不思議なお姉さん(1)

 天高く上る太陽が八百やおの地を照らす。梅雨が終わると共に夏休みが始まった。

 僕、卯花うのはな清弥せいやは自転車を飛ばして田んぼ沿いの広い道を走っていた。熱気が容赦なく僕の体にぶつかるので、必死で自転車をこぐのと相まって余計僕から体力を奪っていく。だから時々休憩しながらお小遣いをはたいて買ったスポーツドリンクを飲んで、先を急いだ。


 十時前。じわじわと出る汗をタオルで拭きながら八百駅に到着した。ここが待ち合わせ場所だ。

 八百駅前は、人の往来があるもののこの時間帯は静かだ。街路樹からセミの鳴き声だけが染み出していた。

 同級生はすでに僕を待っていた。

 彼女は、ロータリーのベンチに座りスマホを眺めていた。頭に麦わら帽子をかぶり、上に白いブラウスを着て、桃色の薄いショールを羽織り、そして下に白いロングスカートを履いていた。初めて見る私服姿の同級生に思わずドキッとする。顔が磁石のように彼女に引き寄せられる。

 だが、突如彼女の顔が僕に向けられた。


「卯花くん、遅い!」

「は、はいっ!?」


 その一言で磁石は反転した。僕は一瞬彼女から目を離した。

 恐る恐る彼女に顔を合わせると、彼女は腕を組んで僕を睨みつけていた。


「遅刻だよ? 何してたの?」

「え、そ、その……」


 僕は言葉を詰まらせた。夏真っ盛りなのに冷汗が額からにじみ出る。

 とてもじゃないけど、寝坊したなんて言えない……。

 帰宅部というだけあって、夏休みも部活はない。ぼっちな僕にとってすることは限られていて、だらけがちになる。

 朝起きたらすでに九時。飛び起きてここまですっ飛んできた。


「ごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げる。

 風馬さんはため息をつく。


「まあ、いいよ。とりあえずいこっか」


***


 夏の日差しが照り付ける中、僕と風馬さんは山沿いの道を歩いていた。なるべく木陰を踏みながら前に進むが、汗はジワリと出てくる。できれば午前中のうちに目的地に行きたかった。

