第76話

 一帯を降る雨は切り立った岩の間を流れ、ところどころに小さな滝や流れを作っている。

 天候の乱れは大気中の魔力の乱れに起因し、こんな時には思いも寄らない魔物が、思いも寄らない場所に出現する可能性もあった。


 今回のアルフェは、特に討伐する魔物の目標を定めていない。バルトムンクの冒険者組合では、町の安全を脅かし、交易の妨げになりそうな魔物であれば、証を持って行けば後出しで賞金がでる。一応のあたりは付けてあるが、強力な魔物ならばある程度相手は選ばないつもりである。


「どっちに行く?」


 分かれ道にさしかかると、フロイドはアルフェに指示を求めた。アルフェは懐から磁石を取り出し、それが示す方角と自分の感覚を照らし合わせた。


「左に向かいます」

「了解」


 先行するのはフロイドだが、道を決めるのはアルフェである。フロイドは逆らわずにうなずいた。

 この峡谷地帯周辺は岩場が多く、背の高い木はあまり生えていない。その代わりに人の腰くらいまである灌木が、所々に茂みを作っている。時にはそんな茂みをかき分けるようにしながら、アルフェたちは峡谷の奥へと向かった。


「……言いたいことがあるなら言いなさい」


 数時間後、突然アルフェが口を開いた。後ろを歩くアルフェの様子を、フロイドは時折ちらちらとうかがっていた。その気配をさとったアルフェが理由を尋ねたのだ。


「いや、別に大したことじゃないんだが」


 顔を前に向けたままフロイドは言った。


「疲れないのかと思ってね」

「歩くのは慣れています」

「ふうん」

「それよりも、気をつけなさい」

「何がだ?」

「近くに何か居ます」

「――何?」


 先ほどのワーグの時と違い、フロイドはそれを感知できていなかったようだ。彼は足を止めて、周囲を探る仕草をした。


「どこにいる。俺には見えんが」

「……まだ、こちらの様子をうかがっているだけのようです」

「分かるのか?」

「相手の縄張りに入れば、じきに向こうから姿を見せるでしょう」


 アルフェがそう言ってから、二人はさらに一時間ほど歩いた。そこまで来ると、フロイドにも“敵”の気配がはっきりと感じられたようだ。


「魔獣や魔鳥の類いじゃないな……。亜人種か?」

「かもしれません。もう、すぐそこのはずですが……」


 それなりに見晴らしのきく空間に出たにもかかわらず、相手の姿はまだ見えない。しかし二人は確信していた。何者かが自分たちを目で追っている。

 雨空には何も飛んでいない。鳥が留まるような大木はなく、峡谷の岩肌にも獣一匹歩いていない。周囲には奇妙なほどに生き物の気配がしない。そのことは逆に、強力な“何か”が身を潜めていることの証のように思われた。


「夜を待っているのでしょうか」

「そうかもな。……どうする?」

「そうですね……」


 アルフェは自分のあごに、そのほっそりとした指先を当てた。

 魔物の多くは夜目が利く。ようやく日が傾いてきた頃合いだが、フロイドの言う通り、敵は辛抱強く日没を待っているのかもしれない。


――殺気をばらまいて、挑発してみるか……。


 しかしここまでの動きから察するに、相手は相当慎重な魔物のようだ。縄張りに踏み込んでいるはずの人間二匹を感知しておきながら、逃げるでも襲ってくるでもなく、ずっと張り付いて様子をうかがっている。その程度で出てくるとは思えなかった。

 なら――


「ここで野営しましょう」

「ここで?」

「テントの準備をして下さい」

「おい、本気か」

「あなたの仕事でしょう?」

「……分かったよ」


 相手が夜を待っているなら望み通りにしてやろう。雇い主の少女がそう考えていることは、フロイドにも読み取れたはずである。しかしまだ敵の正体すらつかめていないのだ。さすがに彼は驚いた声を出した。

 だが、仕事だと言われれば彼は断れない。フロイドは荷物を下ろし、できる限り雨を避けられる場所にテントを張り始めた。


「終わったぞ」

「ご苦労様です。……? ……何ですか?」


 アルフェがねぎらいの言葉をかけると、フロイドは意味ありげな視線を彼女に向けた。


「……いや」


 フロイドは肩をすくめたが、その顔はやはり何か言いたそうであった。


「食事の用意をしよう。薪を拾ってくる」


 ひょっとしたら、一人でテントを張らせた事に不満でも述べたいのだろうか。アルフェはそんな風に考えたが、それを聞く前にフロイドは薪集めに行ってしまった。



 アルフェの姿が見える位置で、フロイドは燃やせるものを探している。アルフェの方はテントの側で、煮炊きのための石組みを作っているようだ。ここから見てもアルフェには油断がない。どこからか見ている魔物に対して、そして他ならぬフロイド自身に対しても警戒心を失っていないのだろう。


 ――ご苦労様です……、か。


 灌木の枝を拾い上げ、心の中でフロイドはつぶやいた。


 ご苦労様ですと、あの娘は言った。

 テントは魔術のかかった軽い上等な品で、フロイド一人で張り終えるのに苦労はなかった。例えそうでなかったとしても、自分の決めた雇い主の命令だ。雑用であれフロイドに否やを言うつもりはなかったが、それにしても、彼にはある違和感が拭えなかった。


 アルフェは強い。あの歳であれだけの強さを持つ人間を、フロイドはあまり知らない。しかし全く知らない訳ではないし、強いだけなら彼女よりも上があった。にも関わらず、フロイドがアルフェについて行こうと思ったのは他に理由がある。


