誓いが枷になるのなら

第147話

 破門宣告は、神を冒涜した者や、教会を批判した者に対して下される罰だ。これを受けた者は、破門が解かれるまで神聖教会の信徒とは見なされなくなる。ほぼ全ての人間が神聖教会の信徒である、この大陸のこの帝国において、破門を受けるということは、単に宗教的な意味以上に、重い意味合いを持っていた。

 いくつかの例外を除き、「神聖教会の信徒である」ということは、この帝国においては、「人間である」という事と同義だった。即ち、破門を受けた者は人間では無いと見なされるのだ。従って、破門者は法の保護からも外される。極論すれば、破門された者を誰が傷つけようが殺そうが、それは自由だということになる。

 破門者は、人間ではないのだから。

 即ち破門宣告は、教会が出す実質的な死刑宣告のようなものであった。


 しかしこの時代、帝国も神の教えが全てではなくなった。百年前なら、破門者は有無を言わさず私刑に遭い、野垂れ死ぬのが通例だった。だが今は、破門が即、死に繋がるということはない。深く悔悛し、総主教の前で額を地にこすりつければ、破門が解かれるということもあるだろう。

 伯にその宣告が出されたというのは、歴史上稀ではあるが、過去にも事例は存在した。いずれも政治的、教義的な理由から、深刻に教会と敵対した伯たちだ。そして過去の全ての事例で、伯と教会との対立は、教会側の勝利に終わっている。


 その破門宣告が、当代のノイマルク伯ルゾルフに下された。速やかに教会から触れ書きが出され、その事実はあっという間に大陸全土に周知された。これにより、例えば近隣の領主がノイマルク伯の領地に無断で攻め入ったとしても、公式上は罪に問われるようなことはなくなった。

 元々高いとは言えなかった、民からのルゾルフに対する信望も、完全に地に落ちた。破門宣告の触れ書きには、ルゾルフが総主教と騎士団総長に送った冒涜的な書簡の文面が、一部添えられていたのだから、それは無理も無かろう。

 今後、ルゾルフが取り得る道とは。

 常識的に考えれば、それは一つだけだ。先に述べたように、帝都、もしくは近隣の大聖堂に赴き、ひたすら総主教の許しを請うという方法だ。しかしノイマルクは、目下トリールと戦争中ということもある。さらにルゾルフ個人の性格からして、事はそう簡単には行きそうになかった。


「ルゾルフ様は、大変にお怒りだ……」


 グロスガウ砦の軍議室で、肘を突いた片手で顔を覆いながら、ベレンは言葉を吐き出した。

 寝耳に水の破門宣告。しかもなぜか、その宣告の対象はルゾルフだけでなく、何人かの臣下にも及んでいた。その名前の中には、既にルゾルフによって処刑された宮宰や、ベレン自身の名前があった。憔悴するのは当然である。

 しかも、ライムント・ディヒラーの罠を退け、領内の調査を終えたパラディンのエドガー・トーレスを、無事にキルケル大聖堂まで送り届けたと思って、ほっとしていた矢先のこの出来事である。ベレンの感じた驚きは幾層倍だった。

 既にベレンは、ノイマルク首都ブレッツェンに呼び出され、ルゾルフの大変な叱責を受けてきた。宣告の原因は完全にルゾルフにあったのだから、それは叱責というよりも、単なる八つ当たりに過ぎなかったのだが、ベレンは黙ってそれに耐えて来た。

 今もベレンは、沈鬱な表情でうつむいているが、主君への憤りを示そうとはしていない。だが、彼の周囲にいる将官たちは別だった。


「理不尽だ! “あの男”に、将軍に対して怒る資格などありませんよ!」

「そうだ! 埒も無い手紙を、軽率に教会に送りつけて――。あんなものは伯として不適格だ!」


 それら叫びに対し、そうだ、その通りだと同意する声が響く。

 ここに集められた将軍や文官たちは、一様に怒りを露わにしている。激昂のあまり、ほとんどの者からは、辛うじて残っていた伯への忠誠心というものが、きれいに消え失せてしまっていた。


「しかしこのままでは、ノイマルクは崩壊する。トリールが、これを黙ってみているはずがない。すぐに南進を始めるはずだ。周辺領主にも、俺たちの味方はもういない。いや、下手をすれば、彼らも漁夫の利を狙って兵を進めてくるかもしれない。こんな時だからこそ、俺たちは結束しなければ」


 ベレンだけが、まだ伯への忠義を保ち、ノイマルクを守る手立てを考えようとしている。その様は、悲痛とさえ言えた。


「ルゾルフ様がこのような振る舞いに及んだ理由も、俺に破門が下された理由も分かっている。トリール女伯の力が、裏で働いているのだ。あの女が、総主教様に働きかけたんだろう。トーレス卿を呼んだ時と同じように」

「だとすればなんて姑息な!」

「そうです、道理が通っていません!将軍に非があると思っている者は、ここにいません!」

「言うな。お前たちが俺を信じてくれても、周りはそうは思わない」


 ベレンは力なく、首を横に振った。

 将校の一人が両手で激しくテーブルを叩き、身を乗り出して彼に訴えた。


「将軍、こうなれば軍を率いて、ブレッツェンに進軍しましょう! 兵は皆あなたに従います! 領境の兵力を全て傾ければ、ブレッツェンは七日で墜とせる! 近衛の連中も呼応するはずです! 民を傷つけず、城に攻め入る事は可能です!」

