好きな人がいることにした。

石田空

聞こえちゃいけない声が聞こえる気がした。

 耳をつんざくようなブレーキの音。しまったと思う暇もなく、体がぶわり、と浮かぶ。

 全てがスローモーションに見えた。

 歩道を渡ろうとしていた人の驚いた顔や、慌ててスマホを取り出してどこかに電話をかける人たちの声。トラックに乗っている運転手さんの顔は、わたしからだと見えない。

 死ぬ間際には走馬燈が見えるって言うけれど、わたしはなんにも見えなかった。死ぬ前に思い出したいほど、強い思い出はわたしにはまだなかったみたいだ。


間宮まみや……!!」


 わたしを呼ぶ悲鳴が聞こえたような気がしたけれど……誰の声だか思い出せないまま、体がリバウンドする。

 聞こえちゃいけない嫌な音が響いたけれど、不思議と痛みはなかった。ただ、鼻をかすめる生臭い匂いで、頭の片隅で冷静に思ってしまう。

 わたし、死んじゃうんだなと。


****


 ツンと鼻の奥が痛くなり、次に入ってきた薬の匂いに、わたしは目を薄く開いた。天井は白いし、寝かされていたベッドも、ベッドの周りを囲っているカーテンも、全部白かった。

 ここどこだろうと首を動かそうとして、首から嫌な音が響いたのに顔をしかめて、思わず手を伸ばして気付いた。

 首は固定するようにギブスが巻いてあったんだ。これじゃなかなか首を動かすことは困難だ。しかも痛い。

 仕方なく、枕元を手繰り寄せてみた。テレビで病院が映るシーンには、ナースコールを押す場面もあったと思う。どこかにナースコールはないかなと探してみて、手がカチリとスイッチを見つけ出した。わたしは迷わず押してみると、すぐにこちらにパタパタとサンダルの足音が響いてきた。


いずみちゃん! 聞こえますか?」


 ナース服のお姉さんがすぐに来てくれたんだ。わたしはぺこりと頭を下げたくとも下げられない首を、仕方がないから揺らしてみる。


「……はい」

「すぐにお母さんに連絡しますからね!」

「あの……今って何月何日ですか?」

「今は五月二十一日。あなたが病院に運ばれてきて、丸一日寝ていたんですよ」


 そう滑らかに説明してくれたお姉さんは、すぐにナースセンターのほうに帰っていった。

 ひとり残されたわたしは、昨日のことをどうにか思い出そうとするけれど、頭をあのとき強く打ち付けたせいか、全然思い出すことができないことに気付いた。

 学校帰りに、トラックに跳ねられたような気がするけれど……その前後のことは全然思い出せない。

 わたしが意識を戻したことで、すぐにお母さんは飛んできてくれた。お母さんは目に涙をいっぱい溜めて「このお馬鹿!」と言ってくれるのが申し訳なく思いながら、お姉さんに車いすに乗せられて、病院であちこち診てもらうことになった。

 CTスキャンにレントゲン。あと触診で数か所ペタペタ病院服の上から触られて、ときどき「痛い!」と悲鳴を上げた。

 車に跳ねられて、打撲している場所は数か所あったみたいだけれど、体自体は特になんの問題もないらしい。

 ただ、わたしは自分でも不可解だったので、問診で連れてこられた場所で、お医者さんにトラックに跳ねられた前後のことを覚えていないと言ったら、目を少しだけ丸く見開かれてしまった。


「今が西暦何年か答えられますか?」

「えっと……」

「学校の名前と、学年」


 まるで記憶喪失の人にどうこう質問しているみたいだな。そう思いながら答えてみるけれど、抜けている記憶が特に見当たらない。何個か簡単な質問に答え終えてから、先生は「恐らくですが」と付け加えてから、教えてくれた。


「記憶喪失だと思います。泉さんはトラックに跳ねられたことで、脳震盪……激しく脳が揺れました。その際に記憶が飛ぶことがありますが、脳自体にはなんの問題もないために、一時的なものですよ」

