、


「ありがと。でもセイヤくん、いつまでも改まらなくていいの。ずっと思ってたけどなんでいつも私に対して敬語なのよ」

「あ……」

「今更だけど私もキミも同学年なんだからさ。普通でいいじゃん」

「そ、そうで……だね」


 いつもの癖で敬語が出そうになるけど、とっさに訂正する。


「よし。これで晴れて友達だね」


 そう言ったスズミさんの顔はこれまでになく清々しかった。僕の心からももともと無用だった罪悪感は消えていた。僕とスズミさんの間から重苦しい霧は消えた。

 チカさんは両手を合わせて何かひらめいたように、


「さて、私たち友達なんだからSENN(セン)の連絡先交換しようよ」

「あ、いいですね!」


 スズミさんは早速スマートフォンを取り出して操作し始めた。


「せ、SENNですか? チカさん」


 僕はきょとんとしてチカさんを見る。


「あれ? セイヤくんアプリをダウンロードしてないの?」

「え、いや……」


 SENNはSNSのことだけど僕は生まれてから一度も使ったことが無かった。小学校時代は電話かメールだし、家族とは電話で直接やり取りしていたから。今のスマホに代えてからSENNを一応ダウンロードしていたけど眠ったままだった。

 スマホを開いてSENNを起動する。当然〈友だち〉リストには家族とすでに疎遠になった小学校時代の友人の名前で十人ほど。

 多分、チカさんもスズミさんも僕の何倍も〈友だち〉を持ってるんだろう。そう思うと恥ずかしくなる。


「こ、交換しよう。スズミさん」


 まだ慣れない名前呼びと相まってぎこちない呼びかけだ。


「うん」


 僕たち三人はそれぞれのSENNを交換した。僕の〈友だち〉欄についに[千夏ちか]と[スズミ]の名前が入った。家族以外でかかわりのある人の名前――。僕にとって、記念すべきことなのかもしれない。


 SENNを眺めていると、突如スマホが震え出した。画面の上に【卯花 耕助こうすけ】と出ている。

 おじいちゃんだ。画面の右上の時計はすでに一時を過ぎていた。

 そうだ、昼食まだだった――。

 僕は二人に断って通話に出る。やっぱり昼食冷めるぞー、というおじいちゃんの眠そうなあくび交じりの声だった。


「ごめんなさい。お昼まだでした」


 頭を掻きながら、スズミさんとチカさんの元に戻る。


「もうそんな時間なんだ。そういえばお腹すいてきたなー」


 チカさんは腕時計を見ていた。やはり一時を過ぎている。


「じゃあ、あたし帰るね。これから砂美すなみ食堂行ってお昼にしよっと」

「電車で行くんですか? 砂美ってここから遠いですよ?」


 砂美町は八百の隣町で、電車でも一時間近くはかかる。僕らみたいな中学生は部活の練習試合で行くくらいで、あまり縁のない街だ。


「砂美食堂の漢定食おとこていしょくが食べたくてねえ。あたし、よく通ってるんだ。完食できればタダだし、貧乏学生の味方だよ」


 僕は一瞬硬直した。


「ま、マジですか、チカさん」


 僕の口から思わず漏れる驚き。まさに驚きを隠せない。

 漢定食は大きなソースヒレカツが三枚重ねになったどんぶりの定食セットで、まず食べきれる人はいないと聞く。

 隣のスズミさんも口をあんぐりと開けていた。


「あの、全部食べてるんですか……?」

「もちろん! 頼んだら全部完食してるわ。全部食べないと体力つかないし、夏バテ防止にも最適よ」


 そう笑顔で言ってのけるチカさん……。

 この人、いったい何者なんだ!?


「じゃあね、お二人さん! またすぐ会えるといいね!」

「ありがとうございます! チカさん!」


 スズミさんは大きく手を振っていた。

 やっぱり不思議なお姉さんだ、と僕は改めて思った。意味ありげな含みのある雰囲気、力の強さ、そして僕たちを引き付ける母性的な微笑み。

 そして、またチカさんとすぐに会えればいいなと思った。


 だけど、僕らの知らないところで事は動き始めていた。手を振るスズミさんが背負うリュックの中で、すでにそれは振動音を立てて僕らを巻き込む機会をうかがっていたのだ。

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