第154話

 例えそれがベレンの姿をしていても、アルフェには、それを引き裂くのにためらいは無かった。人狼が爪を振るうように、アルフェは魔力を乗せた己の右手を、ベレンの姿をしたディヒラーめがけて繰り出した。

 当然のように手応えは無い。これも幻影だ。霞のように、ディヒラーの姿はかき消える。


「こっちだ」


 背後から声をかけられると同時に、アルフェは手刀を振るった。

 今度は手応えがあったと感じた。ディヒラーの首に命中した手刀は骨を折り、首はほとんどちぎれたようになって、血しぶきが噴き出すのも見えた。身体が地面に横倒しになり、細かな埃が舞うのも見えた。

 しかし、それも幻である。次の瞬間には、その映像も全て無かったことになった。アルフェの手には、確かに骨が折れ、筋肉が裂ける感触が伝わってきた。血の匂いもした。だがそれすらも、ディヒラーによって精巧に作り出された幻である。


 ディヒラーの幻影は、一般的な不可視の魔術などのように、光を操って虚像を映し出しているのではない。彼は相手の五感に直接働きかけ、支配しているのだ。

 ただ視覚を奪うだけでも高位魔術に相当するのに、全く相手に悟られぬ間に、五感全てを同時に奪う。この技術こそ、ディヒラーが大陸最高の幻術士と謳われる所以である。

 その意味で、アルフェは既にディヒラーの術中にあった。

 そして、相手の五感を支配しているということは、こういうことも可能になる。


「ほら、どうした。俺はこっちだぞ」


 ディヒラーはベレンの口調を真似て、アルフェを挑発した。

 今の彼女に、それを受け流す心など存在しない。怒りに髪を逆立たせて、アルフェは上段の蹴りを放った。


「――――ッ!?」


 右脚で放った彼女の蹴りは、ディヒラーに届かなかった。いや、届く届かないの問題以前に、いつの間にか、「アルフェの右脚は無かった」のだ。

 太ももから綺麗に割れた断面から、噴水のように血が流れ、ディヒラーに降りかかる。痛みと驚愕で、アルフェはバランスを崩し、地面に転倒した。


「ぐううううう!」


 違う、右脚は取れていない。取れてるはずがない。身をよじりながら、アルフェはそうやって念じた。

 有るはずだ。有るはずなのに、まるで無いかのように思えてしまう。この痛みも本物だ。血が流れ、衰弱していく感覚まで有る。立とうとするが立てない。右脚が無いからだ。いや、無いはずが無いのに。

 もしかしたら、気付かない内に、本当に脚を切断されたのか?


 ――違う! 違う!


「はははは」


 虫のようにもだえるアルフェを、ディヒラーはさも愉快そうに笑いながら観察している。


「自分の見ているもの、感じているものが、本物かどうか分からなくなっていく。恐ろしい感覚だろう?」


 ディヒラーはアルフェを至近から見下ろしている。隙だらけに見えるが、そうして見下すだけの実力差が、二人にはあった。


「その気になれば、俺はこうして何もかもを騙せる。パラディンすらもな。大聖堂にかけられた封印さえ騙してやった」


 しかし、これほど卓越した技量を持ちながら、ディヒラーはベレンとの直接戦闘だけは避けてきた。それはベレンの携えた大剣に、幻影を打ち破る魔術が施されているからだ。即ち、ディヒラーの幻術も、所詮は人間の行いである。彼自身が言うような、御大層なものではない。破る方法など、いくらでも存在する。

 だがこの場において、ディヒラーはまるで、自らが万能であるかのように語っていた。それはかつて彼自身が、主人のヨハンナに警告した傲慢と、どう違うと言うのだろうか。


「本来、あの子供は封印の鍵としては不適格だった。それを触媒として用いることができたのは、俺の幻術があったからだ。まあ、結果として鍵は使い捨てになってしまったが。それはやむを得ないな」


 子供を封印の鍵として使い捨てた。言わずもがな、それは秘蹟の間で首を掻ききられたイエルクの事だった。

 父親であるベレンの姿で、イエルクを殺した時の様子を、これほど喜々として語る。アルフェは片脚を失った感覚を振り切れないまでも、手で這ってディヒラーの脚ににじり寄ろうとした。


「さあ、どうした」


 アルフェの手がディヒラーに届いた瞬間、ディヒラーの姿はまたもや消えた。


「しかし、本当に面白い娘だ」


 アルフェの真横に出現したディヒラーは、あごをしごきながら感心した声を出した。


「俺も長いこと幻術を使ってきたが、こんなに魔術をかけにくい人間は初めてだよ」


 アルフェはしっかり幻術に囚われているが、ディヒラーの視点では、他の人間と何かが違ったのだろうか。ディヒラーはそんな事を言った。


「やはり、先にかけられている心術の影響か……? そんなもので何を隠そうとしたのか。……ふふ、俺も節操がない。今度は俄然、お前自身に興味が湧いてきたなぁ」


 ベレンの家族を助けるという約束も果たせないで、それをやった張本人に、好き勝手な事を言わせている。アルフェは心臓が張り裂けそうなほどにそれが悔しく、それ以上に、自分の無力が許せなかった。