「そう……なんですね」

「はい。念のため、一日様子を見てから退院しましょう。体もあちこち打ち付けていますからね」


 そう先生に言われてから、わたしは「ありがとうございます」とお礼を言って、そのまま車いすに乗せられて病室へと戻っていく。

 一日入院することはお母さんにも伝えられたけれど、普段は授業が詰め込まれている中、いきなりなにもない時間を持たされても、どうやって暇を潰せばいいのかがわからない。

 病院内はスマホを使える場所が限られているからと、お母さんにスマホは持って帰られてしまったから、学校の友達に無事を知らせることもできないし、委員会を休むって連絡もできない。

 せめて本の一冊でもあればいいんだけれど、病院の図書スペースは週に一度しか開いてないらしく、開いていたのは昨日だったらしい。残念。

 そうなってしまったら、もう寝る以外にやることがなくて、わたしはベッドに横になるしかできなかった。体が痛くて、なかなか寝返りも打てない。ギブスは明日取るらしいけれど、体に青痣が残ってしまったら嫌だなあと思う。体育のときに変な気を遣われてしまったら、こっちだって困ってしまう。

 わたしの病室は四人部屋で、わたしみたいに交通事故で運ばれてきた人がひとりに、検査入院している人がひとり。あとのひとつは空きベッドになっていたけれど、その内埋まるだろう。

 カーテン越しに、ナースのお姉さんやお医者さんが他の患者さんの診察をしている声を耳にしながら、わたしはとろんとまどろんでいる。

 ときどき寝て、ときどき起きて。ぼんやりとしているのを繰り返していたら、カーテン越しにだんだん空が黄味がかってきていることに気付いた。

 学校ももうそろそろ授業が終わるのかな。委員会のこと、なんて説明しよう。そう思っていたとき、カーテンがシュッと開いた。

 お母さんはもう着替えを置いて帰ったと思うけれど、誰か来たんだろうか。わたしは目を細めてカーテンの開いた方向を見る。


「間宮、大丈夫か?」


 わたしは目を丸くする。

 敷居のカーテンは半開きになっているけれど、誰もカーテンを開いちゃいないし、誰も立ってはいない。

 でも、男の子の声がする。少しだけ甲高くって、どうしてか耳に残る声。


「間宮?」


 男の子の声が、大きく響く。

 ……ちょっと待って。どうして誰もいないのに、男の子の声が聞こえるの?

 目を大きく見開くけれど、やっぱり誰も立っていない。

 単純にわたしが見えていないだけなのかと思って、「いたたたた」と首を動かすけれど、カーテンの向こう側は、ひとつ開いているベッドを除いて皆敷居のカーテンを閉め切ってしまっている。今、この病室にはわたしたちしかいないはずなんだ。

 その、はずなんだ。

 わたしの頭は、真っ白になった。

 病院で、いないはずの声が聞こえるって、つまりは。


「おい、まみ……」

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!」


 真新しい病室だから、あまり気にしないようにしていたけれど。でも。

 わたしはパニックを起こして大声を上げてしまったら、パタパタとサンダルの足音が近付いてきた。

 誰もいないはずなのに、男の子の声が聞こえるって、なに? これはわたしの妄想? 幽霊の声? どういうこと?

 本の読み過ぎなのかもしれないけれど、交通事故が原因で霊感に目覚めるとか、手垢がついたお約束じゃないの。

 しかもよりによって、病室でそんなもの持たされても、困るよ……!!

