第152話

 一瞬の勝機を捕えたベレンの眼光が、エドガーを鋭く射貫いている。

 右腕だけで持ち上げた大剣を、ベレンは渾身の力で振り下ろした。


「く――ッ!?」


 驚愕に顔を歪めながらも、エドガーは僅かに身を退いた。

 エドガーが致命傷を避け得たのは、ベレンが使えたのが片腕だけだった事に加え、やはり彼がパラディンだからだ。しかし、彼の鎧の前面は完全に切り裂かれ、そこから血が噴出し始めた。

 肉体の損傷を肩代わりする魔術は、発動していない。どうやら周囲の神殿騎士たちの神聖術は、飛来した何かに気を取られ、一時的に解けていたようだ。

 たたみかけようとしたベレンの前に、二人の神殿騎士が割って入ってくる。ベレンは盾と鎧ごと、一閃でその二人の胴を両断した。

 その一瞬の間を使い、エドガーが体勢を立て直している。それでも構わず振り下ろしたベレンの剣を、エドガーは神盾で受け止めた。


「ぬうううううッ!」

「うおおおおおッ!」


 競り合う形になった二人は、こめかみに青筋を立てて、必死に相手を押そうとしている。

 その時、大聖堂の崩れた門扉の瓦礫から、銀髪の少女が這いだしてきた。


「ベレン将軍!」


 それはアルフェであった。大聖堂を目指して駆け抜けて来た彼女は、ここからはるか遠方を走りながら、ベレンとエドガーが対峙しているのを確認し、そのまま迷わず突っ込んできたのだ。


「アルフェ!」


 ベレンはエドガーを押しまくり、エドガーの両脚を地面に縫い止めている。エドガーは右手に持った盾に、メイスを持つ左手を添えて、片手のベレンに対抗していた。


「アルフェ、その、神殿騎士たちを――! 中に、クラリッサたちが――!」


 途切れ途切れのベレンの言葉に、アルフェは周囲を確認した。エドガー・トーレス以外に、部下の神殿騎士が五人。クラリッサとイエルクは大聖堂の奥、今しがた自分が破壊した扉の向こうにいる。


「こいつは、俺がやる――!」


 エドガーは、競り合っている状態から治癒術を詠唱している。急場しのぎの術だが、出血を止める効果は十分にあった。この男は、まだまだ戦える。


「その娘を止めろ! そいつも背教者の仲間だ! 聖堂の奥に、立ち入らせるな!」


 憤怒の表情で、エドガーが神殿騎士たちに指示を出した。彼は自分の有利を崩すことよりも、アルフェが大聖堂に立ち入ることを嫌がっている。なぜだと思う暇もなく、エドガーへの支援を打ち切った神殿騎士たちが、アルフェの方に殺到してきた。


「二人は、必ず助けます!」


 アルフェは理解していた。ここで最優先するべきは、クラリッサとイエルクの命なのだ。アルフェは叫ぶと、瓦礫の一つを神殿騎士に向かって蹴り飛ばしてから、ベレンに背を向けて大聖堂の内部に侵入した。瓦礫に頭を砕かれた一人以外の騎士たちは、躊躇せずアルフェを追ってくる。


 一人一人と正面から戦っても、この神殿騎士たちは手強い。今のような意表を突いた攻撃でなければ、時間を食うばかりである。

 アルフェは大聖堂の内部を走り、クラリッサたちが監禁されている場所を探しながら、一人ずつ排除することに決めた。


 大聖堂の中は広い。ここには今の騎士たち以外にも、下手をすれば数百の聖職者がいるはずだ。仮にその聖職者たちを皆殺しにする事になったとしても、自分はクラリッサとイエルクを助ける。今日のアルフェは、そう腹をくくっていた。

 だが、人の気配はするものの、意外な程に誰とも遭遇しない。アルフェは知らなかったが、これはベレンとの戦いを控えたエドガーが、もしもの時の巻き添えを避けるため、自分の麾下以外は部屋に籠っているように指示したからだ。


