第211話
「本当に酷い匂いですね。どうにかなりませんか、フロイド」
「俺に言わないでくれ……。それより、主人に付き合わされて、こんなところに来る羽目になった家来の事を思いやって欲しい」
アルフェとフロイドの言葉は、どちらも少しくぐもっている。彼らは、口と鼻を覆うように、スカーフのような布を巻いているからだ。
ふごふごと、アルフェは布の下から声を出した。
「騎士は主のためならば、例え火の中水の中、でしょう?」
「何だ、その台詞は?」
「この前読んだ本に書いてありました。帝都で流行っている舞台の脚本で――」
「また、悪いものに影響を受けて……。それに、主のために火や水には入れるかもしれないが、下水の中にまで入るつもりは無い」
「つもりは無くても、付いて来てるじゃないですか」
「本当に、自分の忠義っぷりに涙が出る」
そう、現在のアルフェとフロイドが居るのは、帝都の地下を走る下水網である。帝都には、上水道と下水道がほぼ完備されている。そして、地上にある建造物から出た廃水は、ほぼ全て、彼らがいるこの地下下水道に流れ込む仕組みになっている。
百万都市の廃水を受け止める下水道は、当然汚物が溢れんばかりになっていて、鼻が曲がりそうな酷い匂いがする。主要な水路には整備用の通路が通っていて、歩くのに不自由はしないが、臭気だけはどうしようもない。
「胸が悪くなってきた……。嗅覚を保護する魔術とか何か、ゲートルードは、そんなのは使えないのか……?」
「そういう種類の魔術は、無いそうです。そう都合良く行きませんね」
ゲートルードによると、この下水道も、大部分が古代の遺跡を元にしているらしい。結界にまつわる遺跡よりも成立年代は新しいが、都市の地下に縦横に走っているこの水路を利用すれば、帝都の思わぬ場所にも行けるそうだ。それこそ、神殿騎士団本部要塞や、宮殿内部にも入り込めるかもしれない。
という事で、「いざ」という時に使えないかと、アルフェはフロイドと二人、下水の探索をしている訳である。
アルフェとフロイドは、口と鼻を覆う布をして、平たいフェルトの帽子を被り、長袖のシャツとズボンを着て、長靴を履き、手袋まではめている。下水の清掃員――というよりも、一歩間違えれば盗っ人か何かに見える格好だ。
しかし、怪しまれる心配は無い。アルフェはフロイドに命じて、冒険者組合で、まさに下水の清掃の依頼を受けさせてきた。もしも誰かに見つかっても、これは仕事だからで言い逃れる事ができる。少なくとも、アルフェはそう思っていた。
「フロイド、今どのあたりでしょう?」
「ええと、さっき商業区を抜けたから……、植物園の真下くらいに居るはずだ」
「植物園……。大聖堂付きの治癒院では、薬草園としても利用されているそうです。ある意味、教会と関係が深い建物ですね」
「じゃあ、一応印を付けておく」
清掃を行うために冒険者組合で引き渡された地図は、酷く不完全なものだった。アルフェたちは歩き回りながら、主要な施設の位置を記し、地図を補完する作業をしている。
もちろん、自分の目的に沿って行動しながら、アルフェは冒険者として、清掃の依頼も全うするつもりだ。彼女が両手に、鉄製のシャベルやブリキのバケツといった道具を持っているのは、そのためである。
「しかし、大丈夫だろうか」
しばらく探索を進めてから、アルフェが一生懸命にシャベルで下水の底をさらっていると、フロイドが首を傾げた。
「何がです? ――あ、ランタンの位置をずらして下さい。そう、それでいいです」
「貴女は知らないだろうが、帝都の下水には、色々と妙な奴らが住み着いているという話だ。浮浪者もそうだが、それ以外にも……」
「言いたい事は分かります。暗殺者ギルドや盗賊ギルドの本拠地が、ここにあるとかいう噂でしょう?」
「知ってたのか……。なら話は早い。そういう奴らと鉢合わせる事になったらどうします」
「この下水は帝都と同じくらい広いんです。それに、そういう人たちは、普通の清掃員に見つからないように、ちゃんと考えて隠れているに決まっています。簡単に鉢合わせたりしません」
「まあ……そうか。確かに」
「少し考えすぎじゃないですか? ――あ、ちょっと、暗い、暗いですよ」
誰のせいだと思っていると、慎重癖と苦言癖が付いて来たフロイドは、突飛な行動ばかりする主君に対する抗議代わりに、ランタンの角度を変えた。
「でも、私も少しだけ気になっている事があります」
探索と清掃の休憩がてら、少し広い場所を見つけたアルフェは、そこの石に腰を下ろすと、話題を別の方向に向けた。長時間ここにいると、匂いにも大分慣れてきたのか、彼女は口元のスカーフを、少し緩めるような仕草をしている。
「気になる? 何です?」
「最近、帝都で何回か、地震があったという話を聞いていますか?」
「……それか。聞きました」
帝都では数ヶ月前、冬の終わりに大規模な地震が発生した。その地震は、アルフェがキルケル大聖堂の地下で、太古の巨獣を目にした時に引き起こされたものだ。巨獣が身じろぎした事で生じた地震は、トリール・ノイマルクだけでなく、遠く離れた帝都にまで影響を及ぼした。