 ひとしきり叫んだら、だんだん頭に酸素が回らなくなってきて、そのまま疲れて意識が遠のいていく。


「ちょっと泉ちゃん!? いきなり悲鳴を上げてどうしたの!?」


 ナースのお姉さんに声をかけられたけれど、もう意識が遠くに追いやられてしまったわたしに、返事をする術は失われていた。

 ぷつんと、意識は途切れてしまった。


****


「うう……」


 それからわたしは、「誰も見えないのに、声が聞こえる」と素直に言ってしまったために、再び病院内を車いすでたらい回しされることになってしまった。

 またCTスキャンを受けて、レントゲンを撮って、今度は視力検査や聴力検査まで行う羽目になってしまったし、家に戻っていたお母さんだって呼び戻されてしまった。

 そんな大げさな……と思っていたけれど、ナースのお姉さんにきつくきつく言われてしまった。


「トラックに跳ねられて、打撲だけっていうのは本当に奇跡に等しいんですよ! でも、トラックに跳ねられた直後はなにもないからって放っておいて、あとで大変なことになることだってあるんですからね! 面倒くさがらずに全部の検査を受けないと駄目ですよ!」

「はい……」


 思わずしゅん、としたし、途中でお母さんだけ先生に呼び出されたものの、結果としてわたしは悪いところはなにも見つからなかったらしい。

 それでも、一日の検査入院だったはずが、三日間入院って、入院日が伸びてしまったのに、わたしは不安になる。わたし、知らないうちにどこか悪くなってたのかな。

 ようやくベッドに戻ったあと、先生に呼び出されていたお母さんがやってくるので、わたしはおずおずと口を開いた。


「あの……お母さん。わたし、なにか悪いところがあったの?」

「ううん。ちっとも。あなた交通事故に遭ったとは思えない位健康そのものだって、先生も驚いてらっしゃったわよ!」


 そうお母さんは明るく言うので、わたしは思わず肩を落とす。それにお母さんはカラカラと笑う。


「トラックに跳ねられたせいで、ナイーブになっているだけよ。大丈夫。本当にどこにもなにもないんだからね?」

「うん……」


 お母さんはそう言ってから「それじゃ、お母さん帰るわね。明日また着替えを持って来るから」と帰っていくのを見送った。

 先生やお母さんが「どこも悪いところはなかった」と言うのに、どうして入院日が伸びたのかの理由は、結局は教えてもらえなかった。わたしはごろんと寝返りを打つ。寝てしまおう。不安で押しつぶされそうなら、押しつぶされてしまう前に眠っちゃおう。そう思ったとき。

 敷居のカーテンの向こうに誰かがいるような気がした。もう一度目を凝らすけれど、お母さん以外には誰もいないし、もう男の子の声は聞こえない。

 本当に、気のせいだったんだよね。

 その日はそう思うことにして、わたしは夕食の時間まで今度こそもう一度寝ることにした。寝る以外になにもやることがないって、本当に退屈だな。そう思いながら、目を閉じた。


****


 今日は土曜日で、半日授業だったせいか、学校の友達も学校帰りに病院までお見舞いに来てくれた。


「泉ちゃん、本当に大丈夫!? 入院日が伸びたって聞いたから、本当に心配して……っ!」


 普段は滅多に大声を出さないのに、友達の沙羅さらちゃんは感極まった声を上げると、わたしにギューッと抱き着いてきた。

 嬉しい。嬉しいけれど、痛い。わたしはギューギューと抱き着く沙羅ちゃんに目を白黒とさせていたら、絵美えみちゃんが声を上げる。


「沙羅、沙羅。泉の首が絞まっちゃうよ。それにほら、トラックに跳ねられたところなのに、打撲した場所に当たったら痛いでしょ」

「ああ、ごめんね!」


 大きな瞳に涙を滲ませながら、ようやく沙羅ちゃんは離してくれた。落ち着いている絵美ちゃんまで、目尻に涙が浮いている。わたし、ふたりにそこまで心配かけちゃったんだなあと、事故のことを全然覚えてないなりに反省する。


