/6

 外は薄暗いまま、朝はまだ来ていなかった。

 何だよ、あれ。

 ぐしゃぐしゃのシーツは気持ち悪い。それはそれは物凄く気持ち悪い。でもむしろそれに纏わりつかれたい。眠った気はしない。髪をかき上げた。

 ――でも、そうなのか、私は。

 寝ころんだまま、壁を軽く殴った。

 ユウの夢だった。寝ていた。どこか知らない部屋。緋色のカーテンの向こうは真昼間で、私は――この私が――、ユウに、あろうことか跨っていた。ふざけんな。この時点で狂っている。お互いに裸で、ユウの顔は思い切り歪んでいた。恐らくは、この、私の顔も。

 私の手はユウの胸のあたりに当てられていた。

「こうしたかったんでしょ」

 動きを止めた私に、ユウは厭にか細い声で囁いた。私は私の惨状を知って、氷の塊を投げつけられた気分になった。

 ユウは、彼は、ユウの顔をしているのに、彼ではなくなっていた。今でも私はこんな身体でぐずっているのに、ユウも私も、すっかり女なのだった。

 どうしようもないくらい、私たちは女だった。

 暑いせいだ。それであんな夢を見たんだ。ふざけんな。マグカップめ。あのひとがマグカップを砕いたせいだ。

 壁を小突いていた指の関節が擦り剥けている。汗で柔らかくなった肌に傷がついている。

 洗面所へと階段を降りた。

最悪なことに――不快な臭いがしている。この家で唯一無二の皮脂の臭い。よりにもよって風呂場には明かりが点いていた。

 さっさと手を洗って寝なおそう。そう思ってトイレから出れば、無遠慮に風呂場の戸が開けられる。

「ああ……よう」

 明瞭さなんてものがすっぽ抜けた挨拶だった。横目でしか私は見ない。父が、タオルでせわしなく身体を拭いていた。

 それだけだった。父は私のすぐ目の前を押し退けるかのようにして通って着替えを手にしている。ここにいてはこのひとの邪魔になるのだろうし、私はさっさと部屋に引きあげる。

 潜り直したベッドで眠ろうとする。けれど頭は冴えすぎていて、眠れないことは解りきっている。父の乱暴な足音が階下で響いていた。

髪の長くなった私を見てもあのひとは何も言ってこない。これまで何一つとして口を挟んでくることもなかった。果たして何を考えているのかわからないし、家であのひとの考え方を理解するひとは誰ひとりとしていない。朝三時に帰って朝五時にはいなくなる。お正月にすら顔を合わせない――さっき会ったはずなのに、顔かたちを思い出せないあのひとは、最早父とすら思えない。ただわかるのは、ああは成りたくないことだけ。あんな臭い、あんなたるんだ身体には成りたくない。あんな無神経には成りたくない。

 夢でみた場所はどこだったのか。東京? けれどあんなに赤い部屋に泊まった記憶はない。もちろんあんなことは私になかった。ユウの寝顔は覚えているけれど、私はひたすらユウに……極論、襲われていたに近しい。別れてもう半年は経った。ネットだけの付き合いで良かった。会おうなんてしない方がずっと良かった。

 会ってしまったから、私は。

 ――ユウのことは好きだよ。でも、ユウの好きと私の好きは相容れないのよ。私はあなたを、あなたと同じように好くことができない。私はあなたと付き合えない。

 文字だけで伝えたあのとき、画面の向こうでユウがどんな顔をしていたか、そんなことも知らない。ありったけ泣き喚いていたのかもしれない。私と同じように。あの子は私と似ているから。

 単純なこと。あの子と寝て、それで私は思い知った。キスは気持ち悪いだけだった。熱は、このシーツの方がまだ快く思えるくらいべたついていた。何をされても、私は酷く冷めきっていた。思考は明後日に向いていて、それではユウを、私は騙すしかなくて、ユウのことは大事で、それで。

 瞼の裏から熱が零れる。私を変えたのはユウで、ユウに好かれたのも私だ。好いているから、大切だから、私はユウと別れるしかなかったのに。だのに、そんなこと関係なしに。

 ユウには伝えない。夢のことなんかじゃなく、マグカップのことも。会話もなくなっているのに、こんなことだけ伝えてどうするんだ。

 眠れないまま瞼を閉じて、身体は動かない。息苦しさが渇きになって痛みに変わって、それでようやく胸のあたりで死人のように組んだ指が動いた。

 部屋はもう明るくなっていた。

枕元のウォークマンを後ろポケットに入れてイヤホンで耳を埋める。蹴っ飛ばした毛布を踏みつけた。こんな早くから暑くなるとかめんどくさい。季節もいよいよぶっ壊れてんじゃんかよ。頭が痛いのは昨夜デパスを飲み忘れたせい。午前九時、そろそろエストロゲンの錠剤と、あとアンドロゲン抑制剤も。

 台所に降りるしかない。

薬の保管場所を移したのはまずかった。あんなもの見つけられたら説明するしかないし。それで良いとか思ったのが大間違い、その結果があの残骸。そりゃあ英文字――なのかどうなのかもわからない小さな文字たち――がびっしり綴られた箱に入った薬だし怪しさ満点。気にしない方がおかしい。どこかの脱法ドラッグみたいに見えなくもない。