「きゃああああ!」


 その証拠に、アルフェが適当なドアを一つ蹴り飛ばすと、室内で身を寄せ合っていた尼僧たちが、甲高い叫び声を上げた。


「チィッ!」


 舌打ちをしたアルフェの後ろから、彼女を見つけたエドガーの麾下が、メイスで殴りかかる。


「ふッ!」


 アルフェが振り向きざまに放った後ろ回し蹴りで、神殿騎士の首はあり得ない方向に折れ、上半身が壁にめり込んだ。尼僧たちの更に大きな悲鳴が響くが、アルフェは立ち止まらない。ここが違うなら、別の部屋だ。


「狼藉者め! 止ま――――ぐぼぇッ!」


 アルフェは通路を走りながら、追ってきた騎士を、一人、また一人と屠っていった。エドガーの麾下以外にも、侵入者を排除すべく、元々ここに配備されていたらしい騎士が立ち塞がる。それもアルフェは容赦なく叩き潰した。

 出来るだけ死なないようにという配慮もしていない。今は、時だけが惜しい。


 ――誰かを、閉じ込める場所――!


 通路を縦横に走りながら、アルフェは考えた。

 この大聖堂には、きっと数百室は部屋がある。当てずっぽうでしらみつぶしに探していたら、いつまでかかるか分からない。破門者の家族として攫われてきたクラリッサとイエルクが、応接間に丁寧に匿われているとは思わない。だとしたら、牢のような場所に拘束されているのだろうか。そんな部屋は、この大聖堂のどこにあるのか。

 この大聖堂にも、牢獄はきっと有るはずだ。誰かを閉じ込めておきたいと思う場合、どこにそういう部屋を設置するのか。「経験した」自分ならばそれが分かると、アルフェは知っていた。


「助けて! 殺さないでくれぇ!」


 ここも違った。儀礼に使用する物品を保管する倉庫のような場所で、鼻水を垂らしながら泣きわめいている男を放って、アルフェは次に移動する。


 ――分かるはず。私なら。ずっと閉じ込められていた私なら!


 アルフェは自分の「思い出」を頼りに、この聖堂の牢獄の位置を探ろうとしていた。夢中で走るアルフェの目の奥で、いくつかの何かが焼き切れていく。それは、彼女の記憶と心に蓋をしていた、例の心術の一部だった。

 故郷ラトリアに居た時のアルフェが、あの牢獄のような塔に閉じ込められていたように、逃がしたくないものを捕まえておくには、どこに入れたら良いだろう。見たくもないものを目に触れないように仕舞っておくためには、どこにするのが適当だろう。


 ――もっと奥、奥だ!


 壁は出来るだけ丈夫な方が良い。万一にも壊れてしまわないように。そして、こんな明るい場所ではだめだ。もっと暗くて、じめじめとした場所が相応しい。

 窓は無い方が良い。窓があると、外の世界が見える。外の世界が見えると、そこから出たくなってしまうから。

 アルフェは走った。十何人目かの騎士を排除すると、彼女の前に立ち塞がる者は一人も居なくなった。

 彼女は、四方を石の壁に囲まれた区画に入った。明かりを取り入れる窓は無い。離れた間隔に設置された燭台だけが、灰色の通路を薄暗く照らしている。


 ――この奥!


 太い鉄格子を、藪を払うようにかき分けて、アルフェはその石牢の中に入った。


「クラリッサさん! イエルク君!」


 今のアルフェは、道中で倒してきた騎士たちの返り血に染まっている。こんな姿をあの幼子に見せたら、また化け物を見るような目で見られるかもしれない。だが、今の彼女はそんな事を考えていなかった。


「あなたは……、アルフェ、さん……?」


 石牢には人間が一人しか居ない。床に転がされているのは、ベレンの妻のクラリッサだった。


「どうして、あなたが……? ベレンは……?」

「将軍は表にいらっしゃいます。私は将軍に頼まれて、あなたたちを助けに来ました」


 顔に暴力を加えられたような青アザがあり、大分衰弱しているものの、クラリッサは生きていた。

 計り知れない安堵が、アルフェの心を包む。丁寧な優しい言葉で、アルフェはクラリッサに語りかけた。クラリッサもまた、一瞬だけ安心した表情を見せると、次に非常に切迫した顔になった。


「イエルクが……! あの子だけ、別の場所に連れて行かれて……!」

「それは――、どこに連れて行かれたのか、分かりますか?」


 どうしてイエルクとクラリッサを、同じ場所に置いておかなかったのだろう。イエルクを連れ去ったのは誰だろう。そんな疑問を置いて、アルフェは出来る限り冷静に聞いた。


「分からない、分からないの。あいつは、“聖堂の奥”とだけ……」

「聖堂の、奥?」


 それは一体どこなのか。

 建物の配置的には、この石牢も十分に奥にあたる。それなのに、わざわざ「奥」と発言するのは、どういう意図があったのだろう。不可思議な言葉に思えたが、アルフェには、その意味に心当たりがあった。


「秘蹟の間……」


 はっとした顔で、アルフェはつぶやいた。

 あの、エアハルトの造りかけの聖堂でも、廃都市ダルマキアの放棄された大聖堂でも、いつもその部屋が聖堂の最奥として認識されていた。そして、アルフェは常にその部屋を目指し、そこでは必ず事件が起こった。


「私に心当たりが有ります。クラリッサさんは、ここで――」

「お願い、私も連れて行って! イエルクを助けるのなら、私も――」


 ここで待っていてくれと言おうとしたアルフェを遮って、クラリッサがアルフェの腕にすがり付いた。

 イエルクを連れていったのが誰であれ、クラリッサは足手まといにしかならない。しかし、ここに衰弱した彼女を一人で放置するのも、かなり危険なことに思えた。少し迷ったが、最終的にアルフェは頷いた。


「私がおぶります。掴まって下さい」


 アルフェはそう言うとしゃがみ込み、自分より身長の高いクラリッサを背負った。そして石牢を出ると、小走りに秘蹟の間を目指した。


「揺れますけど、我慢して下さい」

「大丈夫よ。……ごめんなさい」

「クラリッサさんが謝ることなどありません。将軍も外で待っていますから、イエルク君と一緒に、必ず三人で帰りましょう」


 アルフェは明るい声で励ました。

 ベレンたちの戦いはどうなっただろうか。イエルクを取り戻したら、場合によってはそちらにも加勢に向かわなくてはならない。パラディンがいかに強敵でも、アルフェがベレンの味方に加われば、きっと打ち倒せるはずだ。


「ベレン……、あの人にも、負担をかけてしまったわ」


 アルフェにおぶられたクラリッサの声は、少しとろんとしている。連続する緊張と疲労、その後に来た安堵によって引き起こされた眠気だろうか。

 負担なんかじゃありませんと、明るい声で、アルフェは彼女を励ました。


 これまでの聖堂で見てきた事もあり、秘蹟の間の位置は、牢屋よりも見当をつけやすい。アルフェはクラリッサの身体を気遣いながらも、確かな足取りでそこを目指した。遮る敵は、やはり何もいなかった。


「……あなたは三人で帰ろうって言ったけど、三人じゃないの」


 道の途中で、クラリッサが口を開いた。


「え?」

「私、お腹に赤ちゃんがいるのよ……」

「それは――」


 思いがけないことを聞いたという気がした。

 そしてそれを聞いて、アルフェは自分が背負っている人間が、急に特別なもののように感じられた。――当たり前の事だが、この女性は「母」なのだ。イエルクの母でもあり、お腹に宿っているという、新しい命の母でもある。


「お母さん……?」

「……どうしたの?」

「い、いえ、何でもありません」


 母というものを想像して、アルフェはどうしてこれほど動揺したのだろう。

 だが、アルフェは自分の視界が、にわかに滲んでいくのに気付いた。

 クラリッサは、そんなアルフェの様子に何を感じたのだろうか。労るような声で、アルフェに話しかけた。


「あなたのお母様は……?」

「……生きています。でも……」

「……悪い事を、聞いたかしら……」


 アルフェは首を横に振った。


「私にも、お母様がいます。……でも、ほとんど覚えていないのです」


 そうだ。アルフェが部屋に閉じ込められていた間、母は数えるほどしかアルフェに会いに来てくれなかった。

 今までアルフェは、大公妃たる母の安否を、ほとんど気にかけてこなかった。それは自分の情が薄いからだと思っていたアルフェだが、何のことは無い、彼女にとって、母の思い出など、ほとんど無いも同然だったのだ。それをアルフェは、思い出そうとしていた。


