第2章 伝説の聖獣を求めて
炎の聖獣
第1話 記憶の欠片
そこは、辺り一面が闇に覆われていた。震える程の寒さと、底知れぬ恐怖が支配する世界。人の気配も、時間の感覚も無く、どれだけここにいたか分からない。
そしていつしか、ここから逃れようと走る気力すら無くしてしまった。孤独に耐えきれずに蹲り、訪れるはずの無い温もりと安寧を求め続ける。
「――――」
奇跡が起きた。突如として人の声が聞こえ、勢いよく顔を上げる。そして飛び込んできた光景に、言葉を飲み込んだ。
目に入ったのは、一筋の光の中で立っている少女。金髪をポニーテールにし、白いブラウスと赤いスカートを身に纏う。どこの町にもいるような、ごく普通の少女だ。彼女はこちらを見つめ、子供らしい無邪気な笑みを浮かべている。
闇の中に舞い降りた天使に、すっかり釘付けになっていた。
「君は……誰?」
不意に、彼女を包んでいた光が、二人を包むまでに急速に広がっていった。初めて感じた光は温かく、心が震える。そしていつしか、彼女に触れたいと思うようになっていた。
おもむろに立ち上がり、吸い寄せられるように歩み寄る。だが少女は、ふわりとスカートを靡かせて踵を返すと、軽やかに駆け出した。
「っ、待って!」
慌てて呼び掛けるが、少女は足を止めない。時折振り返っては、にっこりと笑うだけ。遊ぶように、誘うように、ひらりひらりと舞い踊る。気が付けば、必死になって彼女を追い掛けていた。
「ちょっと待ってよ! どこに行くの!? 待って! ねえってば!」
話したい。声を聞きたい。触れたい。触れられたい。共に笑い、駆け回りたい。彼女のそばにいたい。ずっと、ずっと。いつまでも。
だが、時を重ねるにつれて加速する少女に、言いようのない不安を覚え始める。
「待って! 置いて行かないで! ……僕を独りにしないでっ!」
全力の叫びに応えるように、少女の足が止まった。ガクガクと大笑いしている膝に手を付き、肩で息をしていると、くるりと少女が振り返る。太陽のような笑顔を携えて。
しばらくして、少女は手を差し出してきた。その意図が掴めず、戸惑いがちに彼女の顔と手を交互に見つめる。そして意を決し、そっと手を伸ばした。
だが、その時。周囲に風が舞った。立っていられない程の強い風。思わず目を閉じ、腕で顔を覆う。
それから程なくして、風は止んだ。恐る恐る目を開けてみる。そこにあった光景に、目を奪われたのだった。
ぼんやりとした頭で辺りを見回す。次第に覚醒する意識を伴い、おもむろに体を起こすと、深く息を吐いた。
「……夢、か」
夢の中で必死に伸ばした手。それと同じ手を見下ろす。
風が止んだあの場所に立っていたのは、自分が追い掛けていた少女ではなかった。しかし、代わりに立っていた人物もまた、こちらに手を差し出していた。
その者から発せられるのは、少女以上に強い光。逞しい腕から感じたのは、闇をも捩じ伏せる圧倒的な力。畏怖にも似た強い憧れ。
強烈な存在感に引き寄せられ、気が付けば、その手を取っていた。
「俺は、間違ってなんかいない」
あの時の選択は、決して間違いではない。こうして存在していられるのは、あの時に差し出された手を取ったからだ。もしそうでなければ、今もあの深い闇の中に堕ちたままだったに違いない。
そのはずなのに、あの夜の彼女の声が耳にこびりついて離れない。惑わせる。夢の中の少女と同じように。
再度、深く息を吐く。そして冴えた目のまま、再び布団の海に潜り込むのだった。
エリュシェリン王国の西に位置するオルケニアを出航して一週間。船路は順調で、月の光と雲一つない満天の星空が頭上に広がっている。
本来であれば、このような夜は心穏やかに眠ることが出来ただろう。だが、今の心を覆うのは、指先も見えない程の濃い霧。
(このままではいけない。弱みを握られているようなものだもの。勝てる訳がない。でも……)
あの夜を思い出す度、心臓が締め付けられる。震えが止まらなくなる。上手く呼吸が出来ず、身動きすらままならなくなる。
「あ……あぁ……」
記憶を取り戻すことの重要性は、頭では理解している。だが心は、激しく拒絶している。頭と心がちぐはぐで、張り裂ける程に苦しい。震える体に腕を回し、背中を丸めた。
「思い出さなきゃ……早く思い出さなきゃ、いけないのに……!」
「ん……うん……?」
隣のベッドから、微かに寝言が聞こえてきた。ハッと息を呑み、声の方を振り向く。声の主は未だ夢の中であることを確認し、密かに胸を撫で下ろした。
深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。ようやく震えが止まったところで、そっとベッドを抜け出した。壁に掛けてあった純白のロングコートを羽織り、忍び足で部屋を出る。ゆっくりと、ゆっくりと扉を閉めると、足早にその場を後にした。
一方、その頃。別の船室でも眠れぬ夜を過ごす者がいた。
こんな夜は静かに本を読みながら、眠気が訪れるのをのんびりと待つ。または、主である少女に出す問題を作るのもいいだろう。だが今夜は、視線が文字の上を滑るばかり。かといって、布団に入ってじっとしているのも生産性が無い。
周囲の安眠を邪魔しないよう、注意深く部屋を出る。そうして甲板へと足を踏み入れた途端、潮風に頬を撫でられ、気持ち良さそうに目を細める。思いっきり体の筋を伸ばすと、手摺りに背中を預けた。
のんびりと星空を眺める。その時、あることを思い出した。最近の戦闘は魔術ばかりで、ほとんど剣を振っていないということを。
改めて、周囲に目をやる。幸いなことに、人の気配は無い。思い出した頃に夜勤の作業員が通るだけだ。
甲板の中央まで足を進め、手の中に剣を召喚する。その時、あることに気付いた。
「ん?」
何かが聞こえた気がしたのだ。波や風といった、自然の音ではない。人が発する音。
普段ならば、そのまま聞き流すところである。だが不思議なことに、今は音の正体を知りたくてたまらない。
瞬き程の間に剣を消し去ると、導かれるように歩き出した。次第に音が近くなる。
(これは……女性の歌声?)
