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「自分は、これ以上、男として生きたくない」

 言ってしまった。

 十九の誕生日の夜、私としての第一声。雪でも降っていそうなくらいに冷えたリビングで正座をして背筋を伸ばし、真っ直ぐに母を睨みつける。

 偶然にも祖母は心臓を悪くして入院していた。祖父はどうせ眠っている。父みたいな何かは今日が終わっても帰って来やしない。邪魔は入らないし、母には逃げ場も助っ人もいない。子ども最後の誕生日に与えられたプレゼントは、恰好のカミングアウト日和らしい。

 母の息が止まったように見えた。話があるからと私から告げられても、まさかそんな話を切り出されるとは思いもしなかったのだろう。

 母の目は潤んでいた。何がそんなに哀しいんだよ。泣きたいのはこっちだよ、こんな身体に産んでくれて。噛み殺した言葉は喉を熱くした。吸い込んだ空気が痛い。

「こうして明かしたのは」

 私の身体は震えている。

「あなたに協力してもらわなければならないからです。この家に住んでいる限り、あなたたちに気が付かれることなく、自分の望む自分のための行動ができないから。そして」

 余計な感情が出てしまわないよう、ひたすら冷静に、そして冷徹に。事実のみを端的に伝える。震えは早くも全身に伝染していて、声を出すことも難しかった。止まれ。鬱陶しい。落ち着かせようとすればするほどに、身体の芯から私は揺さぶられた。

 これから殺されるから、この身体は怖がっているのか。

「自分だけでは望む行為における資金や手段を用意できないからです」

 ざまあみろ。私はこんな身体を壊す。こんなものに未練はないから。

 どこかでいつか綻びが出るくらいなら、最初から偽りなく打ち明けてしまおう。そう決めて何度も頭の中で反復した科白を、ようやく私は口にしていた。

「自分はね。もう、男として感情が沸かないんだ」

 母からの気持ちに応えることも、息子が母に対して抱くべき感情も、私は持ち合わせていないのだ。こんなことが異質なことなのだと気が付くために十九年もの歳月が必要だった。誰もが感じるはずの愛情とか友情とか、そんなただの綺麗事が、私が私としていられる場所ではそれが確かに私に備わっている感情なのだという事実を私は知ってしまった。インターネットの中にあるその場所には身体は伴わないけれど、そちらの方が私は満ちたりていた。そこの私は私の感情を受け止められる。それが本当にあるものだとわかる。

 返事はなかった。

「自分、いや、私は。性別を変えたいと思う」

 ならば身体を伴わせてしまえば良い。

 わかってしまえば、私のこの身体が感じる現実が、私が私として私を感じられないくらいには、味気なく空疎なものに感じられた。あらゆることが無意味だった。祖母が倒れようと、もしこの家が明日燃えてしまおうとも、この身体の私は何一つとして感じなかったろうと思う。

 せめて痛みくらいは、感じていたい。それが、私をカミングアウトに突き動かした最大の動機。

「性別が変わったとしても、私は私です。本質的には、ある意味では変わるけれど、ある意味では変わらない。大学もこれまで通り行くし、私への接し方を変えて欲しいとは思わない」

 私が黙っても、母は何も言わなかった。私から目を逸らすこともなかった。このひとは、とかく相手の目を見ることを良しとする。先に目を逸らした方が負けと信じている。思考停止の野性的な理屈だけれど、今回ばかりはそれに従ってやろう。

 沈黙を破るべきか、破らせるべきか。破れば勝ちか、破れば負けか。こいつは何を考えているのか。

 たん、たん、たん、たん。壁にかかった鳩時計の音。将棋を指しているみたい。盤と駒と相手と、持ち時間を刻む時計だけが存在していて、それ以外はブラックアウト。呼吸すら騒がしい。

「文人がそうしたいのなら」口の動きを見る。注視する。血の気が引いた乾いた唇が動いている。「私はそれを支える」母の声も震えていた。

 私は深い息をした。

「ありがとう、お母さん」

 もしかすれば、生まれて初めて、嘘偽りなく母親に感謝したかもしれない。「ありがとう」のイメージはもっと温かくて柔らかいものだったけれど、これはその真逆だ。打算的な伝達と、会話の決着。

 どこまで治療したいのか。治療の内容はどのようなものか。今はどうしたいのか。時間とお金がどれほど必要となるか。調べておいた制度上の事実と、予想される肉体的なリスク。まともには生きられず、まともに死ぬこともできないかもしれないこと。人権と、性転換に纏わる歴史、将来の展望。調べた内容を声に変える。