「う、うん……本当に大丈夫だからね、でもほら、ここは個室じゃないから、あんまり騒ぐと迷惑だよ……」


 わたしはできるだけ声を小さくすぼめてそう訴えると、慌てて沙羅ちゃんは両手で口を抑えた。


「ご、ごめんね……」

「ううん、いいの。ほら、車いす使ったら食堂まで行けるし、そこでしゃべろう」


 わたしがそう提案したことで、食堂に移動することになった。

 この一日で、わたしも車いすにすっかり慣れてしまった。わたしは沙羅ちゃんにおっかなびっくり車いすを押してもらいながら、一緒に食堂まで向かう。

 ここは病院内でも数少ないスマホを使っても大丈夫な場所だし、日当たりもいいから、食事時間以外は入院患者さんとお見舞い客の憩いの場として使われているし、ここでだったら食事制限さえかかっていなければお見舞いのお菓子を食べても大丈夫だ。

 入院食は、はっきり言って味が薄すぎておいしくないから、沙羅ちゃんと絵美ちゃんが持ってきてくれた駅前のパティスリーのプリンの卵の味がひどく懐かしくて、わたしはガツガツと夢中で食べてしまっていた。


「おいしい……うわあん、おいしいよう」

「泉ちゃん大げさ。入院食そんなにまずかったの?」


 沙羅ちゃんは笑いながら、絵美ちゃんは呆れて半笑いで、自分たちのプリンには手を付けずにわたしががっついているのを覗き見てくる。

 そう気付いて、わたしは食べるペースを少しだけ落とすけれど、もうカラメルソースの部分がスプーンに付いてくるだけで、プリンの部分がすくえない。


「まずいっていうよりも、味がないの。多分風邪ひいてずっとお粥しか食べてないって口には合うと思うけれど、わたし事故で入院しただけで、別に病気じゃないから」

「それってまずいって言うんじゃないかな」

「ダイエットにはいいと思うよ」

「それってやっぱりまずいんだよ」


 適当なことをしゃべりながら、学校の様子を聞く。

 授業のこともだけれど、わたしが入院していると図書委員の当番には既に連絡が入っていること、クラスの噂話。担任がまた子煩悩で新しい子供の写真をスマホに入れて自慢しているとか。

 わたしがいてもいなくっても、学校生活に変わりはないんだなあ。そうしみじみしながら、プリンのカップのカラメルソースをあらかたすくい終えたとき。

 沙羅ちゃんがちらっと食堂の外を見るのが目に留まる。今は入院患者のおじいちゃんがお孫さんとしゃべっているのが目に入るくらいで、誰もいない。


「沙羅ちゃん?」

「ううん、なんでもない。入院日が伸びたけれど、月曜日には戻ってこられるんだよね?」

「うん、そのはず。先生が大げさだったんだよ。わたしが頭の打ちどころ悪かったんじゃないかって、再検査するから」

「え……なにかあったの?」


 絵美ちゃんが険しい顔をしながらわたしを見てくるのに、わたしは言葉を詰まらせる。

 お母さんは学校にはどこまで話したんだろうなあ。多分沙羅ちゃんもうちに電話して、入院日が伸びたことまでは話しただろうけれど、再検査の原因までは話さないと思う。

 わたしは一瞬だけ目を泳がせたあと、どうにかでたらめを口にする。


「わかんない」

「えー……なあに、それ」

「先生たちが騒ぎ過ぎたんだよお」

「えー」


 絵美ちゃんは笑いながら、空っぽになったプリンのカップを集めると、ビニール袋に全部入れた。

 そして沙羅ちゃんは「はい、入院中、暇なら読んで」とわたしに紙袋をくれる。中には文庫の小説がいっぱい入っているのに、さすが沙羅ちゃん、わたしの趣味がわかっていると、ありがたくそれを膝の上に乗せる。