 自転車を押しながら前を見ていると、


「ねえ、卯花くんっていっつも自転車なの? 家までだいぶ距離あるでしょ?」


 風馬さんが軽く僕の前に出て、顔をのぞかせる。僕は歩みを止めた。


「まあ、そうですけど」

「電車使えばいいじゃない。冷房も効いてるし、みんなもいるよ?」


 僕は一瞬むっとした。いじめられてきたこともあって、“友達” とか、“みんな” といった言葉がリア充を代表する言葉のようで、癪に障ってしまう。

 夏の暑さの不快さも相まって声を上げてしまった。


「嫌ですよ! そんなの!」


 一瞬、僕と風馬さんの間に沈黙が流れ、生ぬるい風が僕と風馬さんの髪を揺らした。


「……」


 風馬さんは口をぽっかり空け、見開いた眼を僕に向けていた。

 しかし、沈黙を終わらせたのは風馬さんだった。


「……どうしたの?」

「なんでも……ないです……」


 不安そうな顔をのぞかせる風馬さんから、僕は目を背けた。自分で思わず出してしまった言葉がショックだった。嫌われてしまったんじゃないか、そんな思いがよぎった。


「なら、いいけど……」

「行きましょうよ。先に」


 僕は自転車を押して風馬さんの前に出た。

 しばらく僕と風馬さんは何もしゃべらず、ただ夏の太陽の下を歩いていた。


 暑いけど、静かな夏だった。


***


 卯花神社に辿り着いたのは駅から歩いて四十分後。僕たちの前にそびえる大きく、青々と茂る卯花山の森。そして目の前に道にちょこんと口を開ける赤い鳥居。

 僕には見慣れた光景だけど、風馬さんにとっては珍しかったようだ。


「すごい……初めて来たけど、大きいんだね……」

「とりあえず、おじいちゃんが社務所にいるから行きましょうよ」

「うん!」


 ここにきて風馬さんは妙にうきうきしている。さっきまで全然口を利かなかったのがまるで嘘のようだ。


 神社の中は静かで、夏のBGMと化しているセミの鳴き声もほとんどない。川のせせらぎと涼しい風が僕と風馬さんの首筋をひんやりと包み込んだ。


「いいところだね、ここ」

「そうでしょ? 僕はここ、落ち着けるから……」

「そうね。たまにはこんなところもいいかも」


 風馬さんは目を上下左右にきょろきょろ動かしながら、物珍しそうに周りを見ていた。

 この神社はビクニさまと大きな森があること以外は他の神社と変わらないと思うけど……。


「風馬さん、この神社に来るのはじめてなんですか?」

「うん! 私、住んでるところ平川ひらかわ地区だし、ここまで遠いからね」


 平川地区は八百の西にある地域で、大きな砂浜が広がり夏は海水浴客でにぎわう。

 僕の脳内に小学校のころの記憶がよみがえった。顔は覚えていないけど、僕と同じくらいの歳の子と平川の浜辺に遊びに行った。海パンを履き、防波堤から海に向かって思いっきりダイブする。海の中で水をかけ合ったり、砂浜で城や文字をなぞったり……。スイカ割りやバーベキューもしたっけ……。


「平川か……。そこもいいとこですよね。僕も小さい頃、海によく遊びに行きました」

「だよね! 私もみんなと一緒に行ったよ」

「時間を忘れて遊びました。ほんと、あの時はよかった」

「わかるわかる! そして家に帰って親に怒られる」

「遅すぎますからね」


 思わず僕は笑ってしまった。風馬さんも一緒に。風馬さんの顔はいつもより輝いて見えた。そして、純粋にうれしかった。

 だが、自分でも不思議だった。コミュ障で話が続かないと思ってたのに、今の会話は弾んでいる……。

 なぜか楽しさと不思議さが脳内で同居する。


 しかし、そんな和やかなひと時は突如終わりを告げた。

 いきなり風馬さんの足が止まったのだ。


「う、卯花くん……あれ……」


 風馬さんは声も指をさす腕も震えていた。何か、良からぬものを見たかのように。


「どうかしたんですか?」


 風馬さんが指さす先、境内中央にある神楽殿の下にスニーカーが落ちていて、さらにその先に人の足が見えた。足が、横倒しになっている……。


「あれ、人かなあ……」

「え……」


 風馬さんの声に僕は唾を飲んだ。

 嫌な予感がする。

 ゆっくりと近づいてみると、神楽殿に隠れていた人の正体が露わになった。

 女の人が緑がかった三十センチくらいある長い髪を乱すように広げて倒れていた。黄色い半そでシャツから白い腕が伸び、緑色のジーンズはひざ下までぴっちりとくっつき、そこから白い脚が伸びていた。彼女は、まるで丸め込むように地面に突っ伏していた。乱れた髪がかかる横顔は輪郭が整っていて奇麗だけど顔は白く、精気が抜けているようだ。

 彼女はその生々しい姿をさらけ出していた。

 僕は一瞬心臓が止まりそうになった。思わず後ずさる。


「まさか、これ……」


 風馬さんの小さく震える声。


「しん……」

「し、死んでないよ……」

「うわあっ!!!」


 僕と風馬さんは同時に声を上げ、二歩も三歩も後ずさる。

 し、死体がしゃべった!? 目の前で倒れている女の人の口が動いたのだ! 


