第90話
その日、フロイドはアルフェにあることを伝えようと、二人が連絡場所にしている空き家を訪れた。そこで雇い主が唐突に切り出してきた話題は、あまりに突拍子もないものだった。
「この町には、奴隷市場というのがあるそうです」
「……ああ、あるな」
どこからそんな話を仕入れてきたのか。そして、奴隷市場があるから何だというのか。この娘は冷淡で他に関心が無いように見えて、意外と好奇心が旺盛だ。単純に興味を持って話題に挙げたのならばまだいい。だが、フロイドには何となく嫌な予感がした。
「奴隷を購入するというのは、どうでしょうか」
普通の娘は、平然とした顔でこんなことを言わない。やはりこの娘は、どこかネジが外れている。
「どうしてだ」
「あの魔獣と一緒に戦ってもらいます」
「……よし、言いたいことは分かった。だがな、馬を買うのとは意味が違うぞ」
「それくらいは分かります」
本当に分かっているのかは怪しいと、フロイドは思った。
アルフェが言い出した奴隷市場というのは、確かにこのバルトムンクの中にある。それは恐らく、帝国の中に現存する唯一の奴隷市場だ。
二百だか三百年前に、当時の皇帝によって帝国内の全奴隷が解放されて以来、表向き、帝国には奴隷がいないことになっている。もちろん実際には、そこらの農場で領主に酷使されている小作人たちはほとんど奴隷と変わりない扱いを受けていたし、人買いに売られて娼館で死ぬまで使われる子どもも多い。だが少なくとも、奴隷として人間を売買することは、帝国では法に触れる。
では、どうしてこの町には奴隷市場が存在するのか。それには理由があるのだが――。
「あんたは、ここの奴隷市場で何が売られてるのか、知ってるのか」
「……聞きました」
「それでどうして、一緒に戦ってもらうなんて言えるんだ?」
「やっぱり、だめですか……」
「そりゃな」
「言ってみただけです。忘れて下さい」
頭を振ったアルフェは、木箱の上で膝を抱えた。
この娘も悩んでいるようだと、フロイドは思った。アルフェの頭にあるのは、例の大聖堂に巣くった魔物を倒す方法だ。今の荒唐無稽な提案も、それを考える上で出てきた苦肉の策なのだろう。
「あなたは、何をしに来たのですか」
抱えた膝に顔を埋めたまま、くぐもった声でアルフェが言った。
彼女は、呼びもしないのにフロイドの方から訪ねて来た理由を聞いているのだ。
「あの魔女が目を覚ましたぞ」
「……そうですか」
「あんたに礼を言っていた」
「……」
“水の魔女”ネレイア・ククリアータの依頼で行ったルサールカの討伐から、二人が帰ってきたのが数日前だ。
ルサールカとの戦いで魔力が尽き、昏睡したネレイアは、それからずっと目を覚まさなかった。そして今日、報酬を取り立てなければならないからと、定期的に様子を見に行かされていたフロイドは、ベッドの上で身体を起こしているネレイアと会ったのだ。
――殺してくれて良かったのに。
自嘲気味に放たれたネレイアの言葉が、本気ではないのはフロイドにも分かった。
――でも、ありがとう。
そして寂しげな、しかしどこかすっきりとした表情で、ネレイアはアルフェに対する感謝の言葉を述べた。力を失った彼女の魔術具が、ネレイアの部屋のテーブルの上に置かれていたのを、フロイドは覚えている。
「あんたはあいつと会わないのか」
「会う理由がありません。もう、仕事は終わりましたから」
「そうか」
あの仕事があんな経過をたどらなければ、大聖堂の魔獣と戦うため、ネレイアに助っ人を頼むという道があったかもしれない。だが今となっては、共闘は難しいだろう。アルフェの心情的にも、ネレイアの心情的にもだ。
「そんなことより、報酬は?」
「受け取った。ここに置くぞ」
私のお金は、全部あげてもいいのだけれどと前置きして、ネレイアは約束に大分色を付けた金額を引き渡してきた。その、一回の依頼の報酬としては破格とも言える額が入った金袋を、フロイドは足下の床に置いた。
「あなたの分は、そこから取って下さい」
やはり顔を上げずに、アルフェが言った。
随分と無造作な話であるが、フロイドは逆らわずに腰を曲げて金袋に片手を突っ込み、二、三枚の金貨を取った。
今日の主は、なぜか虫の居所が悪いらしい。
「あいつは、直接会って礼を言いたいそうだ」
一応伝えておく。そう言い置いて、フロイドは空き家を出た。
◇
フロイドが出て行ってからも、アルフェはしばらく膝を抱えた姿勢のまま座っていた。
ネレイアの件は終わったことだ。ああするべきだったとか、するべきではなかったとか、過ぎたことについてそういう風に思い悩むのは時間の無駄だ。それよりも、あの大聖堂の魔獣に勝つ手立てをどうしよう。それを考えたいのだが、何だか妙に思考がまとまらない。
「……今日はもういいや」
頭の中が煮詰まったので、アルフェは課題を先回しにすることにした。フロイドが置いて行った金袋を仕舞うと、彼女は仮宿を出た。まだ日の高い時間帯に、こうしてこの町を出歩くことはあまりない。