「とりあえず、入院して暇だろうけれど、明日もまた様子見に来るからね!」

「えー……いいよ、明日は日曜でしょう?」


 日曜だったら休みだし、わざわざわたしのために休みを潰さなくても……と肩を竦めるけれど、絵美ちゃんが「なに言ってるの!」と笑う。


「金曜の分のノート、全然取れてないでしょ? これだけ元気だったらノートくらいは写せるだろうから、ちゃんとノートを写しちゃいなさい!」

「授業も一日抜けてたらわからない場所あるかもしれないから、教えるから。ね?」


 そう言うふたりのスパルタに、わたしは「はあい……」と肩を落とした。

 現国以外の成績は、お世辞にもよろしくはない。多分一日だけしか授業休まなくて済んだとはいっても、わからないところがいっぱいだろうなと思うと、気が重い。

 ふたりが帰っていくのを見送ってから、わたしも車いすを動かして病室に戻る。おいしょとベッドに座ってから、もらった紙袋の中身を眺める。図書館でずっと借りる順番を待っていた追いかけている小説家さんの最新刊に、ミステリー小説の短編集。あとエッセイが数冊。土日でちょうど読み切れる量なのに、さすが沙羅ちゃん本当にわかってると口元が緩む。

 どれから読もうかなとわくわくしていたところで「うげえ」と耳元で声が聞こえたのに、わたしは気付いた。

 思わず顔を上げると、わたしが文庫本の物色をしている間に敷居のカーテンが開いていた。

 今は、誰もいないはずなのに。


「あ、あの……?」

「すげえなあ。文字がむっちゃ小さい」


 わたしがパラパラめくっている文庫のほうに声がかけられたのに、わたしはダラダラと冷や汗を流す。


「ゆ、幽霊……さん?」

「なにそれ」


 ずっと錯覚かと思っていた。気のせいだったんだと思い込もうとしていた。でも、たしかに。

 ここに男の子がいる……!

 わたしは思わず悲鳴を上げそうになったのに、先に「しぃー」と声がかけられる。


「大声で叫んだら困るんだろう? 隣のおばちゃんとか飛び起きちゃうだろ?」

「そ、そうなんだけれど……!」


 わたしは思わず声を萎めながらも、ちらちらと見る。

 やっぱり声だけ聞こえるのに、男の子の姿は見えない。


「あの、あなた……誰? どうして見えないの?」

「んー、わかんねえ。どうして見えないんだろ」

「や、やっぱり幽霊……」

「あーん、もう。その幽霊さんってやめろよ。なんかそういうのさあ、こそばゆいというか、変だろ、それ」


 幽霊のはずなのに、全然おどろおどろしくない人懐っこい声に、わたしは毒気が抜かれてしまった。

 昨日はびっくりして叫んだ挙句に酸素が足りなくなって気絶しちゃったのに、しゃべってみたら、不思議と落ち着く。

 見えない男の子はしばらく黙ったあと、こう言った。


「じゃあさ、俺のことはレンって呼べよ。お前はどう呼べばいい?」


 そう提案してきたのに、わたしは目をぱちくりとさせてしまった。

 見えない男の子に、名前を聞かれてしまったら、いったいどう答えるのが正しいんだろう。


「なあ、どう呼べばいいんだ? 間宮? 泉? さん付けとかちゃん付けのほうがいい?」


 じれたのか、見えない男の子にせかされ、わたしはどうしようと、膝に視線を落とす。そもそも、男の子に名前を呼ばれたことなんて、幼稚園以来一度もない。


「わ、たしは……間宮で、いいです……あの、あなたも苗字を教えてくれたら、それで……」

「えー、別にいいだろ? レンで。呼ばれ慣れてるし」


 ……見えない人が呼ばれ慣れているって、いったいどういうことなんだろう。

 そう思ったけれど、ツッコミを入れる度胸もないわたしは、おずおずと口を開いた。


「じゃ、じゃあ……レンくんで」

「別にくんはいらないんだけどなあ」

「わ、たし……恥ずかしいけれど……男の子を名前で呼んだこと……幼稚園の時以降、一度もなくって……」

「え、マジか」


 レンくんが驚いたように声を上げるのに、わたしは縮こまってしまった。

 なんだか見えない人に馬鹿にされたような気がするけれど、残念ながら見えない彼が、いったいどんな顔をしているのかはわからなかった。

 ただレンくんは感心したように「はあ……」「はあ……」「そっかあ……」としきりに言っているのがいたたまれない。

 ……派手なグループだったらともかく、地味で目立たない普通のグループにいるわたしは、男の子とまともにしゃべったことがないから、遠巻きで見るので精一杯で、声をかけたことも、まともにおしゃべりしたこともないよ。

 わたしが縮こまっていると、レンくんは「そっか」と言いながら、言葉を続ける。


「じゃあ、間宮がそれでいいんだったらそれで。じゃあな、明日もまた、来るから」

「えっ……来るって、ここに住んでいるんじゃないの?」


 幽霊って、一定の場所に留まっているものじゃなかったの? それとも、それはわたしが本で読んでそう思っているだけで、実際は違うの?

