不思議なお姉さん(4)

 

 暖かい朝の日差しがカーテン越しから僕に降り注ぐ。優しげな感触に反応し、僕は重たいまぶたを開けた。

 目覚まし時計がけたたましく鳴っている。

 あれ、何で目覚ましが……。夏休みは学校が無いから設定していないはず。

 七時半を指している時計を止め、ふと窓際のカレンダーを見た。


八月一日 登校日


 その時、僕の目は釘付けになった。同時に心臓が止まりかけ、時間も止まりかけた。


「やべえっ!!!」


 今日は登校日だった。僕は急いで身支度をし、朝食を済ませて自転車に飛び乗った。急いで家の外に飛び出す。


 猛スピードで神社の前を過ぎようとすると、


「あ、セイヤくんじゃん。やっほー! 久しぶり!」


 急いでいる僕に対し、呼びかけるのんきな声。僕は自転車のブレーキを思いっきり掛けた。ゴムがコンクリートに擦れる甲高い音が鼓膜を刺激した。


「ち、チカさん」


 にんまりと笑い、手を振る二十歳くらいの女性。この前神社で出会ったチカさんだ。


「なんでこんなところに」

「なんでって、この前言ったじゃん。しばらく調査で八百にいるって。でも、あたしここ気に入っちゃった」

「そうですか……」

「夏でも涼しいからねえ」

「……」


 悪いけど、正直チカさんと話している時間が無い。僕は自転車をこぎ出そうとする。

 だが、


「ちょっと待って!」

「なんですか!」


 急いでるんですよ! もう!

 チカさん、いつぞやの風馬さんみたいだ。


「この前あげたお土産、開けてないよね」

「はい……」

「ならよかった」


 チカさんはほっとため息をついた。僕は首をかしげて、その様子を見ていた。

 一応もらったお土産は僕の部屋にしまってある。家族に見せると開けてしまうことになるし、ほかに隠せそうな場所もないからだ。

 チカさんは人差し指を立て、僕に忠告した。


「もう一度言うけど、絶対開けちゃだめだからね」

「わ、わかってますよ」

「でも、セイヤくんならビクニさまが守ってくれると思うけど」

「え……?」


 僕の目が点になる。

 ビクニさまが? そんなバカな。なんでビクニさまが出てくるんだ? 


「お土産と関係あるんですか?」

「んー。まあ、関係ないかなー」


 チカさんは人差し指を顎に当てて、空を眺めた。

 そして僕のほうに顔を向ける。


「でも、とにかくセイヤくんは卯花神社の子だから何があっても大丈夫よ」

「はあ……」


 変なことを言う人だ。でも、なぜかその言葉には何かあるように思えてならなかった。

 気になるけど、今は急いでるんだ。


「じゃあ、チカさん。僕はこれで。今日登校日なんです」

「学生は大変だね。頑張ってね」


 軽く僕は頭を下げると、全速力で自転車をこいだ。

 学校に急ぐ中、僕はチカさんをやっぱり不思議な人だなと思った。


 ***


 八百中学校。何とか始業前に辿り着けた。

 自転車を止めて久々に魔の空間に向かう坂道を歩く。坂の勾配に加え、魔の空間に近づくたびに背中にのしかかる見えない重しのせいで、前になかなか進まない。

 まあ、半日だけの我慢だ。


 玄関の下駄箱に自分のスニーカーを入れる。気が重くなる中、一歩を進めようとした。


「あら、卯花うのはなくん! 久しぶり!」


 後ろから明るく跳ねるような声。

 振り向くと、制服姿の風馬さんが柔らかく微笑んで、手を振って立っていた。


風馬ふうまさん……」


 彼女の声と姿に僕の背中にのしかかっていた重しは消えた。

 風馬さんは僕に話しかけてきた人の中では普通に接してくれたこと、そして卯花神社で彼女の自由研究を手伝ったこともあって、彼女に少しだけ親近感が湧いていた。

 そういえば研究どうなったんだろ。風馬さんと社務所を調べてからすでに一週間が経っていた。僕は風馬さんがあれだけ張り切っていた、彼女の「自由研究」が気になっていた。

 あれは、宿題の「自由研究」で済ませられるレベルを超えていると思う。

 僕は社務所で夢中になって難しい資料を読み進める風馬さんを思い出していた。あの風馬さんの姿は明らかにいつもの風馬さんと違っていた。

 そもそも風馬さんの研究動機って何なんだろう。


「その、あれから自由研究ってどうなったんですか?」

「うーん。いいところまではいったかな……。まだまだ調べ足りないけどね」

「あの、風馬さんはなんで人魚伝説を調べようと思ったんですか?」

「え」


 階段の前で風馬さんは立ち止まった。きょとんとした顔を僕に向ける。

 だが、彼女はすぐににっこり笑い、


「前言ったじゃん。調べてたら楽しくなったって。人魚のお話って不思議なことがいっぱいあるの。それを調べて解き明かすのが楽しくて楽しくて……」

「のめりこんでいったんですね」

「そゆこと! 好きなものって夢中になれるよね」

「でも、どうしてそこまで深く調べてるんですか? 自由研究にとても難しい本読むなんて、すごいなと思いました」

「まあ、人魚の謎を解き明かすことが私の “使命” だからかな」


 風馬さんの目は前を向いていたけど、その先にある “何か” を見透かしたかのような目をしていた。


「使命って……」


 立ち止まってぼうっとする僕の横を、風馬さんは四段ほど階段を上り、振り返った。


「でもありがとね。研究もだいぶ進んだと思うし」

「その、使命ってなんですか?」

「それはまた今度教えてあげる!」


 風馬さんは嬉しそうに階段を上るけど、僕はもやもやしていた。

 人魚伝説を解き明かすことが使命……?