 あの聖堂に現れた、おぞましい存在感を放つ魔術士。そしてその顔に見とれていた、あまりにも美しい彼女の横顔。そこにフロイドは、自分に欠けている何かを見出したのだ。

 だからフロイドは、アルフェについて行こうと決めた。フロイドの決意は他人には不合理に聞こえるかもしれないが、彼自身は後悔していなかった。それは直感であり、論理的に説明できるものではない。


 普段はほとんど無感情で冷ややかな態度をとり、敵と見なしたものには容赦がない。同行する中で見たアルフェの姿は、概ねフロイドの想像した通りであった。それは即ち人ならぬ何か――、魔性とでも言うべきものである。

 実際にこの前、賞金をかけられた冒険者の一団を皆殺しにした時も、あの娘は顔色一つ変えなかった。


 ――……ご苦労様です、ねぇ。


 しかしアルフェは時折、ああして何気ない言葉を、何気ない表情でフロイドにかけたりする。そういう時のアルフェはまるで普通の人間の様で、それが彼に奇妙な違和感を与えるのだ。


「集めて来たぞ」

「はい」


 天気のせいもあるが、この季節、日が沈むと空気はかなり冷たくなる。身体を冷やさないようフロイドたちはたき火を作り、簡単な煮炊きをした。


「……見ているな」

「ええ」


 その間も変わらず、魔物の視線は彼らを捉えていた。フロイドがその事に触れると、目を閉じてスープをすすりながら、アルフェは何でもないことの様にうなずいた。


「相手は苛立っているようだな。さっきよりも視線が露骨だ。あんたの読み通り、朝までには出てくるか」

「たぶん」

「たぶんか……、どんな魔物かも分からないのに、ずいぶんと余裕だな」


 フロイドは軽く笑ったが、アルフェはそれに何の反応も返さなかった。そして夜更けになり敵の気配が動いた時、フロイドは仮眠のためにテントの中にいた。


「起きなさい」


 テントの外からアルフェに声をかけられるまでもなく、目覚めたフロイドは立ち上がっていた。彼が武器を確かめ外に出ると、たき火の側に立っていたアルフェは彼を一瞥し、それからフロイドにもそっちを見ろと言わんばかりに闇の一点を見据えた。


 ――……出たか。


 霧のような雨の中に、動く一つの気配がある。かなり大きい。


「何だと思う」

「……やはり亜人のようです。……オーガ、いえ…………トロル?」

「なるほどね」


 棒立ちのアルフェの横で、フロイドは剣の鞘を払った。

 トロル――。周囲の環境に擬態するのが得意な大型の亜人種だ。彼らは体毛や体色を利用して、驚くほど巧みに風景に紛れる。その能力を使って、昼間もフロイドたちの目に見える範囲に隠れていたのだろう。


「昼に見つけられなかったのは不覚でした」

「だが、姿を見せれば問題あるまい?」


 フロイドの言うとおりだ。トロルは手強い獲物だが、ここにいる二人にとってはさして大きな脅威にはなり得ない。しかしそれは、並のトロルならばだ。亜人種はオークやゴブリン、人間などと同じで、個体によって強さの差が大きい。では、今回の相手はどれほどのものか。


「来ます」


 アルフェの言葉と同時に、闇の中の気配が前に出てきた。――かと思うと、その気配は二人めがけて何かを投擲してきた。


 ――砂!?


 拳ほどの大きさの石も混じった大量の砂利が、高速で二人に叩き付けられる。


「ちぃッ!」


 その砂利の勢いは、薄い金属板程度なら軽く貫通しただろう。それが突如視界いっぱいに広がって迫ってきたのだ。フロイドは横に跳んで躱し、アルフェも避けた。

 そして闇の中の敵は、すかさず二射目を放ってきた。ただしそれは人間を狙ったものではなく――


 ――火を狙ったか……!


 ざんという音を立てて、たき火の灯りがかき消された。魔物は知恵を働かせている。己の有利を拡げるため、人間の弱点を狙ってきたのだ。この狡猾さは、以前にも人を襲ったことのある個体だろうか。


 一気に周囲が暗くなった。

 フロイドもアルフェも、ある程度は気配だけで戦える。しかし、夜目の利く魔物に対する不利は否めない。だがそれを言うなら、ここで夜を待つと決めた時から、彼らもそんなことは先刻承知なのだ。


 フロイドはアルフェに預けられていた魔術具を懐から取り出した。闇から伸びてくる腕を紙一重で躱しながら、衝撃を与えると短時間だけ輝くそれを、彼は同時に三カ所、周囲の岩場に叩き付けた。

 雨に濡れても消えない火花が、敵の下半身を強く、上半身をぼんやりと闇の中に浮かび上がらせている。


 ――やはりトロル! だが……!


「こいつの姿は……!」

「変異種のようですね」


 それは、フロイドの倍くらいある体長の亜人だった。その手足は異様に細長く、全身が藻のような灰色の毛で覆われている。そこまでは通常のトロルと同じである。

 しかしそのトロルにはどうしてか腕が三本、頭が二つ生えていた。左に二本生えた腕のうち、一本だけが異常に太く、色が違う。


「こいつは依頼に出てた奴だな」


 フロイドはこのトロルの特徴を記した手配書を、既に冒険者組合で目にしていた。何人かの冒険者の命を奪った、金貨三十枚の賞金がかかった獲物である。普通のトロルよりも手強いのは間違いない。


「光が消える前にけりを付けます」

「ああ!」


 魔術具の光は五分も持たない。しかしアルフェはそう宣言し、フロイドも即座にうなずいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る