「クラリッサさんは、お母さんですよね」

「……え? どういう意味……?」

「イエルク君は、可愛いですか?」


 この緊迫した状況で、馬鹿な事を聞いている。そう思ったが、アルフェはどうしても聞きたかった。母親は、子供を愛するものなのだろうかと。クラリッサはその質問に戸惑ったようだが、やがてはっきりと答えた。


「……可愛いわ。あの子は、私の命よりも大切よ」


 アルフェは何も言わず、ただクラリッサを背負い直した。

 二人は秘蹟の間に続く、中央の礼拝堂に入った。しかし、ここにも人間が一人もいない。ここくらいは、誰かが守っていると思ったのだが。


「もうすぐです、クラリッサさん。もうすぐ、帰れますから」


 礼拝堂の説教壇の裏から秘蹟の間まで繋がる通路は、ダルマキアの廃聖堂で見たものとほとんど構造が同じだった。堅牢な石壁に囲まれた、息苦しく狭い通路。そしてアルフェは、イエルクが連れ去られた先と思われる、秘蹟の間の扉を開けた。


「――――――ッ!」


 その瞬間、アルフェの全身に、鳥肌が立った。






 イエルクが、死んでいる。






 その秘蹟の間は、これまでアルフェが目にしてきた、他の聖堂ものとは全く様子が異なっている。だが今のアルフェには、それに目を向ける余裕は皆無だった。

 何故ならば、アルフェたちが助けに来たイエルクが、秘蹟の間の床で、首から血を流して死んでいるからだ。


「ク――――――」


 背中にいる幼子の母に、この姿だけは見せてはいけない。アルフェは折れそうになる心を支えて、クラリッサの目から、この光景を覆い隠そうとした。

 しかし、アルフェはそこで、凄まじい違和感を覚えた。

 今の今まで背中に感じていた、クラリッサの体温を感じない。ただ冷たい重さだけが、背後から伝わってくる。


「あ…………、ああああ…………!」


 悪寒と震えが止まらない。

 そこにある真実を、頭が認識する事を拒否している。

 だが、真実はどうしようも無く真実なのだ。


 アルフェは間に合ったと思っていた。アルフェはクラリッサが殺される前に石牢にたどり着き、彼女をそこから助け出したと思っていた。

 アルフェは今まで、生きたクラリッサと会話していると思っていた。生きたクラリッサを背負って、その温もりを感じて歩いていると思っていた。


 どうして、そんな事を。

 アルフェは、生きているクラリッサには、会えなかったのに。


 石牢の前には、アルフェが倒したのではない神殿騎士が死んでいた。石牢の中では、刃物で胸を貫かれたクラリッサが事切れていた。それらは全て見えていたはずなのに、アルフェは今まで、見えていると思っていなかった。


 全ては嘘だ。今まで見てきたもの、聞いていた声、その全ては偽りだ。


 物言わぬ死体となったクラリッサの胸から流れた血が、アルフェの背中をべったりと濡らし、服を背中に貼り付かせている。その血はアルフェの脚を伝って、彼女が歩いてきた通路を赤く染めていた。


 ――娘よ、そんな風に死人と語り合うのは、悪趣味と言わざるを得んなぁ。


 お前も、儂が見ている真実を見るが良いと、アルフェは耳元で、いつか聞いたライムント・ディヒラーの囁きを聞いた。


 魔術の霧が晴れていく。

 アルフェが本当に見ていたものが、露わになる。


 アルフェは大聖堂の秘蹟の間で、胸を刺されて事切れたクラリッサを背負い、首を掻き切られて息絶えているイエルクの前に立っている。まるで、用済みになった道具を投げ捨てるように、イエルクの骸は乱暴に床に転がされていた。


 ここまでの全ては、幻だった。


 アルフェは何一つ間に合っていない。


 そして彼女の前には、秘蹟の間の更に奥に続く道が、ぽっかりと口を開けていた。

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