「――それから。

 当たり前のことだけれど、この手術によって私の生殖能力は完全に消滅します。ある種の、最も、あなたたちにとって重要なことかもしれない」

 あなたの子は、子を成せない。SRSをするのなら当然の話だ。この家の血は私の代で途絶える。祖父と祖母から母へと継がれた遺伝情報は消滅する。ついでに父親の家系も消滅する。大層な家じゃないけれど、一人っ子どうしのこの家系が、ここでお終いになることは紛れもない事実だ。

「尤も、特例法によって定められた条件、即ち生殖能力の不可逆的な永久放棄は、国際的に批判の対象とされています。人権を侵害しているとしてね。日本でこの制度が変更になる可能性は大いにありますが、少なくとも、数年後、もしかすると数十年後かもしれない。このあたりは非常に難しい問題ですし、私個人がどうこうできるものでもありません」

 ここに至って、問題は私の手出しできない領域にある。治療をするかしないかは私の選択だけれど、制度は勝手に変えられてしまう。

 ――28時の光、世界を殺す――。

 外れ調子でテトラがシャウトしていた。なぜだかわからない。突然、頭の中だけで、テトラの曲が掻き鳴らされている。

 ――複雑怪奇な人気者、嬲った傷跡、悪戯ピース、トリコロールがお似合いでしょう? 28時の世界、私を奪う――。

「以上、それでも良いなら、協力してください」

 もしかすると、手術をしても制度上では徒労に終わるかもしれない。SRSが絶対要件でなくなったとき、私がそれを行う理由がひとつ減る。私個人としては、そんな要件だとかは関係なくて、さっさと切って欲しいのだけれど、そんな下世話な話を持ち出す気には成らなかった。

 ――戻れないね!

 一番と二番が混ざった曖昧な歌。そんな歌詞だったっけ。早口で加工もバッチリ、割れに割れたテトラの声。だから頭のなかで歌っていたのか。

 母の頷きが一拍遅れていた。

 震えが温かい。肩と、それから心臓の奥から震えが落下していく。固まっていた血が拡散するような、そんな感覚。このまま眠ってしまいたいような。

 母は洟をすすった。乾いた音だった。

「私は親としての務めを果たす。文人が真剣なのもわかった」

「本当に」

「そんな目で見ないで。お願い。そんな言い方をしなくても、ちゃんとわかってるから」

「……わかった」

「話してくれてありがとう。私も、そんなひとがいることは知ってる。約束する、私は文人の味方」

 母は宣言した。もう一一時半を過ぎていた。これ以上、母に伝えて協力を仰ぐべきことはなかった。

「他のひとには、どう伝えようか。ちょうど……入院したし、父親はろくに捕まらないし。お祖父ちゃんは……言ってもわかるのかな」

 あのひとの心臓が、いっそもう一度止まってしまえば良いのに。うっかり運転をミスして海にでも落ちてくれれば助かるのに。ああ、でも、そっちは駄目。お金が、収入がなくなっちゃう。いつ捕まえればいいのだろう。お正月は家にいるの。とんでもない思考ね、私は。

「お祖母ちゃんには私から言う。文人から言うと、ね、あれだろうから」

 あれって何だよ。突っかかりたかった。

「お父さんとお祖父ちゃんも私に任せて。文人はちょっと待ってて。私から伝える」

 信用ならない。

「本当に? お母さんに任せて、本当に伝えてくれるわけ?」

「約束する。必ず伝えます」

 どうだか。今までこうやって約束してきたことを、このひとは幾つ反故にしてきた? 口ばかりで行動に移さない母親に、何度煮え湯を呑まされてきた? こいつが頼りにならないことは肌身に染みて理解している。

「わかった。それでは、お願いします。必ず伝えてください」

 事務的に、私は口を動かしていた。ここで文句をつければ、どんな反応が返ってくるかもわからない。このあたりが潮時だろう。

 もしかすると、こうして伝えれば親愛の情のひとつでも沸くかもしれないだなんて心配していたけれど、そんなものは杞憂に終わりそうだ。私が変わっても、こいつは変わらない。根っこから腐ってんな、私。そんなものだろうよ。

 ずっとずっと潤ませていた母の目から涙が零れ落ちることは、ついにないままだった。


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