そして、地震はその一回に留まらず、その後も何回か、断続的に起こっているという。
アルフェが今腰掛けている石も、実を言うと地震の揺れによって天井から剥離した壁材の一部だ。通常の清掃員だけでなく、冒険者にまで下水の清掃依頼が出ているのは、破損部分を補修する必要が出た事に加え、普段は詰まらない場所が詰まったりしたことで、手が回らなくなったという事情もあるそうだ。
「帝都の大聖堂の地下にも、あの巨獣と同じようなものが居る事は、間違い無いはず。もしかしたら、地震はそれと関係があるのでしょうか」
「関係とは?」
「例えば、地下の化け物が目覚めようとしているとか」
「まさか……何か心当たりでもあると?」
「いえ、別に。でも、結界がああいうものなら、そういう事だって有り得るのだろうかと考えただけです」
本当にそうなると思った訳ではない。アルフェは純粋に、ただの想像として口にしただけだ。
フロイドは、驚かせないで欲しいとため息をついた。
「しかし、足下に怪物が眠っていると考えると、途端に落ち着かない感じになるな……。昔はあれが、外の世界を自由に歩き回ってたんだろうか?」
「そもそも、人間が住んでいるのはこの大陸のごく一部らしいですから、奥地にはまだ、普通に歩いていたりするのでは?」
「……そう考えると、気が遠くなる」
「考えても仕方無いという事かもしれません」
そう言うと、アルフェは壁に立て掛けていたシャベルを握り、立ち上がった。
「さあ、休憩は終わりです。仕事を再開しましょう。このペースでは、組合から提示されたノルマを達成できません」
「途端に話のスケールが小さくなったな……。というか、別に清掃の方まで真面目にやる必要は…………分かった。分かりました。真面目にやりましょう。にらまないで欲しい」
◇
地図の作成と清掃に一区切りを付けると、彼らは帝都商業地区の裏通りに設けられた縦孔から、地上に這い上がった。既に日は沈んでいる。大通りは街灯の光に照らされていて、その明かりが裏通りまで漏れてきている。街灯が整備されているため、帝都の人間は眠るのが遅い。酒場だけでなく、普通の商店にもまだ営業している店があるようだ。大通りには、活発に人が行き交っている気配がする。
できるだけ汚れないように気を付けて作業をしていても、アルフェたちの服や顔には、何カ所にも泥が飛んでいる。きっと匂いも酷いだろう。
「風呂に入らないといけませんね」
そう言ったのはフロイドだ。アルフェはそこではじめて気が付いたように、自分の腕や胸元を嗅ぐ仕草をし、確かにそうですと同意した。帝都の一般庶民は、都内に何カ所もある浴場を利用するのが普通だが、アルフェたちの隠れ家には内風呂もある。
地図の完成には、もう何日か必要そうだ。大聖堂や神殿騎士団本部要塞の周辺には、今日はたどり着けなかった。
「大通りは目立ちますから、裏道を抜けていきましょう」
アルフェがそう提案し、二人は暗い裏通りを進んだ。街灯があり、夜でも明かりを灯した家も多いせいか、帝都では逆に、星の光が弱く感じられる。
「……ん?」
隠れ家に向かって歩いていると、アルフェは裏通りに妙な気配がある事に気付いた。
フロイドも気が付いているようだ。アルフェが目配せすると、フロイドは頷いた。
誰かが戦っている。
ただの喧嘩ではない。剣戟が混じった、殺し合いの音だ。
アルフェはフロイドに、シャベルを投げ渡した。今日のフロイドは帯剣していなかったから、武器代わりだ。
――だから言っているでしょう? 武器に頼るのは、こういう時に不便です。
――はいはい。
声に出さず、二人はそういうやり取りをした。
気配と音を殺して剣戟の発生源に近付くと、暗闇の中で、一人が三人に襲われているのが見えた。
戦っている全員が、ナイフを手にしている。訓練を積んだ者の動きだ。一人の方は善戦しているが、所詮は多勢に無勢のようだ。徐々に追い詰められ、なぶり殺しになろうとしていた。
どうすると、フロイドが目でアルフェに指示を仰いでくる。
アルフェにはこの者たちが何者か、ある程度想像が付いていた。どうやらこれは、帝都の裏で行われている暗闘の一端のようだ。最近の帝都では、選帝会議に浮き足だった街の陰で、闇討ちや乱闘が頻発しているという。放って置いても構わないが、それはそれで手がかりを見過ごすようでもったいない。
アルフェが軽くあごをしゃくると、フロイドが前に出た。
「待て」
フロイドが声をかけると、戦っていた者たちは、そこでようやく第三者の出現に気付いたようだ。一人を襲っていた三人が、はじかれたように振り向いた。三人とも男だ。
襲われていた一人は、既にぼろ雑巾のようになっている。それでも、這いずるようにその場を逃げだそうとしていた。目を凝らすと、それは女である事が見て取れた。