今日は晴れている。昨日もそうだった。前々から続いていた長雨も、そろそろ明けようとしているのかもしれない。
狭い路地を抜けて、アルフェは大きな通りまで出た。
フロイドは帰してしまったから、あまり目立つような所に行くことはできないが、この外出の目的は次の冒険に必要な物品の補給だ。それならここの近所にある道具屋で済ませることができる。
「いらっしゃい」
カウンターでは一人の老人が店番をしている。アルフェは店内に入ると、早速商品を物色し始めた。
バルトムンクの道具屋は、ウルムのような大都市の道具屋とは違った意味で商品が充実している。具体的に言うと、冒険者向けの品が非常に多い。町の辺鄙な位置にあるこのような店でさえ、冒険に必要な一通りの物をそろえることができる。
――ロープと、ろうそくと、油紙と……、縄梯子も買っておくべきでしょうか。お鍋も流されてしまったし……。
先日のルサールカの討伐では、敵の魔術で道具の多くを流されてしまった。その前には新調した馬車ごと一切合切を捨ててきてしまったし、最近はよく道具屋を利用する機会がある。
道具が無くても森の中で数か月なら生き延びられる自信はあるが、やはり準備は念入りにしておいたほうが良い。
「すみません、このお鍋はもう少し安くなりませんか?」
鍋の価格を半分に値切ってから、アルフェは購入した荷物をかかえて他の店を見て回った。
彼女が次に入ったのは鍛冶屋だ。鍛冶屋も、道具屋と同じかそれ以上に冒険者にとってなじみ深い。アルフェは武器を持たないが、冒険の時に履いている鋼のグリーブは、定期的に鍛冶屋で修理してもらう必要があった。
「なんだこりゃ。滅茶苦茶な使い方してるなぁ……」
その店の鍛冶職人は、アルフェのグリーブを叩いたり裏返したりしながらそう言った。
このグリーブは魔術のかかった品で、ベルダンにいた時から使っている。普通よりも丈夫なはずだが、アルフェは普通の使い方をしていない。彼女の蹴りや移動の負担に耐えてきた金具は、あちこちがガタガタに歪んでいた。
「買い換えた方がいい。限界だよ」
「そうですか……」
職人にそう言われても、あまりその気にはなれない。そこには一種の感傷的な理由があった。
ベルダンから彼女が持ち出してきたわずかな品は、旅の中で段々と減ってきている。革のブレーサーはフロイドに切り裂かれたし、胸当ては大聖堂の魔獣によって破壊された。この上に、あの町のにおいのする物を捨ててしまうのは、アルフェには抵抗があった。
「何とか、直りませんか?」
「お、おお。一応手当はしてみるけどなぁ……」
アルフェに上目遣いで懇願された職人は一瞬たじろぎ、その後、期待はしないでくれと言いながら奥の鍛冶場に引っ込んだ。
物は物だ。いつかは壊れる。フロイドの剣だって折れたし、ネレイアが先生の形見だと言っていた魔術具も壊れた。でも分かっていても、大事にしていた物が無くなるのは寂しい。しかしいつかは諦めて新調しなければならないだろうと、売り場に一人で残されたアルフェは、壁にかかった武器や防具をぼんやりと眺めていた。
「……あの剣」
中に一本、立派そうな剣がある。立派“そう”だと言ったのは、アルフェには剣の良し悪しが分からないからだ。
「おや、お嬢ちゃん、そんなもんに興味があるのかい」
奥から職人が戻ってきた。手にはグリーブを持っていない。
「どうですか」
「やっぱり、すぐには無理だなぁ。二、三日預からせてもらえれば、少しはなんとか……。でも、本当に大したことはできないぜ。使ってる最中にぶっ壊れても、こっちは責任持てないよ」
「それでも良いので、お願いします」
「分かった。じゃあ、あれの持ち主にもそう言っといてくれよ」
「はい」
あれの持ち主はアルフェだが、もちろん職人はそう思っていない。その話が済むと、彼は話題を壁の剣に戻した。
「で、その剣に興味があるのかい」
「いえ、別に」
「いい剣なんだ」
若い娘との会話を楽しんでいるのか、職人は壁に向かうと、かかっている剣を下ろした。
「見てみなよ、ちょっと変わってるだろ」
確かに変わっている。薄い片刃の刀身は緩やかに湾曲していて、いかにも切れ味が鋭そうだ。以前、フロイドが使っていたものに似ている。アルフェが折って、腹に刺さったものをまた折ったあれだ。それで覚えていて、目を引かれたというわけだが。
「ずっと昔に帝国の外で作られた品だ。魔術もかかってる。うちの店じゃ最高級品だ」
職人は剣を構える真似をして、それから二、三度素振りして見せた。すぐに殺せるなと、アルフェは思った。
「格好いいだろ? どうだい?」
でも、持つ者によるだろう。例えばユリアン・エアハルトが握れば、どんな武器よりも恐ろしく見えるだろうし。そこまでいかなくとも、フロイドにでも持たせれば――。
――……あれにそんな優しさをかける必要は、無いですね。
自らに浮かんだ考えを否定しつつも、そうすれば戦力の足しになると、彼女が考えたのは事実だった。
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