 わたしの素っ頓狂な言葉に、レンくんは「ぷっ」と噴き出したかと思ったら、笑い出してしまった。きっと見えていたら、お腹を抱えて笑っているような感じだ。


「あー……ごめんごめん、別に馬鹿にしたんじゃないんだ」


 ひとしきり笑い声を上げてから、まだ笑って声が突っ張っているのをそのままに、レンくんは言う。


「ただ、間宮は面白いなと思っただけで」

「えっと……世間知らずで、ごめんなさい……?」

「いや、そういうのじゃなくってさ。うん。まあいいや。それじゃあ、またな」


 それだけ言って、今度こそ彼の声は聞こえなくなってしまう。見えない彼は、本当になんの痕跡もなく「いなくなってしまった」んだ。

 わたしは読もうと思っていた文庫本を紙袋に戻し、ベッドの脇のカウンターの上に置き直すと、ベッドにぽすんと沈んだ。本を読む気が削がれてしまったんだ。

 思わずしゃべってしまったけれど。結局あの男の子は誰だったんだろう。

 幽霊じゃないとしたら、透明人間? それともわたしはずっと夢を見ているの?

 思わずふにっと頬をつねってみた。痛くない。続けて爪を立ててみる……痛い。夢じゃない。

 さっきまでの出来事は、やっぱり夢ではなかったんだよねと思いながら、レンくんが言ったことを思い返していた。

 明日になったら、また来るって言っていたけれど。また声をかけてくるのかな。本当に今いないのかな。見えないんだからわからないよ、そんなこと。

 わたしはベッドにごろんと寝転がった。やっぱりまだギブスが痛い。きっと彼は、見えたら格好いい人なんだろうな。こんな地味なわたしに明るく声をかけられる人なんだもの、きっといい人だ。

 そう思いながら目を閉じた。

 見えない男の子と、明日も会える保障なんてないけれど。


****


 日曜日になったら、近場だけでなく遠方からのお見舞い客が増えて、たくさん席のあるはずの食堂だって混雑してしまう。

 だからわたしは沙羅ちゃんや絵美ちゃんと食堂で勉強するのを諦めて、ナースのお姉さんから来客用の椅子を借りてきて、わたしのベッドの周りで勉強をはじめた。

 案の定、数学は一日進んだだけでちんぷんかんぷんになってしまい、沙羅ちゃんに丁寧に説明してもらわなかったら、もう授業をドロップアウトしてしまうところだった。


「以上……これでわかったかな?」

「うーん、なんとか……」


 普段は優しい沙羅ちゃんも、勉強を教えるときはスパルタだ。わたしがヘロヘロになって教科書を閉じたとき、ようやく笑ってくれた。


「うん、これだったら、次の小テストも大丈夫だよ」

「考えたくない……もうちょっとしたら検査して、退院だけれど……」

「なら授業に遅れることもないから、大丈夫でしょう?」

「そうなんだけど……」


 スパルタっ。わたしがそう思いながら唇を尖らせていたら、絵美ちゃんが「それじゃさっさとノートを写しちゃってね」と日本史と化学のノートを広げるので、それらもひいこら言いながら写し終えた。