 階段を上っていく風馬さんの後ろ姿をみながら、僕はいろいろ考えていた。


 しかし、僕の意識は目の前で起こった出来事により、現実に引き戻された。


――ねえ、スズミ。どうして卯花といるの


 階段の先からこれ以上聞きたくない、悪魔の声がした。放たれた言葉に僕の名前が含まれている。僕の身体は震えあがり、腹の底から悪寒がした。

 階段の先にいる風馬さんに詰め寄る、短い釣り目の気の強そうな女子。彼女は威圧するまなざしを風馬さんに向けている。


 海堂かいどうゆか。


 僕を地獄の底に突き落としたいじめグループのリーダーの一人。あれで僕の心は潰れるところだった。

 そんな海堂が風馬さんに詰め寄っている。風馬さんは床を見ているだけだ。

 僕はとっさに階段の陰に隠れた。


「え、なんなの……」

「あんたのためを思って言ってんの。なんで卯花と喋ってたの」

「……」

「式川さんが言ってたわよ。あんたと卯花が図書室で一緒にいたって」

「それは自由研究で……」

「そうか、だからさっきそこの階段で話してたのね? でも、調べるならもっとほかの方法があるでしょ?」


 海堂はそういうと風馬さんから目を離した。

 そして、


「おい! 卯花! こっちじろじろ見てんじゃねーよ!!」


 海堂のどすの効いた大声が階段や廊下に響く。周りにいた生徒や教師は一瞬足を止めた。

 僕の心は引き千切られそうになった。何とかこらえる。

 だが、次の一撃は強烈だった。


「失せろよ!! こそこそしてるなんてきめえんだよ!!」


 僕の心臓が破裂しそうになった。息が上がり、汗が出始める。一年のころの記憶がフラッシュバックする。もう思い出したくもない、記憶……。

 だが、帰るわけにはいかない。逃げたくなるけど、僕は踏みとどまっていた。


「ゆかちゃん……声大きいよ。なんでそこまでひどいこと言うの」


 さっきまで黙っていた風馬さんが小声ながらも、海堂に訴えかける。


「あら、あんた知らなかったのね。卯花はキモいの。一緒にいたくないの」

「どこが、そう感じるの?」

「存在が全部」


 僕を突き刺されたような衝撃が襲った。

 海堂の口から放たれる言葉一つ一つが、まるでナイフのように僕の身体を突き刺す。物理的な傷はつかないけど、痛みが走る。

 痛い……。

 ふと、風馬さんは後ろを見てまた海堂に顔を向けると、


「その言い方、よくないと思う」

「あたしは事実を言っただけ。なんでよくないの?」

「……」

「言えないのね」


 僕は恐るおそる風馬さんと海堂を眺める。

 海堂は眉を逆八の字にして、目の前の風馬さんを睨みつけていた。風馬さんは何も言わなかった。だけど、彼女はこぶしを強く握りしめていた。

 ふたりの間に沈黙が流れていた。


「よう、ゆか! どうしたんだ?」


 陽気な男の声。


「あ、元晴もとはるくん!」


 さっきまでの身の毛もよだつ声が嘘のように、海堂の声が明るくなった。

 風馬さんと海堂の前に制服姿のチャラい男が出てきた。

 近村ちかむら元晴もとはる――。

 思い出したくない名前。今は別クラスだけど、こいつも海堂と一緒に僕をいじめてきた張本人だ。こいつが僕のいじめのきっかけを作った。今でもあの数学の授業は覚えている。

 海堂は近村の腕をつかんだ。


「ねえ、元晴からも言ってやって? クラスメイトなんでしょ?」

「なんだよ」

「スズミさ、卯花の肩を持ってんのよ。卯花は階段の先で隠れてんだけど。きもくない?」


 海堂は僕に指をさしている。僕は一歩も動けない。


「ああ、あいつか。関わるとロクなことになんねえからな」


 そして近村は風馬さんに声をかける。


「風馬もあんま関わんなよ。あいつキモイし、臭いし。せっかくゆかが忠告してくれてるんだから、いうこと聞いたほうがいいぞ」


 へらへらと笑いながら風馬さんに声をかける。隣で海堂がうんうん、と頷いている。

 僕は見ていられなかった。まさか、風馬さんに嫌われるんじゃないか? それは嫌だ……。やめてくれ……!

 だが、風馬さんは何も言わない。階段の白い床をみて、こぶしを握ったままだ。

 そして、沈黙は破られた。


「最低よ!! ゆかちゃん!!」


 風馬さんの声が海堂のそれに負けないくらい大きく響いた。周りの人は何があったのか、風馬さんに顔を向ける。海堂と近村もきょとんとする。

 僕は風馬さんに釘付けになっていた。

 彼女は、肩を上下させながら息を切らせていた。

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