「ディヒラー……!」

「虫のようだな、まるで」


 アルフェの声を無視し、ディヒラーは言った。


「足をもがれた地虫のようだ。……そう言えば、子供の頃にこういう遊びをした気がする。――ほら」

「――ぐぅうううううッ!?」


 ディヒラーは、今度はアルフェの左手を、無造作にもいでしまった。右脚のように綺麗に切断したのではなく、力任せにねじ切るように。

 さっきの幾層倍もの痛みが、アルフェを襲った。


「どうだ。より虫らしくなったぞ」


 こんな事をして、ディヒラーは何をしたいのだろうか。彼は楽しんでいるというより、痛みを与えたアルフェが、どういう反応を示すかを観察しているようだ。それは確かに、子供が小さな虫を虐めて、虫がどういう動きをするかを眺めている様子に似ている。

 彼にとって、アルフェは本当に虫だった。いや、彼にとっては、他の全ての人間が虫だった。もしかしたら自分すらも、彼には虫に見えていたのかもしれない。

 人には、虫の感覚が理解できない。だから必要以上にいたぶって、その反応を見ようとする。


「どうする。いっそ本当に虫に変えてやろうか。俺の幻術なら、それも可能だ。地を這う百足になりたいか? それとも、汚物にたかる蝿が良いか」


 這いずるアルフェの側にしゃがみ込んで、ディヒラーは彼女の顔をのぞき込んだ。


「おや、また泣いてしまったな。悲しいのか。それとも悔しいのか。遙か昔、俺にもそういう時代があった。……もう、思い出す事も出来ないが。……そうだな、無力な娘をいたぶるのは、このくらいで終わりにするか」


 ディヒラーは立ち上がると、両手を前に掲げた。

 彼の口から紡がれる長大な呪文に従って、濃い紫の光が、アルフェを中心に円筒状の立体魔法陣を描いていく。


「この地の底で、偉大なるものの側で、果てるまでまどろみ続けるがいい」


 ディヒラーの言葉と共に、その魔法陣は一際強く輝き、アルフェを幸福な永遠の眠りへと誘った。








 ベルダンの町だ。


 アルフェには、今自分が立っている場所がどこなのか、すぐに分かった。

 ここは、ベルダンの町なのだ。


 春の香りが漂う空気の中、アルフェは道場に続く丘の上で、ベルダンの風景を見下ろしている。

 町並みが、ここからは一望できる。中央にある大きな建物は商会所で、手前の方には冒険者組合がある。民家の窓に干された洗濯物が、心地よい風に揺れている。煙突からは炊煙がたなびき、家庭の匂いをアルフェの鼻に運んだ。


 アルフェは振り返った。そして歩き出す。

 こつこつと、彼女の革靴が、石畳に乾いた音を立てた。


 空には小鳥が戯れている。少し早足で、長いスカートを翻しながら、アルフェは目的地に向かった。剣術や槍術の指南所を通り過ぎると、その奥にぼろぼろの建物が見える。

 アルフェは歩きながら、手ぐしで少し自分の髪を整えた。日課の鍛錬が始まれば、そんなものはすぐに崩れる。だが、彼女は無意識のうちにそうしていた。


「よく来たな」


 道場の中では、いつも通りに師匠のコンラッドが彼女を待っていた。ぶっきらぼうに言いながらも、よく来たという彼の台詞に、温かい響きが混じっているのを、アルフェは感じた。

 アルフェは道場で、コンラッドと並んで鍛錬をした。彼の課す鍛錬の内容はいつも厳しく、終わりになると、アルフェは汗みずくになってしまう。濡れた肌着が肌に貼り付いても、足が震えるくらいに疲労しても、身体を思い切り動かすのは心地よかった。


「では、またな」


 その言葉に見送られて、アルフェは道場を出た。

 もう日暮れ時である。来た時よりも幾分か早足になって、彼女は我が家に戻った。


「お帰りなさい、アルフェさん」

「おかえりなさい!」


 リアナとリオンの姉弟が、アルフェを出迎えた。抱きついてきたリオンの頭を撫でると、さらさらとした髪の感覚が、アルフェの手に伝わる。

 アルフェはリアナと一緒に、台所で夕飯を作った。リアナはよく笑い、店番の最中に起きたことなどを喋った。リオンが配膳を手伝い、食卓の準備が整えられていく。

 料理が完成すると、三人でテーブルを囲んだ。

 今日の野菜スープは良くできたと、リアナが言う。アルフェがそれを匙ですくって飲むと、じんわりとした味が舌に染みこんだ。


 夜は一人の部屋で眠り、朝になった。全員が起き出してくると、朝食を取った。

 午前中は、アルフェが店番をしなければならない。そうは言っても、アルフェの店に、あまり客は来ない。だが、テオドールとマキアスが一緒に、用も無いのに冷やかしに来た。


「よお、またゲテモノを仕入れたのか?」

「マキアス、そんな失礼なことを言うなよ」


 二人は気軽な調子でお茶を飲み、ひとしきりお喋りすると帰って行った。


 午後になり、アルフェは道場に続く坂を上った。

 道場にはやはりコンラッドがいて、「よく来たな」と彼女を迎えた。


「……どうした?」


 コンラッドが、気遣わしげに声をかけてくる。

 ここまでの光景の全てを、アルフェは無言で、無表情に見ていた。


「何か、あったのか?」


 優しい師の声は、あの時のままだ。


「何かあったのなら、俺に話してみろ」


 色も、音も、味も、匂いも、手触りも、ディヒラーの魔術は全てを再現している。何もかもが、アルフェが居たあの時のままで。


「アルフェ?」


 コンラッドが、アルフェの名を呼んだ。

 アルフェは、醒めた目でその顔を見た。


 この幻は、ディヒラーに初めて見せられたものでは無かった。

 あの町を出てから今日まで、アルフェは何度も何度も、夢の中で繰り返しこれを見た。


「どうせ、何か悪いものでも拾って食ったんだろう」


 コンラッドなら、アルフェを励ますために、そういう憎まれ口も叩くかもしれない。でも、コンラッドがこういう台詞を言ったことは無い。アルフェは全部を覚えている。これはアルフェの願望が混じった、妄想だ。

 ディヒラーが見せる幻影は、アルフェが見る夢よりも、ずっと真に迫っていた。だが、アルフェは知っている。これは、もう二度と手に入らない景色なのだと。どんなに望んでも、絶対に戻ることのできない場所なのだと。

 コンラッドが、アルフェに近づいてくる。前に立つと、彼はアルフェの頭に大きな手を載せた。彼の体温が、暖かい。

 これは幻だ。全てがディヒラーの作りだした、ただの偽りでしか無い。しかし、これが虚ろな影なのだとしても、受け入れれば、このまま幸福な風景を見続けることが出来るのだろうか。

 ……そうなのかもしれない。だが、それでも。


「お師匠様」

「……ん」

「…………申し訳ありません」

「……」


 このコンラッドを自分の手でかき消せば、ディヒラーの術を破れる。なぜかアルフェには、その確信が有った。

 しかし恐らく、目の前の彼を傷つければ、その感触は、より真に迫った形でアルフェに訴えてくるだろう。殴れば肉の感触が伝わるし、切れば血が出る。そうやって己の一番大切な者を殺し、その思い出を振り切らなければ、術は破れない。

 崩壊した幸せな景色は、アルフェの精神を追い詰める地獄の風景へと変わるのかもしれない。しかし、その先にこの幻の出口があるはずだ。


「……お許し下さい」


 そして、自分はそうしなければならない。自分が間に合わなかったせいで、命を落とした二人のためにも。それで例え、この人を傷つけたとしても。だからアルフェは、コンラッドの幻に対して謝ったのだ。


「許して下さい、お師匠様」


 悲痛な顔でうつむいたアルフェの前で、コンラッドは微笑んだ。

 そして――


「むぐ」


 アルフェの頬を、乱暴につねった。


「大丈夫だ、アルフェ。やれ」

「お師匠様……」

「構う事は無いさ。……そもそもお前のへなちょこな拳なんぞ、俺には効かんだろうしな。むしろそっちを心配した方がいい」


 からからとコンラッドは笑い、道場の中央に立つと、拳を構えた。


「弟子に負けるような俺は、俺じゃない。だから、遠慮するな」


 敵わないとは知っていた。でも、本気でコンラッドに拳を向けたことなど、アルフェには無かった。これがその、最初で最後の機会になるのだろう。しかし、どんなに痛みを伴っても、やらなければならない。


「……そう言えばアルフェ、お前は、俺の言った言葉を覚えているか――?」


 自分と向き合ったアルフェが同じ構えを取ると、コンラッドはそんな事を言った。

 アルフェはきょとんと目を開く。


「何があっても、大丈夫だ。お前は、優しい娘だから」


 そう言うとコンラッドは、照れくさそうに笑った。

 アルフェはくしゃくしゃの泣き顔になって、ぶんぶんと首を横に振る。

 優しくない。優しくなんかない。優しい人間が、大切なあなたを傷付ける事なんて出来るはずがない。

 でも、自分は傷付ける。自分の目的を、自分の想いを果たすためには、そうしないといけないから。


 では行くぞと、コンラッドは言った。

 彼の身体に、闘気が満ちる。


 アルフェは無言で涙を堪え、歯を食いしばって顔を上げた。


 そうして、甘い夢の中で、師弟の最後の手合わせが始まった。

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