 それにしても。わたしはノートを写しながら、ときどき耳を澄ませる。

 今日も来るって言っていたはずのレンくんは、今はいないみたいだった。声しか聞こえないから、わからないんだけれど。

 わたしがときどきノートを取る手を止めて、ちらちらと入り口を気にするのに、絵美ちゃんが「なあに、泉?」と笑う。


「えっ……なに?」

「誰か待ってるの?」


 そう言われて、わたしは思わず顔を上げる。まさか見えない男の子がいないかなと探しているなんて言えないし、そもそも見えない男の子の説明なんて、わたしだってできない。

 だからわたしは精一杯嘘をつくしかできなかった。


「お母さん。もうちょっとしたらギブス取ってもらって、退院処理するから」

「そっかあ……もうちょっとしたら、なんだよね」


 絵美ちゃんは納得したように頬杖を突きながら、わたしがノートを取れた部分に視線を落としていた。

 逆に沙羅ちゃんは困ったように眉を下げる。


「じゃあ、私たち、そろそろ帰ったほうがいい? 退院の準備するときに、邪魔でしょう?」

「ううん、今日は人が多いから、退院の処理ができるのは夕方まで時間がかかっちゃうんだって。だから、ノートを全部写すくらいはできるよ」

「そう? ならいいんだけど」


 そう納得してくれたのに、わたしはほっとする。まさか、レンくんのことなんて言える訳もないから。見えない男の子の声を聞いたせいで、入院日が伸びたことなんて。

 わたしがそう思いながらノートをどうにか写し終えると、絵美ちゃんが「そういえばさあ」と口を開くので、わたしはノートを閉じる。


「なに?」

「退院したらさ、泉。図書委員の当番、大丈夫?」

「えっと……大丈夫だけれど、どうして?」

「どうしてって、だって」


 絵美ちゃんが気を遣いながら口を開こうとするけれど、それより前に沙羅ちゃんが「絵美ちゃんっ!」と肘鉄をしてきた。

 えっ、なに?


「あの……なにかあった? 図書委員は、いつものことだから大丈夫なんだけれど」

「ううん。泉ちゃん、いっぱい体打ったあとだから、肉体労働は大丈夫かなと思っただけで」

「あー……しばらくは診断書出すから、体育の授業は休みになると思うけれど、それ以外は無理な運動さえしなかったら大丈夫だって先生が言ってた」


 わたしは答えながらも、沙羅ちゃんと絵美ちゃんの言葉にひたすら首を傾げていた。別に変なことはひと言もなかったと思うけれど。

 あと図書委員。わたしが入院してしまった日は、ちょうど当番日だった。当番を一日休んでしまって迷惑かけてないかなと心配したけど、それ以外は特になにもなかったはずだ、多分。

 わたしが訝しがっていたら、絵美ちゃんはトントンとわざとらしくノートを畳んでテーブルを突いてから、鞄にしまい込む。


「それじゃ、私たちもそろそろ帰るから! 明日はちゃんと学校来てね!」

「え? うん。わかった。本当にノートありがとう」

「いいのいいの! じゃあ沙羅も行こう!」

「うん。泉ちゃんまたね」

「またね」


 慌ただしくふたりが出て行ってしまったので、わたしはぱちくりとしながらふたりの背中を見送った。

 なんだろう、ふたりともなにか隠してるような……。そう思ってみたものの、ふたりしてわたしを騙しても、特になにもいいことはないような気がする。

 気にしない方がいいのかな。そう思いながら取り終えたノートを鞄に入れて、お母さんが来るまで沙羅ちゃんの貸してくれた本を読みはじめた。

 食前食後、消灯前に読んでいたら、なんだかんだいって薄い文庫はあと一冊で読み終わるところまで読み進めていた。これなら、月曜日に学校行ったときには本は返せるだろう。

 わたしがパラリとページをめくった、そのとき。


「あれ、また本読んでる」


 そう声がかけられて、気が付いた。レンくんの声だ。わたしはきょろきょろと目線をさまよわせるけれど、やっぱり見えない。


「レンくん?」

「おう。元気してたか?」


 明るく声をかけられると、本当に不思議だ。見えないことを除けば、彼からは幽霊特有の湿っぽい雰囲気を感じない。それはわたしがオカルト体験をしたことがないのが原因なのか、レンくんは透明人間なのかはわからないけど。