「い、生きてるんですか……!?」


 手も足も、心も何もかもが震えながら、僕は口から声を出す。


「……死んでたら喋れないでしょ? 静かにしてくれない? 頭に響くから」


 何が起きたのかわからず、僕と風馬さんは目をぱちくりさせる。

 お姉さんは神楽殿の壁伝いに立ち上がった。だが、すぐによろめき、壁にもたれかかった。


「うう……。頭が痛い……」

「ね、熱中症ですか……?」

「かもしれない……」


 お姉さんの声はかすれている。喉が渇いて声が出にくいようだ。


「ねえ、何か飲み物ない?」

「え、ええっと……」


 そういえばスポーツドリンクがリュックに入っていた。

 僕は急いでリュックからペットボトル入りのスポーツドリンクを取り出した。買ったばかりだから、まだ冷たい。


「こ、これを……。まだ、口付けてませんから大丈夫です!」

「いいの? ありがとう……」


 お姉さんは手渡されたペットボトルをごくごくと飲んだ。相当喉が渇いていたのか、ものすごいスピードでスポーツドリンクを飲み干していく。

 ペットボトルの中はすぐに空になってしまった。すごい飲みっぷりだ……。


「ふう。ありがとう、ぼく」

「ど、どういたしまして……」


 お姉さんからペットボトルを受け取る。

 僕らはその後、森の近くの木陰に移動した。

 元気になったお姉さんの顔は鼻が高く、小顔で背も高い。多分、百七十センチはあると思う。時折吹く涼しい風で長い髪がなびくと凛とした彼女の姿が一層映える。だが、そんなお姉さんがスポーツドリンクをがぶ飲みしていたのを思い出すと、姿に似合わずギャップを感じてしまい、怖い。


「あの、お姉さんこのあたりで見かけませんけど、何でこの神社に?」


 風馬さんが尋ねるとお姉さんは、後ろを振り向き石垣の上にそびえる本殿を眺めた。


「ちょっと調べたいことがあってね。あたし、大学生なんだけど。そうだ、自己紹介がまだったったね。あたし、あまがせ千夏ちか。よろしくね」

「私は風馬ふうま鈴美すずみっていいます! それで……」


 風馬さんは僕を見た。え、自己紹介するの!?


「ぼ、ぼ、僕は卯花うのはな清弥せいや、です。よろしく……」

「卯花……?」


 焦って言葉を詰まらせた。

 しかし、尼ケ瀬さんは不思議そうな顔をしていた。


「どうか、したんですか?」

「いや、別に」


 そして、尼ケ瀬さんは


「スズミちゃんにセイヤくんね。よろしく。あたしのことは下の名前で呼んでくれたらいいから」

「わかりました! チカさん!」


 風馬さんはにっこり笑って尼ケ瀬さんの下の名前を呼んだ。


「さ、卯花くんも」

「え、えと……。よろしくお願い、します。チカ、さん……」


 正直、家族以外で下の名前で呼ばれたり、呼んだりするのはかなり抵抗があった。たぶん、いじめの後遺症だと思う。

 その後、風馬さんは僕らが中学生であることを話した。一方、チカさんは県外の大学に通っており、出身はこの八百市だった。大学のゼミで八百とその周辺地域の伝承を調べていて、卯花神社にはその調査で来たらしい。


「ま、フィールドワークってやつね」

「ふぃーるどわーく?」


 風馬さんは首をかしげる。僕にとっても初めて聞く言葉でなぜか異世界の言語のように聞こえた。


「外に出て実際に聞き取りとか、観察とかしたりすることよ。あたし、特にいま人魚について調べてるの」


 その言葉に反応したのか、風馬さんの目がチカさん一点に集中した。彼女の目がなぜか輝き始めている。


「人魚? わ、私もです! 私も夏休みの自由研究で調べてるんです! 八百に伝わる伝説で、なんか、すっごい不思議で神秘的ですよね!」


 だが、目が輝き始めたのは風馬さんだけではなかった。


「偶然! あなたもなんだ! このあたりってね、人魚の伝説もそうなんだけど長寿にまつわるお話が多いんだ。昔、中国からお坊さんが渡ってきて聖水を――」

「そうなんですか! それで――」

「でね――」

「――」


 僕の目の前で二人は熱く語り始めた。神社の中は静かで涼しいのに、二人の近くは熱い。熱気が僕にじかに伝わってくる。

 そして、僕は二人の熱弁についていけず完全に蚊帳かやの外だ。

 あの、特に風馬さん。社務所の資料を見に来たんじゃなかったの?

 だが、コミュ障の僕に二人は入り込む隙間など与えてくれるはずがなかった。


「で、この卯花くんの家がここの神社やってるんです! それで研究の資料集めに来てたんです!」


 いきなり風馬さんは僕の肩に手を置いた。妙に暖かな風馬さんの手。思わず僕の心は震えあがった。


「へえー。すごいね、セイヤくん」


 チカさんはひざに手を当ててかがみながら、僕に顔をのぞかせた。シャツの襟の隙間から一瞬だけだが、胸の谷間が見えた。

 僕は必死で目をそらせた。見ちゃだめだ! 偶然だけど、見ちゃだめだ!

 さっきから突発的に理性を揺るがす光景が連発していて、僕は必死で高ぶる “何か” を抑え込んでいた。


 チカさんは僕から顔を離すと、涼しげな緑に囲まれた境内を見渡した。


「でも、ここには探したいものはないかな」

「え?」


 僕から高ぶっていた “何か” は心の奥底に鳴りを潜めた。


 チカさんは石垣の下に置いていた大きなリュックを持ち上げた。そのリュック、とてつもなく大きく高さは一メートルもある。まるで、テレビとかで見る冒険家やバックパッカーのリュックみたいだ。すごく重そうだけど、なんとこのチカさん。片手で軽々と持ち上げていた。

 僕は口をあんぐり開けることしかできなかった。

 しかし、そんな僕にお構いなくチカさんは話を始めた。


「助けてくれたお礼をしないと。この前調査に協力していただいた人からもらったんだけど」


 チカさんはリュックから縦三センチ横十五センチほどのカラフルな包装紙にラッピングされた箱を取り出した。


「はい、これ。あなたにあげる」


 チカさんは僕にその箱を手渡した。


「え、僕に……、ですか?」

「スポーツドリンクをくれたお礼よ」

「いいんですか?」


 チカさんは笑顔で頷いた。


「命の恩人だもん」


 なぜか僕は照れくさくなった。顔に少し熱っぽさを感じた。

 だが、すぐに隣から嫌な視線を感じた。眼球を右に動かしてみると、風馬さんがうらやましそうな目を僕に向けている。


「あー、卯花くんずるいぞー!」

「え、でも……」


 慌てて箱を確認するが、もらったお土産は一つしかない。その事実を知ると風馬さんは頬を大きく膨らませた。


「ちぇー。私には何もないんですねー」

「ご、ごめんなさい」


 思わず頭を下げてしまった。いや、僕が謝ることじゃないかもだけど。

 チカさんは口に手を当てて笑いながらも、


「でも、それ今は開けちゃだめだよ。あたしがオッケー出すまでね」

「なんでですか?」

「それはヒ・ミ・ツ!」


 チカさんは人差し指を口に当ててウインクした。口元に笑みを含ませ、意味深な表情を見せていた。

 もらったものなのに、チカさんの許可がいるの? 何かびっくりするものでも入ってるのか? それともまずいものもらったんじゃ……。

 僕は過剰に心配してしまった。


「あの、チカさん。私は……」


 風馬さんは物乞いする少女(読んでいた小説にそんなキャラがいた)のような目でチカさんを見つめていた。


「スズミちゃんはまた今度ね。ごめんね」

「えー、そんなあ……」


 風馬さんはがっくりと肩を落とし、同時に顔も地面に向けられ、ため息は地面に落ちた。


「じゃあ、また今度ね。あたし、しばらく八百にいるからひょっとしたらまた会うかもしれないわね。その時はよろしくね!」

「あ、はい! さようなら!」


 僕は手を振った。

 チカさんはにっこり頷くと、とても大きなリュックを片手で持ち上げて背負い、神社をあとにした。

 僕と風馬さんはその後ろ姿をずっと眺めていた。


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