「一人によってたかっては、少し卑怯じゃないか? 俺が助太刀するくらいで、ちょうど良いだろう」
フロイドは、倒れている一人に加勢する形で、戦闘に横やりを入れる事にした。
シャベルを持った、泥だらけの作業着姿の男の出現に、立っている三人は何を感じたのか。三人の内の一人が、手だし無用だとつぶやいた。
「ふん」
フロイドは構わず、シャベルを右手にぶら下げるようにして歩を進める。三人の男から、殺気が押し寄せてきた。
ナイフを持った二人が、左右から挟み込むようにフロイドに斬りかかった。フロイドはほとんど同時に、二人の手首をシャベルで跳ね上げる。鈍い音がして、二人の手から刃物が弾き飛ばされた。
アルフェはくるくると飛んで来たナイフの一本を、指で挟んで受け止めた。刃に鼻を寄せて匂いを嗅いでみたが、毒の匂いはしない。
そうしている間に、フロイドは既に二人を倒している。シャベルの縁で斬るようにせず、腹で側頭部を叩きつけたのは、殺さないようにしようという意識が働いているのだろう。残る一人を倒そうと、フロイドはその男に目を向けた。
「あ」
しかしその時にはもう、最後の一人はフロイドに背を向けて逃げ出していた。素早い判断だ。男は裏通りではなく、明るい表通りに向かって駆けていく。アルフェは一瞬、その男の首に、受け止めたナイフを投げつけようと思い、右腕を振りかぶった。
「…………」
だが、アルフェは投げなかった。彼女は腕を下ろした。
最後の一人が完全に逃亡すると、フロイドがアルフェの側に寄ってきて言った。
「済みません、一人逃がしてしまった」
「いいですよ、別に」
これだけ居れば十分ですと、アルフェは地面に倒れている三人――フロイドが打ち倒した二人の男と、元々その二人に襲われていた一人に目を向けた。
取りあえず、フロイドは自分が昏倒させた二人の内の一人に活を入れた。そして、その背中を片足で踏みつけながら、首にシャベルを突きつけて凄味のある声を出した。
「お前らは何者だ? ここで何をしていた」
尋問された男は、フロイドを見上げると、口元を歪めて声を出さずに笑った。
「あ、おい、待て――!」
フロイドの制止を聞かず、男は口の奥で何かを噛み砕いた。そして、男の身体がびくりと痙攣し、口から泡を吹いて倒れた。恐らく、毒を飲んだのだ。しまったと思いながら、アルフェがもう一方の男に目を向けると、そちらも既に死んでいた。
「ずいぶんと、潔い人たちですね……」
負け惜しみ代わりに、アルフェは口にした。
自身の名前も所属も言わず、男たちは自ら命を絶った。だが、その行為自体が、男たちの属している組織を、ある程度アルフェに想像させる。
「暗殺者ギルド……?」
「それとも、神殿騎士団の暗殺部隊という奴か? 簡単に鉢合わせないと言ったのは、貴女の間違いでしたね」
「一々皮肉を言わないで下さい」
アルフェがむくれると、フロイドは肩をすくめた。
「う……」
その時、暗闇の中で呻き声がし、二人はそちらに顔を向けた。
忘れるところだったが、ここにはもう一人居たのだ。最初に三人に襲われ、ずたぼろになっていた女だ。女は石畳に血の筋を残し、這ってかなりの距離を進んでいた。アルフェたちが側に寄って見下ろすと、女は虫の息になっていた。
だが、治療すればもしかしたら助かるかもしれない。
「どうします?」
フロイドがアルフェに尋ねた。
方向性は幾つかある。さっきの男たちと同じようにここで尋問を試みるか、放って置くのか、それとも、治療を試みるのか。
アルフェは、女が石畳に残した血の跡を見た。男たちが潔く命を絶ったのとは逆に、みっともなく生き伸びようと足掻いた跡だ。
「……連れて帰りましょう」
隠れ家に運び込んで、治療を施し、もし死ななければ尋問してみよう。アルフェはそう考えた。
「良いんですか?」
それは、色々なリスクを背負う行為だ。それにどのみち、この女が所属している先は、アルフェの味方では有り得ない。それらの意味が籠ったフロイドの問いかけに、アルフェは答えた。
「私などがこんな事を言うのは、おこがましいのかもしれません。……でも、私は最近」
アルフェは汚れた上着や手袋を脱いで、女の傷を手早く止血した。
「少しくらい優しい人に……、なれたらいいなと、思っているんです」
だから、倒れている人に止めを刺したり、生き延びようともがいている者を見捨てたりするような真似は、あまりしたくない。私などがそう考えるのは変でしょうかと、アルフェは目を伏せてつぶやいた。その顔は、羞恥で耳まで真っ赤に染まっている。
優しくなりたいと思う事が恥ずかしいのか。アルフェの事を知らない人間には、変わった感覚に思えるかもしれない。だがフロイドは、彼女を肯定するように、真剣な顔で首を横に振った。
「いや、そんな事は無い」
そしてフロイドも汚れた上着を脱ぐと、アルフェの代わりに、瀕死の女を両腕で優しく持ち上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます