第216話

「貴女は……、貴女が、どうして彼女と――!!」


 空き病室のベッドにメルヴィナを押し倒したアルフェは、相手の四肢の動きを完全に封じて、その口を手のひらで塞いでいる。身体を密着させて、あと少しで触れそうな至近距離から、怒りに燃えた瞳で彼女はメルヴィナをにらみつけていた。

 メルヴィナは、アルフェの下から逃げる事も、助けを呼ぶ事もできない。それどころか、この女の口を塞いでいる手に、アルフェがほんの少し力を込めれば、メルヴィナのか細い首は、いとも簡単に折れてしまうだろう。


「なんで、どうして――!!」


 しかし、メルヴィナに恨み言らしきものをぶつけながらも、アルフェはメルヴィナを殺そうとはしなかった。

 アルフェにとってこの黒髪の死霊術士は、憎き師の仇と行動していた、紛れもない敵である。ラトリアの旧臣クラウスと関係があるなど、この女には謎な点も多い。だが敵だ。敵に違いない。

 そう、敵だ。この女が何者かなど、そんな事はどうでも良い。敵なのだから殺してしまえ。そうすれば、この女に笑いかけていた彼女の顔も、思い出さなくて済む。


 ――駄目!


 アルフェは手を震わせながら、必死に思い留まっていた。

 「師の仇と行動を共にしていた」という大義名分以外に、今のアルフェには、メルヴィナを殺してしまいたいと思う理由があった。だがそれは、とても人を一人殺す理由にはならない、理不尽なものだ。


 この女は、ステラの前で、ステラと一緒に、まるで彼女の友達のように。


 私は、彼女の前から逃げ出さなければならなかったのに。


 私は、彼女と友達になることを諦めたのに。


 私も本当は、あの子と友達になりたかったのに。


 それは十分に、死に値する理由ではないだろうか?


「~~~~~~ッ!」


 アルフェは奥歯を噛みしめて、その考えを己の頭から振り払おうとした。

 まだこの女は殺せない。殺してやりたいが、殺すのは合理的ではない。殺すなら色々と聞き出してからだ。

 アルフェが拘束する力を強めると、メルヴィナはアルフェの手のひらの下でえずき、苦しそうに表情を歪めた。そして、命を取れなくとも、メルヴィナが苦しそうにするだけで、アルフェは自分が奇妙な満足感を覚える事に気が付いた。

 しかし、その満足感の後ろには、どうしようもない自己嫌悪が付いて来た。

 アルフェには分からなかった。今の自分を支配している感情の正体が。コンラッドが死んだ時の怒りや憎しみとは、少し違う。憎い事は憎いのだが、こういう憎しみの形を、アルフェは初めて経験した。


 だがどうする。ここからどうするべきだろう。

 この女を殺す。それは駄目だ。この女からは、まだ聞きたい事を聞けていないし、それに何より、さっきこの女は、ステラを守るために行動していた。

 治癒院にやって来た不審な男とメルヴィナが戦う場面を、アルフェは見ていた。そこでメルヴィナが死霊術士だという事も再確認させられたが、その術を使って、この女はステラに降りかかろうとしていた危険を排除した。つまりこの女は、ステラを守るために行動した、ステラの友人に間違い無い。

 きっとアルフェなどよりも、この女は余程、ステラと親しい。

 だから、殺してやりたいが、殺せない。殺したら、ステラが悲しむだろうからだ。


「ううううううう!」


 もどかしさに、アルフェは野犬のようなうなり声を上げた。


「誰――!?」


 そこで、アルフェたちがいる病室の前の廊下から、声がした。その声の主は他でもない。


「メルヴィナさん!? そこに居るの!?」


 ステラが目覚め、メルヴィナを探しに来たのだ。

 ステラが扉を開け、病室の中に踏み込んでくる。考えるよりも早く、アルフェは行動した。


「メルヴィナさん!」


 呼びかけても、その部屋には既に誰も居ない。部屋に入ったステラの目には、開け放たれた窓と、揺れるカーテンだけが映っていた。



「………………そいつも?」


 フロイドが呆れたように呟いたのは当然だ。

 アルフェは後ろめたさに、一瞬びくりと身体を震わせた。彼女は肩に、メルヴィナの身体を担いでいる。黒髪の死霊術士は、アルフェに当て落とされて、意識を失っていた。


「……まあ、その気持ちは、分からないでもないですが」

「…………」


 慰められて、アルフェは余計に情けなくなり、顔をうつむかせた。

 しかしそう言うフロイドも、小脇に女を抱えている。それは、元は彼らが治癒院に運び込んだ、この件の原因となった女だ。

 いっそこの女が目覚める前にあそこから攫ってしまえば、妙な者たちが治癒院とステラを狙う理由もなくなる。そう考えたアルフェが命令したからだ。ステラの治癒術によって、傷はもう塞がっているのだ。多少乱暴に連れ出したところで、命に別状もあるまいと。

 だが、それはそれで別の問題が発生する。メルヴィナが居なくなって、さらに患者まで連れ去られたステラは、どんな風に思うだろうか。人が二人消えた治癒院では、きっと大騒ぎになるに違いない。それを考えると、また頭を抱えたくなる。

 いっそ、馬鹿な事は止めろと制止して欲しいくらいだったが、フロイドは、「とにかく早く運ばないと」と言った。


 二人は無言で移動した。隠れ家にたどり着くと、ゲートルードがそこに居た。彼への説明もそこそこに、フロイドは怪我人を空き部屋のベッドに寝かせ、アルフェはメルヴィナを自分の部屋に運んだ。

 怪我人はともかくとして、メルヴィナは敵だ。本当ならば、石壁に囲まれていて頑丈な、使われていない地下の酒蔵に押し込めようと思ったのだが――


 ――どうして私は、ここから出てはいけないの?


 そんな事をしている自分自身に対して、例えようも無い忌避感が襲ってきたので、アルフェは自分の部屋を使うことにしたのだ。


「ううう…………」


 それでも、自己嫌悪が無くなる訳ではない。アルフェはメルヴィナを寝かせたベッドの横で、顔を覆ってしゃがみ込んだ。


「アルフェ、あの女が目を覚ましそうだ」


 そして、アルフェを混乱させる要素は、次から次へとやって来る。フロイドによれば、攫って来た時の衝撃によってか、眠り続けていた女がかすかに呻き、目覚めそうになっているというのだ。


「あっちは、俺とゲートルードで事情を聞いておくから」


 やたらと労るような声音で、フロイドはそう言った。彼の目にも、アルフェがいつも通りではない事が見えているのだろう。フロイドが去ると、アルフェは自室でメルヴィナと二人きりになってしまった。

 越してきて間もないからというのもあるが、アルフェの部屋には、年頃の娘らしい私物はほとんど無い。本棚には、彼女が旅の途中で集めた本が並べられ、クローゼットには防具と、数着の衣装が架かっている。部屋に元から据え付けてあった古い化粧台には、これで最低限の身だしなみを整えろとフロイドから渡された、小さな手鏡が置いてあった。そして残りは、野営に使う道具がいくつか。

 しかしこれでも、城を出たばかりの、何も持たなかった頃のアルフェと比べれば、部屋の中には沢山のものがあったのだ。


 その部屋の中で、床の板張りにへたり込んだまま、ベッドで静かに胸を上下させているメルヴィナを見つめていると、アルフェの中にも落ち着きが戻ってきた。ステラの居る治癒院から離れた事で、どうにか冷静さを取り戻したとも言う。

 事の経緯はどうあれ、この死霊術士を手中に収めた事は、非常に大きな収穫だった。コンラッドの仇の情報を得るために、決してこの女を逃がしてはならない。アルフェの頭の中にある冷静な部分は、強くそう主張している。


 しかし、この女はステラの友人だ。友人と患者に危害を加えたアルフェの事を、ステラは何と思うだろうか?