「そうですよ! あの伯を気取っている豚を討ち取って、将軍がノイマルクを治めればいい! あれの首を差し出せば、総主教様も――」

「言うな――!!」


 熱の籠った部下の訴えを、ベレンは一喝して退けた。


「――頼む、それ以上言わないでくれ」


 将官たちの言う通り、ベレンさえ決断すれば、ノイマルク全軍は彼の指揮下に入り、自分たちの首都すらも攻めただろう。民に大きな犠牲を出さず、短期間で城を制圧することも可能だったはずだ。

 あるいは、それは本当に、ノイマルクの平和を保つための、最も合理的な道だったのかもしれない。

 しかし、ベレンにその決断は下せなかった。


「……俺には、ルゾルフ様を裏切る事はできない」


 彼にとって、その言葉が全てだった。

 どうしようもない主君であることは分かっている。ベレンも腹の内では、伯に対して怒りを感じている。しかし、それだけは出来ないのだ。農民だった彼を、筆頭将軍の地位まで引き上げてくれたのは、他ならぬルゾルフだったのだから。その大恩有る主君に、自ら刃を向ける事だけは出来ない。

 ノイマルクの民を守ることと、ルゾルフに忠誠を尽くすこと。この二つは、決して侵すことのできない、ベレンの騎士としての誓いだった。


「領境の守りを、もう一度見直す。西の小領主たちの警戒も強めなければ」


 地図を前にして、ベレンはそう言った。将軍として、自分に与えられた義務を全うする。それ以外の全ての考えを、彼は頭から無理矢理振り払った。

 将官たちは押し黙っている。ベレンは一人で、新たに生じる問題への対応を喋り続けた。


「……南の、ラトリア方面の軍を引き上げて、西の守りと領内の反乱警戒に当てましょう。ドニエステは、きっと今度も動きません」

「私は、ブレッツェンに行ってきます。何か名目を見つけて、近衛と予備軍の連中から、何人かでも連れてきます」


 しばらくの沈黙のあと、ベレンの他の者たちは、次々と献策をし始めた。


 ベレンは彼らに対し、一言、すまないとだけ言った。



「将軍は忙しいようですね」

「ああ」


 アルフェとフロイドは、砦で行われている軍議に参加していなかった。彼らは食堂で、何か仕事が振り分けられるのを待っている。


「破門ですか」

「ああ」


 アルフェたちにも、その事実は伝わっていた。破門の理由は、各地の教会の扉に貼り付けられた紙に、事細かに記されている。ノイマルク伯ルゾルフが、神聖教会総主教と神殿騎士団総長を侮辱する手紙を送りつけたという事だ。

 アルフェは呆れたようにつぶやいた。


「伯も、軽率なことをするものですね」

「ああ」

「……どうしました」

「……考えていた」

「何を」


 フロイドは、さっきからずっと生返事ばかりをしていた。ベレンにも破門宣告が下されたと聞いてから、この男はずっとこの調子だ。


「仮に俺たちが……。いや、俺がルゾルフを殺してやれば、ベレンは楽になるだろうかと」


 その言葉を聞いても、アルフェは特に驚かなかった。彼女も何となく、この男はそんな事を考えているのかもしれないと思っていたからだ。


「そんな事を、ベレンは望まないだろう。だがそうしてやれば、あいつは楽になるかもしれない」

「……あなたは、そうしたいのですか」

「どうかな」


 フロイドは首を傾げた。

 砦にいる人間は、アルフェとフロイドを除いて、誰もが忙しく走り回っている。この切迫した様子は、いよいよ全面的な軍の衝突が始まるのだと感じさせた。


「どうして将軍が、望まないと分かるのですか」

「……あいつは、忠義者だからな」

「忠義……?」


 アルフェはその概念について、良く飲み込めない表情をした。

 フロイドは、独り言のような喋り方で説明を始めた。


「そう、忠義さ。騎士は、そのために誓いを立てるんだ」

「……」

「誓いにも、色々ある。主君に忠誠を尽くすという誓いや、主君以外の誰かのために戦うという誓い。……ベレンはきっと、ルゾルフに忠義を尽くすと誓っている。あいつは将軍である前に、騎士だ。誓いは破れない」

「だから、あなたがその代わりをしてあげようというのですか?」

「ベレンは喜ばないだろう。だが、あいつの重荷を取り除いてやる事だけは、出来るかもしれん」


 確かに、アルフェやフロイドなら、単独でも伯を暗殺することは可能だろう。ベレンが側にいなければ、ルゾルフの守りなど大したことはないはずだ。それも考慮に入れた上で、この男は迷っている。アルフェはそう見た。


「ですが、あの伯を殺したところで……」

「そうだな、事態が良い方向に転ぶとは限らない。だが、ディヒラーが言っていたろう」

「……主君が愚かで、喜ぶのは敵だけだ」

「ああ。あの主君の下にいる、ベレンが哀れだ」


 真剣な顔で、フロイドは言った。アルフェは少し驚いていた。ベレンに対して、この男がここまでの思い入れを持っているとは、彼女は想像していなかった。


「フロイド、あなたには、あなたの自由にする権利があります。伯を殺したいのなら、殺しに行けばいいと思います」


 その時に自分がどうするかは明言せず、アルフェはフロイドに、そのように告げた。


「いや、今の俺の主は、あんただ。だから、あんたの命令が無い限り、それはしない」

「……それは」


 それは、お前の誓いというものか。アルフェは言葉に出さなかったが、フロイドは彼女を見て頷いた。

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