エピローグ
「ライズさん、所長は今日来ていないんですか?」
遅い午後の時間。
前日に行った実験データを書類に書き込んでいたら、ティオに呼び止められた。
そういえば、彼女には商品に添付する書類を所長に確認してもらうよう頼んだんだっけ。
目を彷徨わせてカレンダーを確認して、ライズははたと気づいた。
ここ数年は毎日出勤する真面目な上司になっていたので、すっかり忘れていた。
「ごめんなー、ティオ。オレも忘れてたけど、今日リト休みだった」
珍しく休日の届けまで出してくれてたのに、完全に記憶から飛んでいた。
ちなみに、なぜリトが上司であるカミルではなく、部下のライズに休日届けを提出しているのか。
それはカミルが事務的な仕事には一切触らないため、開発依頼で多忙なリトに代わって管理しているためである。
「所長がお休み取るなんて珍しいですね。心臓の病気、まだ悪いのかな」
「病気に関してはだいじょうぶみたいだよ。あれから一度も発作起きてないみたいだし」
「じゃあ、ラァラちゃんの病院通いですか?」
「あー、そっか。カミル様がリトの家に不法侵入した挙句、ラァラちゃんを拘束して羽むしったっていうひっどい傷害事件。そんなことあったっけなー」
やばい。今、絶対顔引きつってるとライズは気付くが気にしないでおく。
未だにカミルが無害な少女にやらかした行為について、まだ許せていないのだ。
「あ、あのライズさん、まだ怒ってます?」
「もちろん。小一時間の説教じゃ足りないくらいさ。まあ、でもラァラちゃんの翼はまだ治療途中とはいえ、経過は順調だから大丈夫だよ」
「そういえば翼の診察はライズさんがしているんでしたね。じゃあ、ラァラちゃんの診察でもなければ、所長どうしたんでしょうか?」
不思議そうに首を傾げるティオに、ライズはくすりと笑う。
「今日はね、学園に用事があるんだってさ」
「学園って……銀竜魔法学園、ですか?」
「そうそう。今日はね、ラァラちゃんが学園に入学する日なんだよ。後見人として、リトも付き添ってるんじゃないかなー」
ライズがレイゼルに拉致される事件の後、リトは身寄りがいないという
提出した書類はきちんとしたものだったし、身元を保証して一国民として生活させてあげることにはライズも異論はない、のだが——。
(なぁんか、引っかかるんだよなあ)
ライズがレイゼルに襲われた時、心臓の発作で倒れたリトをラァラは拾ってくれたらしい。
なんでも、彼女はたまたまあてのない旅の途中で通りがかったとか。
天涯孤独の少女が一人っきりで旅なんてするものだろうか。
しかもラァラは
そういえば、リトを介抱してくれた医者のことも詳しく話してもらってない。
ティオはなにか知っているようだが、あまり話してくれない。さすがに彼女相手に厳しく問い質すなんて、ライズにはできそうにもない。たぶん、口止めされているのだろう。
「リトのやつ、何隠してんだろうな……」
ぽつりとつぶやいてから、ライズははっとする。
しまった、心の声が口から出ちゃった。
あわててティオは見れば、彼女は不思議そうに首を傾げている。
「そういえば、ライズさん珍しいですね。いつも所長には丁寧な敬語を使って、滅多に呼び捨てになんかしないのに」
「え、あ……そっち?」
どうやら彼女はライズの発言について違和感を持たなかったようだ。
内心でほっとしつつ、なんて答えたものか考える。
「んー、だってリトってもう見た感じオレとタメくらいになっちゃったじゃん? まあ、身長はオレの方が負けてるけどさ。もちろんリトは上司なんだけど、オレにとっては大事な友達だから」
言葉にすると、照れ臭くなってくる。
笑って誤魔化すと、ティオは顔を綻ばせた。
「そうですね。きっと、所長もライズさんのことは大切な友人だと思っていますよ」
* * *
雲ひとつない空に桃色の花びらが舞う。
時期が近いのもあったが、ちょうど入学式に間に合って良かった。
そう思い、リトはベンチに座って空を見上げる。
ざあっと風が吹き、彼の長い髪を撫でた。
「ここにいたのか、リト」
芝生を踏む音がゆっくりと近づいてくる。リトは表情を変えずに顔を上げた。
背が高い、壮年の男だった。
シワひとつない紺の背広に革靴といった、きっちりした装いだった。
「久しぶりだな、セリオ」
立ち上がって、リトは口角を上げた。
壮年の男——セリオは黙って近づくと片手を振り上げ、その黒い頭にゴツンと拳骨をくらわせた。
「……痛い。何をするんだ」
不満げに口を引き結ぶリトを見て、壮年の男は深いため息をつく。
「なにが久しぶりだ、馬鹿者。いつもいつも手紙を送っても返事を寄越さないくせに、二百年ぶりに珍しく連絡がきたかと思えば、退行して身体が縮んでいるじゃないか。まったく、おまえの親代わりである私の身にもなってみたまえ」
「親代わりじゃなくて、後見人だろ。それにとうの昔に俺は学園を卒業して、開発部の所長になってる。自立してるんだからもう俺の面倒は見なくていいんだぞ?」
「そんな子どものようなおまえに言われても説得力がないぞ、リト」
両手を腰に手をあてて、セリオはリトをまっすぐに見る。
ああ、説教が始まる。こういう仕草をする時、彼は決まって悪いことをしでかした生徒を教え諭す教師のように、長い説教を始めるのだ。……まあ、実際彼は学園の教授なのだけど。
「いいかね? 我々
「俺たち
「知っているならば、おまえは今自分に降りかかっている状況を今一度よく考えてみることだ。若返るということは、子どもに戻るということだ。そして子どもは信頼している大人に助けを求める。だから年齢退行が自衛の一種だと言われるのだ」
くどくどとした口調だった。うんざりしかけたが、彼の声が震えているのにリトは気付く。
よく見るときつく細められた彼の紺色の目はわずかに揺れていた。
「もしかして……心配、したか?」
「当たり前だ。たしかに私はおまえの後見人だが、おまえのことは我が子のように思っている。……だから、たまには帰ってきなさい」
くしゃりと大きな手のひらがリトの黒い頭を撫でる。
女王の兄ラディアスを匿っている以上、セリオの言葉には素直に頷けない。しかし、無碍にもできなかった。
「仕事もあるから帰るのは難しいけど、顔を見せには行くよ」
「ああ、そうしなさい。彼女——あの
「もちろん。礼もかねて必ず行くよ。だからあの子を、ラァラのことを頼む」
セリオは頷いてくれた。
大丈夫、と目を向けて、笑ってくれた。
「私が責任をもって、彼女が良い学園生活を送れるように見守ることを誓うよ」
「ありがとう」
彼は約束を守る男だ。そして自分よりもずっと善良で、いい教師だ。
だから、大丈夫。
ラァラは学園での生活が始まり、そしてリトはラディアスと彼女を迎えた同居生活が始まるのだ。
こんなわくわくすることは、すごく久しぶりだ。
散っていく桃色の花を風がさらう。
ひらりひらりと舞うたくさんの花びらが、そして周りにいる風の精霊たちが祝福してくれているみたいで。
リトは嬉しくてたまらなかった。
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