「だからそんな事、どうだって良いでしょう……? もう、嫌…………」


 冷静になったはずなのに、どうしても割り込んでくる余計な思考に、アルフェはその美しい銀髪を乱して、頭を抱えた。




「まだ意識が朦朧としてるが、命には別状無さそうです。栄養を与えて、一日くらいは様子を見ないと、喋る事は難しいとゲートルードが言っています」


 それから数時間経って、フロイドがアルフェの部屋に報告に来た。その女については、もうどうでも良いと言いかけたアルフェだったが、その言葉を実際に口にしてしまうのは、自分に振り回されながら手を尽くしてくれている彼らの手前、余りにも無責任だ。


「……ありがとうございます」


 どう言うべきか迷ったあげく、アルフェは心のこもらない礼を言った。髪をぐしゃぐしゃにして、床にへたり込んでいるアルフェに対して、フロイドもまた、どういう言葉をかけるべきか悩んでいるようだ。


「……この女が、憎くなったんです」

「…………」

「……ステラさんと、この女が話しているのが、許せなくなりました」


 やがて、報告を終えても部屋を去ろうとしないフロイドに、アルフェは己の心情を吐露しはじめた。


「この女は、お師匠様の仇の味方です。……でも、そういう事とは別に、急に許せなくなりました。……同じように、ステラさんの事も」


 どうして私の敵に、そんな信頼を込めた笑顔を向けるのか。その事が突然腹立たしくなったと、まるで罪を告白するように、アルフェは語った。


「……変ですよね? こういう感情は、やっぱりおかしいですよね? …………やっぱり、私は」

「分かった」

「……え?」

「何となく分かった。……つまり貴女は、あの治癒士の娘の事を知り合いだと言ったが、そうじゃない。友人だと思っていた訳だ」


 そう言いながら、フロイドはアルフェの横にしゃがみ込んだ。

 あの娘は、アルフェにとって大切な友人だった。その友人が、敵と見なしている者と談笑するのを目の当たりにし、友に裏切られたと思ったのだ。アルフェが暴走してしまった理由を、フロイドはようやく理解した気になった。


「別にそれは、おかしい事じゃない……はずだ。友が、自分の気に入らない奴と話していたら、誰でも不愉快になる。俺だってそうだ」


 そしてこの娘の場合、ちょっと行動力があり過ぎた。

 しかし、そんな普通の人間にとって当たり前の感覚を、さも初めて体験した事のように語っているのは、やはりこの娘の育ちが特殊だからなのだろう。


「今まで、こういう経験は無かったのか?」


 フロイドが尋ねると、アルフェはしばらく考え込んだ。


「そう言えば、お師匠様が……」

「うん」


 やがて、アルフェが思い当たったような顔で口にしたのは、やはりその名前だった。彼女にとってはどんな感情も、まずはその「お師匠様」から始まるのだ。


「お師匠様が、ローラさんと話している時に、これと同じような感じがしました」

「ローラさん?」


 それは、フロイドの聞いた事の無い名前だった。しかし、それが女の名であるという事は自明だ。その女は、アルフェの「お師匠様」の恋人か何かだったのだろうかと、フロイドは邪推した。


「ローラさんがお師匠様と話している時も、私は嫌でした。……ほんの少し」

「それは……」

「でもそれは、今度のものとは、少し違う感じもします」

「なるほど……」


 アルフェを暴走させた感情については、フロイドも嫌になるほど良く知っている。敢えて言うなら、この感情の名前は「嫉妬」というのだ。


 ――だが、そうか。


 友を敵に奪われたと思って、今回のアルフェは嫉妬し、暴走した。それは良く分かった。しかし、今、彼女が告白した事については、フロイドは己の胸の内に収めておこうと思った。

 友に対するものとは別の形で、アルフェは自分の師の側に居る女に対して、気付くか気付かないくらいの僅かな嫉妬心を抱いていたという。そこに育ちかけていた感情の名前を、今さらこの少女に伝えてしまうのは、余りにも残酷で悪趣味過ぎる。


「心配要らない。貴女は普通だ。それは、普通の人間なら誰でも持つ、普通の感情だ」


 それくらいしか、フロイドに言える慰めの言葉は無い。事実、アルフェは普通の娘なのだ。普通の人間の心を持っている。きっと、普通に育ちさえしていれば、普通の娘として生きられた。

 その「普通」を、一体どこの誰が、何のために奪ったというのか。

 フロイドの言葉をどう受け取ったのか、アルフェは疲労からクマの浮かんだ目をぱちくりさせると、抱え込んだ己の膝に、顔を埋めてしまった。多分、この死霊術士が目を覚ますまで、彼女はここから動かないだろう。


「何かあったら、すぐに呼んで下さい」


 アルフェには、しばらく思考を整理する時間が必要なのかもしれない。

 フロイドは立ち上がり、彼女の部屋を出た。

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