 わたしは頷くと、レンくんは「そっかそっか」と反芻する。


「なに読んでんだ?」

「ええっと、追いかけている作家さんの本……」

「タイトルは?」

「……あんまり興味ないと思うよ?」

「有名な本じゃないんだ?」

「うーんと……知る人ぞ知る人。かな……」


 レンくんに次々と聞かれて、わたしはしどろもどろになりながら答える。

 本の説明をするのは苦手だ。だって本を好きじゃない人は、そもそも教科書に載っているような作者以外の本は知らない。ミーハーな活字読みの人だったら、そもそも流行作家やドラマ化映画化された小説じゃなかったら知らないから、マイナーな本の名前を上げても「ふーん」の相槌だけで、会話が途切れてしまうから。

 わたしが言葉を詰まらせていたら、レンくんは人懐っこい声で続ける。


「どんな話?」

「ええっと……剣道を習っている男の子の青春小説、かな」

「主人公は高校生なのか?」

「違うよ。ええっと……舞台は江戸時代で、地方の話なの」


 たどたどしく説明するのがもどかしい。本を好きだというと、本好き同士だったら盛り上がるけれど、それ以外の人に話をしたら、だいたいどちらかが聞き役になってしまって、会話のキャッチボールにはならない。

 こんな話をして楽しいのかな……。だんだんと声がすぼまっていくけれど、レンくんは「そっかそっか」と適度に相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれたので、少しだけほっとする。……きっと彼は、見えない男の子だから、最後まで話ができたんだ。見える男の子だったら、きっとここまで話をすることなんてできない。

 わたしが話の内容を説明し終えたら、レンくんは「間宮は」と声を出す。


「本が好きだなあ」


 そうしみじみとした感想を言われてしまうと、わたしは思わず縮こまる。

 本が好きだとイコール頭がいいと思われるせいで、本を読んでいると勝手にわたしのことをでっち上げられてしまう。

 そのせいで、友達以外にはあまり本が好きだと言えないし、話題にもしない。だからそう言われてしまうと、どうすればいいのかわからなかった。

 返事に困っていると、レンくんのほうからきょとんとした声が返ってきた。


「あれ、俺変なことを言ったか?」

「い、言ってないよ? 言ってない……」

「ふうん」


 レンくんがどういう顔をして相槌を打っているのかはわからないけれど、多分悪い人ではないんだろうなと思う。

 わたしはほっとしていたところで「泉ー」と言う声が聞こえてきたのに気付いた。

 お母さんが来たってことは、退院処理が終わったんだと思う。


「あのね、わたしもうちょっとしたら退院なの。ギブス外して、検査を終えたら退院」

「そっか。おめでとう」

「ええっと、レンくんも最初会ったときに、叫んでごめんなさい」


 そう言うと、レンくんは「いやいや」と笑う。


「別に気にすんなって」

「でも……もう、お別れだし……」

「え? どうして?」

「ええ?」


 意外なことを言われて、わたしはきょとんとした。

 レンくんが幽霊なのか透明人間なのかはわからないけれど、わたしが退院したら、もう会わないんじゃあと、そう思っていたのに。

 わたしが呆気に取られていたら、あっさりとレンくんは言う。


「だって、明日からまた会うだろ?」

「ええ……?」

「間宮はそそっかしいから、見といてやるから、気にすんなって」


 そう言われてしまい、わたしはますます目を剥いてしまった。

 ……ちょっと待って。どうして、見えない男の子が、わたしについてくるの? それ、どういう意味?

 わたしが目を白黒としている間に、レンくんは「じゃあな、また明日」という声を残してなんの痕跡も残さずにいなくなってしまった。

 どういうことなの。ちょっと待って。どういうことなの。

 わたしが心臓をバクバクさせている間に、カーテンが開いたかと思ったら、お母さんが入ってきた。


「あら、泉。そろそろ検査に行くけど、大丈夫?」


 その言葉に、わたしはなんの返事もできなかった。

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