聴く者全てを魅了する、アカペラの旋律。星空に吸い込まれるように伸びる声は、瞬きや呼吸さえも止めてしまう。この船の名前の元となった、魔物にして海の歌姫とも名高いセイレーンそのものだ。
しばらく歩くと、歌詞も鮮明に聞こえるようになってきた。歌い手は船尾にいるようだ。そうして足を踏み入れると、軽く目を見開き、息を呑んだ。
歌声を奏でていたのは、一人の女性。金髪と純白のコートが、月の光を受けて輝いている。ここからは後ろ姿しか見えないが、自分は彼女を知っている。
珍しくぼんやりとした思考で彼女を見つめる。不意に、歌声が止まった。
「あ……っ」
来訪者の存在に気付いた女性は、肩を揺らして振り返った。と同時に胸に宿るのは、小さな喪失感。だがそれ以上に、優しくて温かい感情が広がっていく。それに連動して、先程までの思考は完全にその姿を消していた。本来ならばそういった状況を好まないが、今夜は何故か、それでいいとすら思ってしまう。
そうした己の内にあるものを微笑みの下に隠し、困惑を隠せない彼女の元へと歩み寄った。
「綺麗な歌声ですね。どこかでセイレーンが歌っているかと思ってしまいました」
「ありがとう、ございます……」
彼女は恥ずかしそうに目を伏せる。月明かりが逆光になってはっきりと分からないが、ほんのりと頬を染めているように見えた。そして時折、窺うようにチラチラと視線を投げかけてくる。
それに気付かない程、鈍感ではない。笑みを浮かべたまま小首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「あの……間違っていたらごめんなさい。貴方とは確か、アクオラでお会いしましたよね? ええと、店員さんが言っていた名前は、確か……エリック、さん?」
「エリック=シューベルトです。擦れ違った程度とはいえ、貴女に名前を覚えていただけたとは。光栄ですよ、イリア=クロムウェルさん」
その瞬間、イリアの目が大きく見開かれる。つい先程までそわそわとしていた彼女の顔色が、瞬く間に凍り付いていく。
「申し訳ありません。初対面と変わらないのに、驚かせてしまいましたね」
「どうして、私のことを……」
「以前の貴女は、エクスカリバーを携えていた。その聖剣を扱える人間は、この世界でただ一人。聖都テルティス、ガルデラ神殿の聖騎士団団長のみ。歴史に学がある者なら、誰でも気付きますよ」
優しくて、柔らかい笑み。それを受けた彼女は、そわそわして落ち着かなくなる。視線を合わせることすら恥ずかしがっているようだ。
不意に、はたと何かに気付いたように、一点を見つめて考え込む。眉間にしわが寄り、険しくしかめられている。だが、しばらくして答えを出したのか、彼女は安堵したように笑みを浮かべた。
それが嬉しくて、愛しくて、エリックはそっと笑みを深める。そんな彼の顔を、彼女はぼんやりと見つめていた。
「イリアさん」
「え!? ……はい?」
「私の顔に何か付いていますか?」
困ったような顔のエリック。その瞬間、イリアの顔に熱が差す。恥ずかしさのあまりに狼狽え、湯気が出る程に熱を帯びた両頬に手を添えた。
「ご、ごめんなさい! あの……っ失礼します!」
顔を俯かせ、逃げるように走り去る。瞬く間に小さくなっていく後ろ姿を見送ったエリックは、たまらず、小さく吹き出した。
ひとしきり笑った後、そっと笑みを潜ませる。
「彼女がイリア=クロムウェルか」
聖剣エクスカリバーを自在に使いこなす、唯一にして絶対の人物。その実態があんなに可愛らしい少女だったとは、思ってもみなかった。
だが、現実に聖剣を手にしていることが何よりの証拠だ。かの剣は自ら持ち主を選び、それ以外の人間が手にするのも拒むと言われているのだから。また、文献の記録によれば、彼女が自分たちの目的の鍵となる。
(それにしても、あの人が言っていた通りの人みたいだな)
可笑しそうにクスクスと笑う。優しげに細められた目。だがその顔は、どこか寂しげな影が差していた。
シルビス連邦国首都、ブルシィド。熱帯に属するこの地域は、朝の早い時間であるにも関わらず、太陽がジリジリと地面を焼いていた。何もしなくてもじんわりと汗が滲んでくるのは、あまり気持ちの良いものではない。辺りに吹く風も生暖かくて湿り気があり、南国特有の植物の葉をゆるゆると揺らしている。