 鏡に向き合う。洗面所で念入りに顔を洗う。保湿。

 あんなコップに未練はないけれど、そうではなくて。

 台所はがらんとしていた。陽の光と影のコントラストがくっきりとしていた。母も祖母もいない。欠片のひとつすら残っていない。お茶碗にご飯、お椀に味噌汁、冷蔵庫からトマトジュース。あとヨーグルト。肌荒れ対策の市販薬に近所の薬局からもらっている漢方二種、精神科から処方されたデパス、個人輸入の薬を二種類。飲んでる薬の量は祖母並だ。私の方は思いっきり健康体の若者なのに。

 最後のひと粒を口に含んだときに、勝手口が開いた。

「おはよう」

 祖父だった。朝の散歩帰り。

「……おはよう。暑いね」

 ちょっと迷ったけれど、挨拶を返した。

「暑いなぁ、五月と思えん暑さじゃあて」

 やたらと、血色がよかった。「水も冷てぇのが気持ちよおなったな」と流し台で手を洗っていた。

 ……そのまま、祖父は食卓についた。

「水、要らんのか」

 祖父は、祖父の湯呑に水を注いだ。

「……コップ」

 ちょっと気味が悪いくらい、祖父はにこやかだ。

「……コップ、ないから」

「おお? そうか、ならあっちのグラスでも使ってよかろう。外ぁもう暑うてな、もう真夏みてぇで。水分補給じゃ、水分補給」

「トマトジュース、飲んだから、別に。取ってこなくたって大丈夫」

「薬もそれで飲んだんか」

 あくまで祖父は、笑顔。声色にも不自然さは感じられない。昔の仕事を自慢げに話すときとかと同じ声。

「水なくたって飲めるよ。お祖父ちゃんが飲んでる薬と変わんない、ただのお薬なんだから」

 食べ終わった皿を重ねる。「ごちそうさまでした」

「なあ、文人よ。

 何をしとるんか、祖父ちゃんに教えてくれんか」

「……言って、わかるの」

「おお、そりゃわかる。テレビとかでもよぉ出とるやろう。性同一性障害いうてな。祖父ちゃんが働いとったころには、まだ社会に認知されとらんかったけどなぁ、今ぁもうそんなことありゃあせんのもよぉ知っとる。何や、保険適用になるて厚労省がいうたのもな」

「意外。でも、お祖父ちゃんは、そっか。外のことよく知ってるもんね」

「もうこりゃ癖性分じゃあな。こねぇな燃え滓でも気になっていかんからな。

……まあ、座りゃあよかろう。知っとるからいうて、大事な孫が何も言わんでよおわからん薬飲んどったら、そりゃ心配すらあ」

「お母さんから、聞いた?」

「幸子からか? いいやあ、全然聞いとりゃせん。祖父ちゃんな、文人の掛かっとるお医者さんとも知り合いなんじゃ、会社勤めでな。やから、あのひとが何を診察しとるかも覚えとる。それにな、文人を見とったら、だいたいわかる」

「トマトジュースで薬飲んでることは知らないクセに?」

「おお、すまなんだ、今度から覚えとくけえな。もういかんなあ、こん歳になるとなあ」

「驚いた?」

「まあな。やけぇ、応援しよう思うてな」

「……は?」

「祖父ちゃんは文人が大事じゃ。何も綺麗事じゃあ、ありゃあせん。こんくれぇのときから、よしよしいうてな、そりゃ可愛かったわ。女の子みてぇじゃいうてなぁ」

 祖父の長い眉毛の奥を見定める。一切、微動だにしない。

「何よ、それ。それならどして、ここに座らせたん」

「お祖母ちゃんじゃ。文人もよおわかっとろう」

 いや、この目を、私は見たことがない。このひとがこんな真っ直ぐな目をしているところなんか知らない。

「すまなんだ。許してくれえ。こん通りじゃ」

 祖父は頭を下げた。鳥肌がたつ心地だった。

「……何よ、それ。何でお祖父ちゃんが謝らんと駄目なわけ」

「お祖母ちゃんが、文人のコップを壊してしもうた。ありゃあ大事なひとからもらったモンじゃろうて、なのに止めることもできなんだ。わしから、お祖母ちゃんには、しっかりいうて聞かせる。お祖母ちゃんがああなったんはな、わしの力不足じゃけえな、家のこと任せっきりで、何にもしてこなんだからな。お祖母ちゃんが何言おうと、わしが守るけえな、心配せんでええ」

 祖父は言い切った。母のそれとは違うもの、気迫のこもった言葉だった。

急にこの祖父が背広を着ているように思えた。何年も前に見たきりの、遠くの世界から来たみたいな姿。だらしなく寝転がっている今の祖父はここにいない。溌剌とした気を放つ透明な背広を着た老人と約定を交わした。

 その昼下がり、台所でピンクの錠剤を口に含んでいると、祖母が隣の部屋に黙って座っていることに気が付いた。取りこんだばかりの洗濯物の匂いがしていた。座椅子に腰かけて、祖父は静かに庭を眺めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る