流れゆく人の動きはどこかゆったりとしている一方で、その往来はどの港街よりも激しい。食料や日用品を買う地元住民を筆頭に、冒険者や商人、学者に荒くれ者。様々な老若男女が広大な港を埋め尽くす。
世界一の商業都市であり、学問の街とも呼ばれるブルシィドの港。そこにシレーネ号が入港すると間もなく、船にタラップがかけられ、続々と人々が降りている。久しぶりの陸の感覚。思わずよろけてしまったカミエルに、近くにいたイリアが咄嗟に手を差し出す。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です。すみません」
「何言ってんの。全然大丈夫じゃなさそうじゃん。あそこにベンチがあるから、そこで休んでなよ。アタシが連れてってあげるから」
「うん……ありがとう」
足元が覚束無いカミエルを支えながら、ティナがベンチへと連れて行く。その後ろをイリアとルイファスが歩いていた。
その時、港中に甲高い笛の音が響き渡る。港にいた作業員たちの動きが、さらに慌ただしくなった。新たな帆船が入港したのだ。
一段と激しさを増す人の波。その中で、聞き覚えのある声が耳に届く。
「あーっ! イリアちゃんだー!」
底抜けに明るい声に、思わずルイファスの顔が歪む。と同時に羽音が響き、彼女の肩に一羽の鷹が留まった。
「あら、ホークアイ。久しぶりね」
甘えるように頬ずりをするホークアイ。その体を撫でてやると、気持ち良さそうに鳴き声を上げる。
だが、そんな彼の至福の時間は、唐突に終わりが告げられた。彼女が連れている馬が目に入ったのだ。
俄かに空気が震える中、ホークアイは威嚇をしているかのように羽を大きく広げる。すると、馬は彼女に鼻先を寄せてきた。どこか勝ち誇った様子で、ホークアイなど気にも留めていない。
そんな態度に癇癪を起こすホークアイ。甲高い鳴き声を上げ、腹いせだと言わんばかりにルイファスの顔をはたき始めた。
「おいこら! 俺に当たるな!」
払い除けようとするが、猛攻は止まらない。けたたましく鳴き声を上げる様は、「うるさい! バカ!」と喚いているかのようだ。それを嘲笑うように、馬が一鳴きする。
こうして、鷹と馬の戦いの幕が切って落とされた。彼等の暴れように、イリアたちが立っている場所を中心に円が描かれる。
「……何やってんだ、こいつ等」
彼等を宥めようと四苦八苦するイリアの後ろで、呆れ果てたルイファスが立ち尽くす。彼の馬も呆れたように鳴くばかり。
「何をやっている、ホークアイ!」
辺りに響き渡るのは、女性の鋭い一喝。その拍子に、ホークアイと馬の攻防がピタリと止む。何事も無かったかのように舞い上がり、どよめく人ごみの方へと飛んで行った。
「今の声、もしかして……」
「ああ、私だ」
いつの間にか流れ出した人の間から姿を現れたのは、ホークアイを肩に乗せたアイラだった。久しぶりの再会、そして元気そうな彼女の姿に、イリアは頬を緩ませる。
「良かった、元気そうね」
「おかげさまでな。お前たちも調べものか?」
「いや、俺たちはテルメディア大陸へ行く途中だ。それはそうと、ちょっといいか?」
ルイファスの視線を受け、アイラの表情が変わる。
「イリア、ホークアイ。悪いが、少し席を外してもらえるか?」
その瞬間、ホークアイのアイラを見る目が変わる。「何で俺も?」と言っているかのようだ。そんな彼に「悪いな」と謝罪をし、イリアに彼を預けようとする。離れまいとするホークアイに、アイラは眉尻を下げた。
「少しの間だけだ。すぐに話を済ませて来る」
ようやく観念したのか、ホークアイは大人しくイリアの肩に移動した。がっくりと肩を落とすような姿に、イリアは慰めるように撫でてやる。そして、踵を返そうとしたアイラを呼び止めた。
「どうした?」
「私もアイラに聞きたいことがあるの。……いい?」
「ああ、分かった。後でな」
二人の背中が人混みの中に消える。強張った表情で見送るイリアは、手綱を持つ右手を左手で抑え込んでいた。小刻みな震えが動物たちに伝わらないように。
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